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「リリー、次はあれにするわ!揚げたお芋に、お砂糖をまぶしたものよ!」
「お嬢様、少し落ち着いてくださいませ!口の周りに、タレがついております!」
「そんなことは、どうでもいいのよ!」
夢にまで見た食べ歩きは、マーブルの理性を、いとも簡単に吹き飛ばした。
オーク串をあっという間に平らげると、次から次へと、新しい獲物…もとい、美味しそうな食べ物に目を輝かせる。
リリーがハンカチで口元を拭ってくれるのももどかしく、マーブルは人混みをかき分けるようにして、甘い匂いのする方へと進んでいく。
貴族の令嬢としての淑やかさなど、今は、頭の片隅にも残っていない。
(ああ、なんて素敵な世界なの!王宮の晩餐会で出される、気取っただけの料理とは大違いだわ!)
興奮のあまり、完全に、周りが見えなくなっていた。
賑やかな大通りから、少しだけ人の少ない脇道に入った、その瞬間だった。
ドンッ、という、鈍い衝撃。
「きゃっ!」
何かに、真正面からぶつかった。
それは、まるで石壁のように硬く、びくともしない。
「い……っ」
たたらを踏んだマーブルは、尻餅をつく寸前で、リリーに腕を支えられて、なんとか踏みとどまった。
「も、申し訳ございません!お怪我は……」
マーブルは、慌てて顔を上げる。
そして、自分のしでかしたことに、血の気が引くのを感じた。
目の前に立っていたのは、一人の男性だった。
背が高く、肩幅が広い。何より目を引くのは、その服装。寸分の隙もなく着こなされた、白銀を基調とした壮麗な軍服。それは、この国の治安を守る王立騎士団、それも、幹部クラスにしか許されない、特別な制服だった。
(き、騎士……!?)
しかも、ただの騎士ではない。
胸元には、数々の戦功を示すであろう勲章が、これみよがしに輝いている。
そして、マーブルは恐る恐る、その騎士の顔を見上げた。
息を呑むほどに、美しい男だった。
夜の闇を溶かしたような黒髪に、対照的なほど白い肌。まるで、彫刻家が精魂込めて彫り上げたかのような、完璧な顔立ち。だが、そのサファイアのように青い瞳は、絶対零度の光を宿し、マーブルを射抜いていた。
その顔には、見覚えがあった。
夜会などで、遠目に見かけたことがある。
アリスティード・ヴァリエ公爵。
若くして騎士団長の地位に上り詰め、『王国の守護神』と称えられる一方で、その冷徹さと容赦のなさから、『氷血公爵』と畏怖される人物。
そして今、その氷血公爵の完璧な白い制服の胸元には、先ほどマーブルが食していたオーク串のべったりとした茶色いタレの染みが無残に広がっていた。
「…………」
アリスティードは無言のまま、ゆっくりと視線を落とし、胸の染みとマーブルの顔を交互に見た。
その場の空気が、急速に凍り付いていく。
「も、も、申し訳ありません!わざとでは……!そのこの子が前を見ていなかったばかりに……!」
隣でリリーが顔面蒼白になりながら、必死で頭を下げている。
マーブルも我に返り、慌てて頭を下げた。
「た、大変、申し訳ございませんでした!」
貴族の令嬢であることがバレてはまずい。マーブルは深く被ったフードをさらに引き下げ声色を変えて謝罪する。
アリスティードは、そんな二人を冷ややかに見下ろしたままようやく口を開いた。
その声は、彼の瞳と同じように凍てつくほどに冷たい。
「……前を見て歩く、というのは幼子のうちに学ぶことだと思っていたが」
「うっ……」
正論すぎて、何も言い返せない。
「弁償しろ、とは言わん。だがこの制服は特別製でな。染み一つ許されん」
「は、はい……!も、もちろんです!クリーニング代はお支払いしますので……!」
マーブルが言うと、アリスティードはふっと嘲るように息を吐いた。
「金の話をしているのではない。……まあ、いい。二度と俺の前に現れるな」
それだけ言うと、アリスティードはもう興味を失ったというようにくるりと背を向けた。
その時、さっと風が吹きマーブルのフードが僅かにめくれ上がる。
銀色の髪が一筋、陽の光を受けてきらりと輝いた。
アリスティードの足が、ぴたりと止まる。
彼はゆっくりと振り返り、もう一度マーブルの顔を今度は値踏みするようにじろりと見た。
その鋭い視線に、マーブルの心臓がどきりと跳ねる。
(まさか、気づかれた……!?)
