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「謹んで、お受けいたします!」
ヨミの、歓喜に満ちた承諾の声が、王都の喧騒(けんそう)にかき消されることなく、カインの耳に確かに届いた。
カインは、自分の顔を掴んでいたヨミの小さな両手を、その大きな無骨な手で、包み込むように握った。
「……後悔は、しないか」
カインは、最後の確認のように、低い声で尋ねた。
「王妃の地位ではなく、辺境の、雪深い砦の『領主夫人』という立場だぞ」
「後悔?」
ヨミは、心底、不思議そうな顔をした。
「なぜです?『王妃』という地位には、最新の研究棟は付属しておりませんわ」
「……」
「ですが、あなたの『妻』という地位には、それが付属する。違うのですか?」
「……違わん」
「ならば、比較するまでもありませんわ。私にとって、これ以上の『最高の条件(プロポーズ)』は、この世に存在しません」
ヨミは、うっとりとした表情で、自分の未来の研究室(ラボ)を夢想していた。
(ああ……最新の魔力測定器。王立研究所にしかなかった、高純度の触媒精製釜)
(それら全てが、私の自由に!)
(カイン殿という、生涯かけて分析しがいのある『検体』のそばで!)
彼女の顔が、興奮でカッと赤くなる。
「……」
カインは、その顔を見て、初めて、自分の選択が、完全に正しかったことを確信した。
この女を繋ぎ止める鎖は、金でも、地位でも、愛の言葉でもない。
ただ、『未知への探求心』と『最高の研究環境』。
それを、自分だけが、彼女に与えることができる。
「お、お、お嬢様ぁ……!」
その時、馬車の陰から、感涙にむせぶハンナが、顔を出した。
「け、結婚……!おめでとうございますぅ……!」
「ハンナ。うるさいですわ。まだ『予定』です」
「で、ですが!理由が!理由が『研究棟』だなんて……!お嬢様らしすぎて、わたくし、涙が……!」
「褒めているのですか、あなたは」
ヨミは、ハンナをジロリと睨んだが、その頬が赤いのは、決して怒りだけではなかった。
カインに手を握られたままの自分の状況に、ようやく気づき、胸が、また、あの心地よい痛みでズキズキと鳴っていた。
「……カイン殿」
「なんだ」
「その手。いつまで握っておいでですの?分析が狂います」
「狂えばいい」
カインは、手を離すどころか、さらに強く握り込んだ。
「……っ」
「貴様が、俺の『妻』になるということは、貴様のその頭脳も、その知識も、その体も。全て、俺の『管理下』に置かれるということだ」
「……所有権を主張なさるとは、随分と野蛮ですわね、辺境伯」
ヨミは、そう言いながらも、その手を振りほどこうとはしなかった。
「ああ。野蛮だ。辺境とは、そういう場所だ」
カインは、ヨミの顔を、間近で覗き込んだ。
「それが、嫌か?」
「……」
ヨミは、カインの、荒々しくも真っ直ぐな瞳から、目が離せなかった。
(この瞳……)
(この『検体』は、私の全てのデータを、狂わせる……!)
「……いいえ」
ヨミは、小さな声で、呟いた。
「嫌では……ありませんわ」
(むしろ。この『毒』の作用を、もっと、詳しく、分析してみたい……!)
「そうか」
カインは、満足げに、ヨミの手を離した。
「!」
ヨミは、急に訪れた解放感と、ほんの少しの『寂しさ』に、戸惑った。
(……しまった。分析の途中だったのに)
「では、カイン殿」
ヨミは、その戸惑いを隠すように、即座に、研究者の顔に戻った。
「先ほどの『研究棟』の件ですが」
「ああ」
「口約束では、信用できませんわ。正式な『契約書』の作成をお願いいたします」
「……」
カインの顔が、わずかに引き攣った。
(婚約の承諾(・・)の直後に、契約書(・・)だと……?)
