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デュクロワ公爵邸に逃げ帰ったマーブルは、自室のベッドに突っ伏して唸っていた。
「ううう……。最悪よ……、最悪だわ……」
「お嬢様、もうそのくらいで……。幸い、誰にも正体は気づかれていないのですから」
「そうだけれど!よりにもよって、あの氷血公爵……!思い出しただけで、凍えそうだわ!」
マーブルは、ガバッと顔を上げた。その顔は、まだ少し青ざめている。
「絶対に嫌な奴よ、あれは!人の顔をジロジロ見て!性格が悪いに、決まってるわ!」
「それは、お嬢様が殿方の顔を、まともに見られないだけでは……。それに、制服を汚されたのですから、怒るのも当然かと」
リリーの冷静なツッコミにマーブルはぐうの音も出ない。
「とにかく!もう二度と会いたくないわ!あんな堅物で嫌な奴、こっちから願い下げよ!」
マーブルが一方的にアリスティードへの印象を最悪なものに書き換えている頃。
当のアリスティードは、騎士団の自室で問題の制服を眺めていた。
「はあ……。見事な染みだな、これは」
染み抜きを専門とする業者に連絡はしたが、完全に落ちるかは分からないと言われたばかりだ。
コンコンと扉がノックされる。
「団長、入ります」
入ってきたのは、アリスティードの副官であるカインだった。赤茶色の髪を無造作に揺らし人懐っこい笑みを浮かべたアリスティードとは正反対の陽気な男だ。
「うわ、本当だ。見事にやられてますね、その制服。一体どこの命知らずです?そんなことをしたのは」
「……少し、不注意な者にぶつかられただけだ」
「へえ。団長に正面からぶつかってくるなんて猪か何かですかね?」
軽口を叩くカインを無視しアリスティードは執務机に向かう。
「それより、何の用だ」
「ああ、そうでした。昨夜の夜会での一件、団長にもご報告をと」
カインは、思い出したように一枚の報告書を机に置いた。
「ジュリアン殿下と、マーブル・デュクロワ公爵令嬢の婚約破棄の件ですね」
「……ああ」
「いやあ、驚きました。まさかあんな公の場で堂々と。殿下も思い切ったことをします」
「…………」
「まあ、これでクララ嬢も一安心でしょう。聞きました?マーブル様からの嫌がらせ、相当、陰湿だったらしいですよ。階段から突き落とそうとしたとか、ドレスを破いたとか……。可憐なクララ嬢が本当にお気の毒で」
世間でまことしやかに囁かれている噂を、カインはさも事実であるかのように語る。
それは、アリスティードが昨夜から何度も耳にしている話だった。
『悪役令嬢マーブル・デュクロワ』
嫉妬深く陰湿で傲慢。平民を見下し、自分より立場の弱い者を虐げることを喜びとする悪魔のような女。
それが、世間一般の評価。
(悪魔、か……)
アリスティードの脳裏に、先ほどの光景が蘇る。
目をきらきらと輝かせ、串焼きを頬張っていた娘。
自分にぶつかり顔面蒼白になって謝っていた娘。
そして正体がバレそうになり慌てふためいて逃げていった娘。
どれも、『悪魔』という言葉とは程遠い姿だった。
(もちろん、猫を被っていた可能性もある。だが……)
あの紫の瞳に宿っていたのは、計算や悪意ではなく純粋な焦りと恐怖の色だったように思う。
「……その嫌がらせとやらは、公式な記録として残っているのか」
アリスティードが静かに尋ねると、カインはきょとんとした。
「え?いえ、公式な記録は……。あくまで、クララ嬢や、そのご友人の方々の証言ですね。ですがあれだけ大勢が口を揃えているのですから事実なのでは?」
「証言だけか。物証は?」
「さあ……。そこまでは……」
「……そうか」
噂や憶測。アリスティードが最も嫌うものだ。
彼は、己の目で見たものしか信じない。
そして、彼の目で見た『マーブル・デュクロワ』は噂とは明らかに違う、ただの不器用で不注意な町娘(の格好をした令嬢)だった。
もちろん、それだけで彼女の全てが分かったわけではない。
だが、アリスティードの中で無視できないほどの違和感が生まれていた。
「……カイン」
「はい、なんでしょう」
「昨夜、殿下が言及していたという『嫌がらせ』の件。具体的に、いつどこで何があったのか。非公式でいい。事実関係を洗っておけ」
「えっ……?は、はあ。承知しました。……ですがなぜ今更そんなことを?」
訝しげに問う副官に、アリスティードは冷然と答える。
「公爵令嬢のスキャンダルだ。王都の治安を預かる騎士団として、正確な情報を把握しておく必要がある。それだけだ」
「……なるほど。さすが団長、用意周到ですね」
カインは、納得したように頷くと、敬礼をして部屋を出ていった。
一人残された部屋で、アリスティードは窓の外に広がる王都の景色を眺める。
(噂と、実像。どちらが真実だ……?)