昨夜の、婚約破棄の騒動。その主役だった銀髪の公爵令嬢。
もし、この場で身元が割れてしまったらスキャンダルに拍車をかけるどころの話ではない。
アリスティードのサファイアの瞳が怪訝そうに細められる。
「……どこかで……」
彼が何かを言いかけたその瞬間。
「リリー!行くわよ!」
マーブルは、咄嗟にリリーの腕を掴むと脱兎のごとくその場を走り去った。
「ちょ、お嬢様!?」
リリーの悲鳴を背に、とにかく無我夢中で走る。
人混みをかき分け露店をなぎ倒しそうになりながらただひたすらに。
どれくらい、走っただろうか。
ようやく市場の喧騒から離れた路地裏で、マーブルは壁に手をつきぜえぜえと肩で息をした。
「はあ……、はあ……。ま、撒いたかしら……」
「お嬢様……。わたくし、もう心臓が止まるかと……」
リリーは、へなへなとその場に座り込んでしまった。
マーブルは、先ほどの絶対零度の視線を思い出しぶるりと身を震わせる。
(最悪だわ……!よりにもよって、あの氷血公爵に……!)
今日の食べ歩き計画は、これにて強制終了。
マーブルとリリーはほうほうの体で公爵邸へと逃げ帰ったのだった。
一方、一人残されたアリスティードは胸の染みを指でなぞりながら少女が消えた方向をじっと見つめていた。
「……銀の髪に、紫の瞳……。昨夜のデュクロワ公爵令嬢か」
噂に聞く『悪役令嬢』のイメージと、先ほどのソースまみれで慌てふためいていた少女の姿が、彼の頭の中でどうにも結びつかなかった。
「……妙な女だ」
ぽつりと呟いたその声に、いつもの冷たさはほんの少しだけ含まれていなかった。
「お嬢様、少し落ち着いてくださいませ!口の周りに、タレがついております!」
「そんなことは、どうでもいいのよ!」
夢にまで見た食べ歩きは、マーブルの理性を、いとも簡単に吹き飛ばした。
オーク串をあっという間に平らげると、次から次へと、新しい獲物…もとい、美味しそうな食べ物に目を輝かせる。
リリーがハンカチで口元を拭ってくれるのももどかしく、マーブルは人混みをかき分けるようにして、甘い匂いのする方へと進んでいく。
貴族の令嬢としての淑やかさなど、今は、頭の片隅にも残っていない。
(ああ、なんて素敵な世界なの!王宮の晩餐会で出される、気取っただけの料理とは大違いだわ!)
興奮のあまり、完全に、周りが見えなくなっていた。
賑やかな大通りから、少しだけ人の少ない脇道に入った、その瞬間だった。
ドンッ、という、鈍い衝撃。
「きゃっ!」
何かに、真正面からぶつかった。
それは、まるで石壁のように硬く、びくともしない。
「い……っ」
たたらを踏んだマーブルは、尻餅をつく寸前で、リリーに腕を支えられて、なんとか踏みとどまった。
「も、申し訳ございません!お怪我は……」
マーブルは、慌てて顔を上げる。
そして、自分のしでかしたことに、血の気が引くのを感じた。
目の前に立っていたのは、一人の男性だった。
背が高く、肩幅が広い。何より目を引くのは、その服装。寸分の隙もなく着こなされた、白銀を基調とした壮麗な軍服。それは、この国の治安を守る王立騎士団、それも、幹部クラスにしか許されない、特別な制服だった。
(き、騎士……!?)