「研究棟の年間予算。導入機材のリストアップ権限。それと、辺境領の薬草の『独占採取権』。最低でも、この三点は、明記していただきたく」
「……ヨミ殿」
「はい」
「貴様は、本当に……」
カインは、怒るでもなく、呆れるでもなく、心の底から『楽しそう』に、笑った。
「……最高だな」
「恐縮ですわ」
「分かった。その契約書、砦に戻り次第、すぐに作成しよう。俺の辺境伯としての、全権限をかけて」
「!」
(全権限!)
ヨミは、再び、恍惚(こうこつ)の表情を浮かべた。
「では、決まりですわね!」
ヨミは、カインとの交渉を終えると、ハンナに向き直った。
「ハンナ!何をもたもたしているのですか!」
「は、はいぃ!」
「荷物は全て積み込みましたわね!?王都に、もはや、一片の用事もございません!」
「はい!」
「出発しますわよ!私の未来の『楽園(ラボラトリー)』が、待っているのですから!」
ヨミは、今度こそ、誰に止められることもなく、軽やかな足取りで、馬車に乗り込んだ。
カインも、その後に続く。
王都の衛兵たちが、呆然と、その異様な『婚約成立』の場面を見送っていた。
(あの、ヴェルデ辺境伯が、毒婦を……)
(いや、毒婦が、辺境伯を、手玉に取ったのか……?)
(どちらにせよ、あの二人を、敵に回すのだけは、御免だ)
馬車の重い扉が、バタン、と閉められた。
それは、ヨミ・フォン・アスクレピオスが、王都の社交界と、過去の自分に、完全に別れを告げた音だった。
「カイン殿」
馬車が、ガタガタと揺れ始める。
辺境への、長い帰路。
「……なんだ」
向かい合わせに座るカインに、ヨミは、真剣な顔で尋ねた。
「新しい研究棟ですが、設計の段階から、私の意見を反映させていただきたい。特に、換気(ドラフト)と、排水設備は、最重要項目ですわ」
「……ああ。好きにしろ」
カインは、面倒くさそうに、しかし、どこか嬉しそうに、答えた。
この女は、一生、こうなのだろう。
だが、それがいい。
それが、カイン・ヴェルデが選んだ、唯一無二の『毒』なのだから。
ヨミの、歓喜に満ちた承諾の声が、王都の喧騒(けんそう)にかき消されることなく、カインの耳に確かに届いた。
カインは、自分の顔を掴んでいたヨミの小さな両手を、その大きな無骨な手で、包み込むように握った。
「……後悔は、しないか」
カインは、最後の確認のように、低い声で尋ねた。
「王妃の地位ではなく、辺境の、雪深い砦の『領主夫人』という立場だぞ」
「後悔?」
ヨミは、心底、不思議そうな顔をした。
「なぜです?『王妃』という地位には、最新の研究棟は付属しておりませんわ」
「……」
「ですが、あなたの『妻』という地位には、それが付属する。違うのですか?」
「……違わん」
「ならば、比較するまでもありませんわ。私にとって、これ以上の『最高の条件(プロポーズ)』は、この世に存在しません」
ヨミは、うっとりとした表情で、自分の未来の研究室(ラボ)を夢想していた。
(ああ……最新の魔力測定器。王立研究所にしかなかった、高純度の触媒精製釜)
(それら全てが、私の自由に!)
(カイン殿という、生涯かけて分析しがいのある『検体』のそばで!)
