婚約破棄されたので、うっかり「よっしゃぁ!」と叫んでしまう。

パリパリかぷちーの

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到着初日の大掃除騒動から数時間後。

窓を開け放ち、埃を叩き出し、床を磨き上げたことで、屋敷の空気は見違えるほど軽くなっていた。

そして、待ちに待った夕食の時間である。

案内されたダイニングルームは、長いテーブルに燭台の灯りが揺れる、雰囲気のある空間だった。

ただし、雰囲気がありすぎて、少し薄暗いのが玉に瑕だが。

私は上座に座るジェラルド様の隣、夫人の席に腰を下ろした。

「……ビスケ」

「はい、旦那様」

「疲れていないか? 到着早々、あんなに動き回って」

ジェラルド様が心配そうに私を見る。

その眉間には深い皺が刻まれており、一般人が見れば「お前、後で焼き殺すぞ」と言われているようにしか見えない表情だ。

しかし、半日一緒にいてわかってきた。

この人は、心配すればするほど顔が怖くなるタイプだ。

「平気ですわ。むしろ、体が動かせてスッキリしました。それに……」

私はテーブルの上に並べられた料理に視線を落とした。

「この素晴らしい香り! 疲れなんて吹き飛びました!」

そこには、山盛りの肉料理が並んでいた。

鹿肉のロースト、猪の煮込み、鳥の香草焼き。

野菜は付け合わせ程度で、まさに「肉! 肉! 肉!」というラインナップ。

いかにも辺境の男料理といった風情だが、実に美味しそうだ。

「北は作物が育ちにくい。肉ばかりですまないな」

「とんでもない! 私、お肉大好きです! 王宮では『レディは小鳥のように食べるもの』と言われて、サラダばかり食べさせられていましたから!」

私はナイフとフォークを構え、早速鹿肉を口に運んだ。

噛み締めた瞬間、濃厚な旨味が口いっぱいに広がる。

臭みは全くなく、柔らかい。

「んん~っ! 美味しい! なんですかこれ、絶品じゃないですか!」

私が声を上げると、部屋の隅に控えていた料理長らしき恰幅のいい男性が、ビクゥッ!と肩を震わせた。

彼は真っ青な顔で、まるで断頭台の前にいるかのように縮こまっている。

ジェラルド様も、黙々と猪の煮込みを食べている。

無言だ。

咀嚼音すらさせない静かな食事マナーだが、その鋭い眼光は皿の一点を見つめている。

料理長が、震える声で恐る恐る尋ねた。

「あ、あの……旦那様……お、お味はいかがでしょうか……?」

ジェラルド様が、ゆっくりと顔を上げた。

そして、重々しく口を開く。

「……硬いな」

ヒュッ。

部屋中の空気が凍りついた音がした。

料理長が白目を剥きそうになっている。

「ひぃっ! も、申し訳ございません! 煮込み時間が足りず……! す、すぐに作り直してまいりますので、どうかお命だけは……!」

「待ちなさい」

私はナイフを置いて、パチンと手を叩いた。

「料理長、早まらないで」

「え? で、でも、旦那様が『硬い』と……」

「いいえ、違います。ジェラルド様のお言葉には、高度な翻訳が必要なのですよ」

私は隣のジェラルド様に向き直り、にっこりと微笑んだ。

「旦那様。『硬い』というのは、お肉のことではありませんね?」

「……?」

ジェラルド様が不思議そうに首を傾げる。

私は彼の心情を、文脈と表情筋のわずかな動きから読み解いていく。

先ほど、彼は一口食べた後、ふっと目尻を下げた(0.5ミリくらい)。

そして「硬い」と言った時、視線は料理長ではなく、彼自身の肩に向けられていた。

「旦那様がおっしゃった『硬い』は、『料理長の表情が硬い』という意味ですわ。違いますか?」

ジェラルド様が目を見開いた。

「……あ、ああ。そうだ」

「えっ!?」

料理長が驚愕の声を上げる。

私はさらに続ける。

「旦那様はこうおっしゃりたいのです。『この猪肉は素晴らしい。ホロホロと解けるような食感で、味付けも深みがある。最高の出来だ。それなのに、料理長がそんなに怯えていては、せっかくの食事が楽しめないではないか。もっとリラックスしてくれ』……合っていますか?」

