婚約破棄に、承知いたしました。と返したら爆笑されました。

パリパリかぷちーの

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「……歩きにくいです、閣下」

公爵邸の廊下を歩きながら、私は不満を漏らした。

いや、「歩く」という表現は正しくない。

「埋まる」と言った方が正確だ。

私の足は、ふくらはぎの辺りまで、ふわふわの白い物体に埋没している。

「安全第一だ、カルル。転倒のリスクは極限まで排除しなければならない」

私の隣を歩くアイザック様が、真剣な顔で頷く。

彼の指示により、公爵邸のすべての床――廊下、階段、居室に至るまで――には、最高級の羽毛布団とクッションが敷き詰められていた。

まるで雲の上を歩いているようだと言えば聞こえはいいが、実際は足を取られて非常に歩きにくい。

さらに。

「あ、そこ! 柱の角!」

アイザック様が指差すと、待機していた大工たちが飛んできて、柱の角に分厚いスポンジを巻き付ける。

「よし。これで万が一ぶつかっても軽傷で済む」

「……私は幼児ですか? それとも自立歩行が不可能な生物ですか?」

「妊婦だ。俺にとっては、国宝よりも壊れやすい貴重品だ」

彼は悪びれもせずに言い放つ。

妊娠判明から三日。

アイザック様の過保護は、狂気の域に達していた。

「本日のスケジュールですが、午前はベッドで安静。午後はソファで安静。夜は俺の腕の中で安静だ」

「……ニート生活ですね。生産性がゼロです」

「胎児を育てるという、最も偉大な生産活動中だろう?」

ぐうの音も出ない正論だが、私にとっては地獄だ。

仕事がしたい。

電卓を叩きたい。

改善点を見つけて、指示を飛ばしたい。

仕事中毒(ワーカホリック)の私にとって、「何もしないこと」こそが最大のストレス要因だった。

***

その日の午後。

私は寝室のベッド(周りはクッションの壁で要塞化されている)で、天井の木目を数えていた。

「……暇です。このままでは脳細胞が萎縮し、経営能力が低下します」

そこへ、マリアが「おやつ」を持って入ってきた。

「奥様、フルーツの盛り合わせです。……それと、『例のブツ』も」

マリアが声を潜め、ウインクをする。

「待っていました」

私はベッドから身を乗り出した。

マリアがフルーツ皿の下から取り出したのは――一冊の帳簿と、小型のペンだった。

「領内の『橋梁建設予算案』です。旦那様に見つからないよう、隠してお持ちしました」

「優秀ですね、マリア。特別ボーナスを支給します」

私は飢えた獣のように帳簿に飛びついた。

ああ、この紙の感触。

インクの匂い。

そして、並んでいる数字の列!