サファイアの瞳の奥で、静かな探究心と彼自身まだ気づいていない、ほんのわずかな興味の光が揺らめいていた。
悪役令嬢、マーブル・デュクロワ。
その正体をこの目で確かめてみたい。
氷血公爵は、初めて職務とは関係のない個人的な好奇心を抱いている自分に気づいていなかった。
「ううう……。最悪よ……、最悪だわ……」
「お嬢様、もうそのくらいで……。幸い、誰にも正体は気づかれていないのですから」
「そうだけれど!よりにもよって、あの氷血公爵……!思い出しただけで、凍えそうだわ!」
マーブルは、ガバッと顔を上げた。その顔は、まだ少し青ざめている。
「絶対に嫌な奴よ、あれは!人の顔をジロジロ見て!性格が悪いに、決まってるわ!」
「それは、お嬢様が殿方の顔を、まともに見られないだけでは……。それに、制服を汚されたのですから、怒るのも当然かと」
リリーの冷静なツッコミにマーブルはぐうの音も出ない。
「とにかく!もう二度と会いたくないわ!あんな堅物で嫌な奴、こっちから願い下げよ!」
マーブルが一方的にアリスティードへの印象を最悪なものに書き換えている頃。
当のアリスティードは、騎士団の自室で問題の制服を眺めていた。
「はあ……。見事な染みだな、これは」
染み抜きを専門とする業者に連絡はしたが、完全に落ちるかは分からないと言われたばかりだ。
コンコンと扉がノックされる。
「団長、入ります」
入ってきたのは、アリスティードの副官であるカインだった。赤茶色の髪を無造作に揺らし人懐っこい笑みを浮かべたアリスティードとは正反対の陽気な男だ。
「うわ、本当だ。見事にやられてますね、その制服。一体どこの命知らずです?そんなことをしたのは」
「……少し、不注意な者にぶつかられただけだ」
「へえ。団長に正面からぶつかってくるなんて猪か何かですかね?」
軽口を叩くカインを無視しアリスティードは執務机に向かう。
「それより、何の用だ」
「ああ、そうでした。昨夜の夜会での一件、団長にもご報告をと」
カインは、思い出したように一枚の報告書を机に置いた。
「ジュリアン殿下と、マーブル・デュクロワ公爵令嬢の婚約破棄の件ですね」
「……ああ」
「いやあ、驚きました。まさかあんな公の場で堂々と。殿下も思い切ったことをします」
「…………」
「まあ、これでクララ嬢も一安心でしょう。聞きました?マーブル様からの嫌がらせ、相当、陰湿だったらしいですよ。階段から突き落とそうとしたとか、ドレスを破いたとか……。可憐なクララ嬢が本当にお気の毒で」
世間でまことしやかに囁かれている噂を、カインはさも事実であるかのように語る。
それは、アリスティードが昨夜から何度も耳にしている話だった。
『悪役令嬢マーブル・デュクロワ』
嫉妬深く陰湿で傲慢。平民を見下し、自分より立場の弱い者を虐げることを喜びとする悪魔のような女。
それが、世間一般の評価。
(悪魔、か……)
アリスティードの脳裏に、先ほどの光景が蘇る。
目をきらきらと輝かせ、串焼きを頬張っていた娘。
自分にぶつかり顔面蒼白になって謝っていた娘。
そして正体がバレそうになり慌てふためいて逃げていった娘。
どれも、『悪魔』という言葉とは程遠い姿だった。
(もちろん、猫を被っていた可能性もある。だが……)
あの紫の瞳に宿っていたのは、計算や悪意ではなく純粋な焦りと恐怖の色だったように思う。
「……その嫌がらせとやらは、公式な記録として残っているのか」
アリスティードが静かに尋ねると、カインはきょとんとした。
「え?いえ、公式な記録は……。あくまで、クララ嬢や、そのご友人の方々の証言ですね。ですがあれだけ大勢が口を揃えているのですから事実なのでは?」
「証言だけか。物証は?」
「さあ……。そこまでは……」
「……そうか」
噂や憶測。アリスティードが最も嫌うものだ。
彼は、己の目で見たものしか信じない。
そして、彼の目で見た『マーブル・デュクロワ』は噂とは明らかに違う、ただの不器用で不注意な町娘(の格好をした令嬢)だった。
もちろん、それだけで彼女の全てが分かったわけではない。
だが、アリスティードの中で無視できないほどの違和感が生まれていた。
「……カイン」
「はい、なんでしょう」
「昨夜、殿下が言及していたという『嫌がらせ』の件。具体的に、いつどこで何があったのか。非公式でいい。事実関係を洗っておけ」
「えっ……?は、はあ。承知しました。……ですがなぜ今更そんなことを?」
訝しげに問う副官に、アリスティードは冷然と答える。
「公爵令嬢のスキャンダルだ。王都の治安を預かる騎士団として、正確な情報を把握しておく必要がある。それだけだ」
「……なるほど。さすが団長、用意周到ですね」
カインは、納得したように頷くと、敬礼をして部屋を出ていった。
一人残された部屋で、アリスティードは窓の外に広がる王都の景色を眺める。
(噂と、実像。どちらが真実だ……?)
サファイアの瞳の奥で、静かな探究心と彼自身まだ気づいていない、ほんのわずかな興味の光が揺らめいていた。
悪役令嬢、マーブル・デュクロワ。
その正体をこの目で確かめてみたい。
氷血公爵は、初めて職務とは関係のない個人的な好奇心を抱いている自分に気づいていなかった。
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