彼女の顔が、興奮でカッと赤くなる。
「……」
カインは、その顔を見て、初めて、自分の選択が、完全に正しかったことを確信した。
この女を繋ぎ止める鎖は、金でも、地位でも、愛の言葉でもない。
ただ、『未知への探求心』と『最高の研究環境』。
それを、自分だけが、彼女に与えることができる。
「お、お、お嬢様ぁ……!」
その時、馬車の陰から、感涙にむせぶハンナが、顔を出した。
「け、結婚……!おめでとうございますぅ……!」
「ハンナ。うるさいですわ。まだ『予定』です」
「で、ですが!理由が!理由が『研究棟』だなんて……!お嬢様らしすぎて、わたくし、涙が……!」
「褒めているのですか、あなたは」
ヨミは、ハンナをジロリと睨んだが、その頬が赤いのは、決して怒りだけではなかった。
カインに手を握られたままの自分の状況に、ようやく気づき、胸が、また、あの心地よい痛みでズキズキと鳴っていた。
「……カイン殿」
「なんだ」
「その手。いつまで握っておいでですの?分析が狂います」
「狂えばいい」
カインは、手を離すどころか、さらに強く握り込んだ。
「……っ」
「貴様が、俺の『妻』になるということは、貴様のその頭脳も、その知識も、その体も。全て、俺の『管理下』に置かれるということだ」
「……所有権を主張なさるとは、随分と野蛮ですわね、辺境伯」
ヨミは、そう言いながらも、その手を振りほどこうとはしなかった。
「ああ。野蛮だ。辺境とは、そういう場所だ」
カインは、ヨミの顔を、間近で覗き込んだ。
「それが、嫌か?」
「……」
ヨミは、カインの、荒々しくも真っ直ぐな瞳から、目が離せなかった。
(この瞳……)
(この『検体』は、私の全てのデータを、狂わせる……!)
「……いいえ」
ヨミは、小さな声で、呟いた。
「嫌では……ありませんわ」
(むしろ。この『毒』の作用を、もっと、詳しく、分析してみたい……!)
「そうか」
カインは、満足げに、ヨミの手を離した。
「!」
ヨミは、急に訪れた解放感と、ほんの少しの『寂しさ』に、戸惑った。
(……しまった。分析の途中だったのに)
「では、カイン殿」
ヨミは、その戸惑いを隠すように、即座に、研究者の顔に戻った。
「先ほどの『研究棟』の件ですが」
「ああ」
「口約束では、信用できませんわ。正式な『契約書』の作成をお願いいたします」
「……」
カインの顔が、わずかに引き攣った。
(婚約の承諾(・・)の直後に、契約書(・・)だと……?)
「研究棟の年間予算。導入機材のリストアップ権限。それと、辺境領の薬草の『独占採取権』。最低でも、この三点は、明記していただきたく」
「……ヨミ殿」
「はい」
「貴様は、本当に……」
カインは、怒るでもなく、呆れるでもなく、心の底から『楽しそう』に、笑った。
「……最高だな」
「恐縮ですわ」
「分かった。その契約書、砦に戻り次第、すぐに作成しよう。俺の辺境伯としての、全権限をかけて」
「!」
(全権限!)
ヨミは、再び、恍惚(こうこつ)の表情を浮かべた。
「では、決まりですわね!」
ヨミは、カインとの交渉を終えると、ハンナに向き直った。
「ハンナ!何をもたもたしているのですか!」
「は、はいぃ!」
「荷物は全て積み込みましたわね!?王都に、もはや、一片の用事もございません!」
「はい!」
「出発しますわよ!私の未来の『楽園(ラボラトリー)』が、待っているのですから!」
ヨミは、今度こそ、誰に止められることもなく、軽やかな足取りで、馬車に乗り込んだ。
カインも、その後に続く。
王都の衛兵たちが、呆然と、その異様な『婚約成立』の場面を見送っていた。
(あの、ヴェルデ辺境伯が、毒婦を……)
(いや、毒婦が、辺境伯を、手玉に取ったのか……?)
(どちらにせよ、あの二人を、敵に回すのだけは、御免だ)
馬車の重い扉が、バタン、と閉められた。
それは、ヨミ・フォン・アスクレピオスが、王都の社交界と、過去の自分に、完全に別れを告げた音だった。
「カイン殿」
馬車が、ガタガタと揺れ始める。
辺境への、長い帰路。
「……なんだ」
向かい合わせに座るカインに、ヨミは、真剣な顔で尋ねた。
「新しい研究棟ですが、設計の段階から、私の意見を反映させていただきたい。特に、換気(ドラフト)と、排水設備は、最重要項目ですわ」
「……ああ。好きにしろ」
カインは、面倒くさそうに、しかし、どこか嬉しそうに、答えた。
この女は、一生、こうなのだろう。
だが、それがいい。
それが、カイン・ヴェルデが選んだ、唯一無二の『毒』なのだから。
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