「ふむ……資材費の見積もりが甘いですね。輸送ルートを変更すれば、あと5%はコストダウン可能です」

私は水を得た魚のようにペンを走らせた。

脳が活性化し、血液が巡るのを感じる。

やはり、私にとっての最高の胎教は「モーツァルト」ではなく「コストカット」だ。

カリカリカリッ……。

静寂な部屋に、ペンの音だけが心地よく響く。

その時だった。

ガチャリ。

「カルル、調子はどう……」

ドアが開いた。

私は反射的に帳簿を布団の下に隠し、ペンを枕の下に滑り込ませた。

そして、聖母のような慈愛に満ちた(つもりの)笑みを浮かべた。

「お、お帰りなさいませ、あなた。お腹の子と会話を楽しんでいたところです」

「……ほう」

アイザック様が入ってくる。

彼の目は笑っていなかった。

「奇遇だな。俺には、君が『数字』と会話していたように聞こえたが?」

「き、気のせいです。幻聴では?」

「そうか。……マリア」

「は、はいっ!」

アイザック様が鋭い視線を送ると、マリアは直立不動になった。

「君が持ってきたそのフルーツ皿。……底が二重底になっているように見えるな?」

「ッ……!?」

「そしてカルル。君の右手の中指に、インクの染みがついているぞ」

「……!」

私は慌てて手を隠したが、遅かった。

アイザック様はため息をつき、私のベッドに近づいてきた。

そして、布団をめくった。

そこには、赤ペンで修正だらけになった『橋梁建設予算案』が鎮座していた。

現行犯逮捕である。

「……没収だ」

「ああっ! 待ってください! あと一行! 最後の合計欄だけ計算させてください!」

「ダメだ。目が疲れる。肩が凝る。母体に悪い」

アイザック様は非情にも帳簿を取り上げた。

「カルル。俺の言いつけが守れないのか?」

「だって……! 暇なんです!」

私は抗議した。

「何もせずにただ寝ているだけなんて、私には拷問です! ストレスホルモン(コルチゾール)が分泌され、胎児の発育に悪影響を及ぼす可能性があります!」

「……屁理屈を」

「事実です! 私の精神安定剤は『仕事』なんです! これを取り上げるのは、酸素を奪うのと同じです!」

私が必死に訴えると、アイザック様は困ったように眉を下げた。

「……分かった。君がそこまで言うなら」

「本当ですか!?」

「ただし、条件がある」

アイザック様は私の隣に腰掛け、私の手を包み込んだ。

「俺が君の『手』になる」

「……はい?」

「君は頭を使うだけだ。読み上げや、ペンの記入は全て俺がやる。君はベッドに寝たままで、俺に指示を出せ」

彼は私の目をじっと見つめた。

「それなら、君の体への負担は最小限だ。……どうだ?」

私は瞬きをした。

公爵自らが、私の書記係(ライター)になるというのか。

なんて贅沢な、そして非効率な……いや、愛に溢れた提案だろう。

「……人件費が高くつきますよ?」

「構わん。君の笑顔が見られるなら、安いもんだ」

私は小さく笑って、彼の肩に頭を預けた。

「……分かりました。契約成立です、ボス」

***

それからの毎晩。

私たちの寝室では、奇妙な光景が繰り広げられるようになった。

「……えー、次。『第三区画の道路整備費』。金貨三百枚」

アイザック様が書類を読み上げる。

私はベッドに寝転がりながら、天井を見つめて指示を出す。

「高いです。業者の選定ミスですね。『鉄腕建設』に変更させてください。二百五十枚で済みます」

「了解。『鉄腕建設に変更』、と……」

大陸一の権力者であるグラン・ノワール公爵が、妊婦の指示に従ってせっせとペンを走らせている。

側から見れば滑稽かもしれないが、私にとっては至福の時間だった。

「……カルル」

ふと、アイザック様の手が止まった。

「ん? どうしました? 計算が合いませんか?」

「いや。……動いた」

「へ?」

アイザック様が、私の腹部に当てていた手を見つめている。

「今、お腹の中で……ポコッと」

「……ああ、胎動ですね」

私は自分のお腹を撫でた。

「最近、活発なんです。特に、予算を削減して『黒字』が確定した瞬間に、よく動きます」

「……まじか」

アイザック様が戦慄している。

「この子も、君に似て『守銭奴』になるのか……?」

「『経済観念がしっかりしている』と言ってください。将来有望な後継者ですよ」

私は誇らしげに胸を張った。

「よし、ちびっ子。今日はパパが、ママの代わりにガッポリ稼ぐ方法を教えてやるからな」

アイザック様がお腹に向かって話しかける。

「まずは、外交交渉における『威圧』の使い方だが……」

「……閣下。胎教に悪いです。まずは『複式簿記』から教えてください」

私たちは顔を見合わせて笑った。

クッションだらけの部屋で、不自由だけど、温かい夜。

新しい家族を迎える準備は、少しずつ、でも着実に進んでいた。

――のだが。

そんな平和な日々に、最後にして最大のトラブルメーカーが訪れる。

それは、「名前」を巡る、公爵家と王家の仁義なき戦いだった。
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