しかも、ただの騎士ではない。
胸元には、数々の戦功を示すであろう勲章が、これみよがしに輝いている。
そして、マーブルは恐る恐る、その騎士の顔を見上げた。
息を呑むほどに、美しい男だった。
夜の闇を溶かしたような黒髪に、対照的なほど白い肌。まるで、彫刻家が精魂込めて彫り上げたかのような、完璧な顔立ち。だが、そのサファイアのように青い瞳は、絶対零度の光を宿し、マーブルを射抜いていた。
その顔には、見覚えがあった。
夜会などで、遠目に見かけたことがある。
アリスティード・ヴァリエ公爵。
若くして騎士団長の地位に上り詰め、『王国の守護神』と称えられる一方で、その冷徹さと容赦のなさから、『氷血公爵』と畏怖される人物。
そして今、その氷血公爵の完璧な白い制服の胸元には、先ほどマーブルが食していたオーク串のべったりとした茶色いタレの染みが無残に広がっていた。
「…………」
アリスティードは無言のまま、ゆっくりと視線を落とし、胸の染みとマーブルの顔を交互に見た。
その場の空気が、急速に凍り付いていく。
「も、も、申し訳ありません!わざとでは……!そのこの子が前を見ていなかったばかりに……!」
隣でリリーが顔面蒼白になりながら、必死で頭を下げている。
マーブルも我に返り、慌てて頭を下げた。
「た、大変、申し訳ございませんでした!」
貴族の令嬢であることがバレてはまずい。マーブルは深く被ったフードをさらに引き下げ声色を変えて謝罪する。
アリスティードは、そんな二人を冷ややかに見下ろしたままようやく口を開いた。
その声は、彼の瞳と同じように凍てつくほどに冷たい。
「……前を見て歩く、というのは幼子のうちに学ぶことだと思っていたが」
「うっ……」
正論すぎて、何も言い返せない。
「弁償しろ、とは言わん。だがこの制服は特別製でな。染み一つ許されん」
「は、はい……!も、もちろんです!クリーニング代はお支払いしますので……!」
マーブルが言うと、アリスティードはふっと嘲るように息を吐いた。
「金の話をしているのではない。……まあ、いい。二度と俺の前に現れるな」
それだけ言うと、アリスティードはもう興味を失ったというようにくるりと背を向けた。
その時、さっと風が吹きマーブルのフードが僅かにめくれ上がる。
銀色の髪が一筋、陽の光を受けてきらりと輝いた。
アリスティードの足が、ぴたりと止まる。
彼はゆっくりと振り返り、もう一度マーブルの顔を今度は値踏みするようにじろりと見た。
その鋭い視線に、マーブルの心臓がどきりと跳ねる。
(まさか、気づかれた……!?)
昨夜の、婚約破棄の騒動。その主役だった銀髪の公爵令嬢。
もし、この場で身元が割れてしまったらスキャンダルに拍車をかけるどころの話ではない。
アリスティードのサファイアの瞳が怪訝そうに細められる。
「……どこかで……」
彼が何かを言いかけたその瞬間。
「リリー!行くわよ!」
マーブルは、咄嗟にリリーの腕を掴むと脱兎のごとくその場を走り去った。
「ちょ、お嬢様!?」
リリーの悲鳴を背に、とにかく無我夢中で走る。
人混みをかき分け露店をなぎ倒しそうになりながらただひたすらに。
どれくらい、走っただろうか。
ようやく市場の喧騒から離れた路地裏で、マーブルは壁に手をつきぜえぜえと肩で息をした。
「はあ……、はあ……。ま、撒いたかしら……」
「お嬢様……。わたくし、もう心臓が止まるかと……」
リリーは、へなへなとその場に座り込んでしまった。
マーブルは、先ほどの絶対零度の視線を思い出しぶるりと身を震わせる。
(最悪だわ……!よりにもよって、あの氷血公爵に……!)
今日の食べ歩き計画は、これにて強制終了。
マーブルとリリーはほうほうの体で公爵邸へと逃げ帰ったのだった。
一方、一人残されたアリスティードは胸の染みを指でなぞりながら少女が消えた方向をじっと見つめていた。
「……銀の髪に、紫の瞳……。昨夜のデュクロワ公爵令嬢か」
噂に聞く『悪役令嬢』のイメージと、先ほどのソースまみれで慌てふためいていた少女の姿が、彼の頭の中でどうにも結びつかなかった。
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