ジェラルド様は、口を半開きにして私を見ていたが、やがてゴホンと咳払いをして、頬を赤らめた。

「……全部、その通りだ。なぜわかった?」

「愛……ではなく、観察眼ですわ」

私は料理長に向き直った。

「聞きましたか、料理長? 『最高だ』とおっしゃっていますよ」

「ほ、本当に……?」

料理長が信じられないという顔でジェラルド様を見る。

ジェラルド様は、バツが悪そうに視線を逸らし、ボソリと言った。

「……以前より、腕を上げたな。美味い」

ドサッ。

料理長がその場に崩れ落ちた。

「よ、よかったぁぁぁ……! 殺されるかと思ったぁぁぁ……!」

「大袈裟だな……」

ジェラルド様が呆れているが、あなたの顔面偏差値(恐怖指数)が高すぎるせいですよ、と心の中でツッコミを入れる。

「ほら、他の皆さんも。旦那様は別に怒っているわけではありません。単に、感情表現が不器用で、言葉足らずで、顔がちょっとばかり怖いだけです」

「ビスケ、最後のは悪口じゃないか?」

「事実陳列罪です」

私は給仕をしている若いメイドにも声をかけた。

彼女は先ほどから、手が震えてワインを注ぐのに苦労していた子だ。

「貴女も、さっきから旦那様と目が合うたびに『ひっ』て言ってますけど、旦那様は貴女を睨んでいるわけじゃありませんよ」

「そ、そうなんですか……?」

「ええ。旦那様、さっき彼女を見て何を考えていました?」

ジェラルド様は、また少し赤くなって口ごもる。

「……その、新しいエプロンの紐が、解けかけていたから、危ないなと……」

メイドがハッとして自分の腰元を見る。

確かに、エプロンの紐が緩んでいた。

「きゃっ! し、失礼いたしました!」

「だそうです。注意してあげようとしたけど、声をかけたら泣かれそうで言えなかったみたいですね」

私はワイングラスを傾けながら、やれやれと肩をすくめた。

「まったく、この屋敷の人たちは損をしていますわ。こんなにピュアで優しい主人は、そうそういませんのに」

ジェラルド様が、大きな手で顔を覆ってしまった。

「やめろビスケ……恥ずかしい」

「あら、可愛いところもあるんじゃないですか」

その様子を見て、料理長やメイドたちの表情が、少しずつ変わっていくのがわかった。

恐怖の色が薄れ、代わりに「え、この人、実は可愛い?」という困惑と、安堵の色が混ざり合う。

「旦那様が……照れている……?」

「初めて見たわ……」

「赤くなると、普通の人間みたいだ……」

ざわめきが広がる中、私はパンをちぎって口に放り込んだ。

「さて、誤解も解けたところで、今後の話をしましょうか」

「今後?」

ジェラルド様が指の隙間から私を見る。

「ええ。この屋敷の改革です。掃除はあらかた終わりましたが、まだまだ改善点が山積みです。特に、この食卓!」

「食卓に不満が?」

「味は最高です。でも、彩りが茶色すぎます! 野菜が足りません! 美容と健康のためにも、もっと野菜を取り入れるべきです」

「しかし、北の土地では根菜くらいしか……」

「ないなら、作ればいいのです」

私はニヤリと笑った。

「来る途中に見ましたが、屋敷の裏手に使っていないガラス張りの温室がありましたよね? あれを復活させます」

「あそこはもう何年も放置してボロボロだが……」

「直します。そして、王都から取り寄せた種で、一年中新鮮な野菜が食べられるようにします。あと、領地の特産品開発も進めたいですね。この美味しいお肉、燻製やソーセージに加工すれば、王都で高く売れますよ」

私の頭の中では、すでにそろばんが弾かれていた。

「王都の貴族は『限定品』とか『オーガニック』という言葉に弱いですからね。ヴォルグ領ブランドを立ち上げて、あのがめつい貴族たちから外貨を毟り取ってやりましょう!」

「……お前、本当に悪役令嬢だったんだな」

ジェラルド様が感心したように言う。

「最高の褒め言葉ですわ。さあ、料理長! 明日は試作品作りよ! ついてこられる?」

料理長は、まだ涙目だったが、その表情には先ほどまでの絶望はなかった。

代わりに、料理人としての情熱が灯っているように見えた。

「は、はいっ! 奥様! この命、お預けします!」

「命はいらないから、美味しいご飯を作ってね」

こうして、恐怖のディナータイムは、私の通訳と演説によって、熱気あふれる決起集会へと変わったのだった。

ジェラルド様も、最後には少しだけ口元を緩めて、ワインを美味しそうに飲んでいた。

うん、やっぱりこの旦那様、笑ったほうが絶対にかっこいい。

私はこっそりと、心の中でガッツポーズをした。
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