「おめでとうございます、婚約破棄ですね!」

パリパリかぷちーの

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「厨房の室温、摂氏三十五度を突破。これは調理環境として極めて劣悪ですわ。料理人の皆様の集中力が、一分につき一・二パーセントの割合で霧散していくのが目に見えるようです」

私は厨房の入り口で、温度計代わりの自作機器(金属棒と感熱素子の組み合わせ)を振り回しながら宣言した。

昨日、洗濯の動線を最適化したことで余ったエネルギーを、今日はこの『熱の迷宮』の解明に充てると決めていたのだ。

「ひ、ひぃ……。ラジーナ様、またお越しですか。今は夕食の仕込みで戦場なのです。熱いのは当たり前でしょう!」

料理長のハンスが、額の汗を拭いながら叫ぶ。

彼は私の「効率化」に最も抵抗を示している一人だが、その理由は単なる職人気質の頑固さによるものだ。

「当たり前、という言葉は思考停止のサインですわ、ハンス。見てください、そのオーブン。扉の隙間から、閣下が支払った貴重な薪のエネルギーが、熱線となって無駄に放出されています。これは領地の資金を直接焼いているのと同じですわ!」

私はオーブンの前にしゃがみ込み、扉の接合部を指差した。

「ここ。ここの密閉率を五パーセント高めるだけで、焼き時間は十分短縮され、使用する薪の量は二割削減できます。セバスさん! 耐熱性の粘土と断熱材を持ってきてください!」

「畏まりました。すでに廊下の角に用意してございます」

セバスさんの仕事も、最近は私の思考速度に追いつき始めている。

実に素晴らしい「最適化」の連鎖だ。

私がオーブンの隙間を埋め、空気の対流経路を物理学に基づいて修正していると、背後から涼やかな気配が近づいてきた。

「……また始まったか。ラジーナ、貴様は今度はオーブンと対話しているのか?」

アルリック閣下だ。

彼は、熱気に満ちた厨房の中でも一人だけ涼しい顔をして、私の作業を覗き込んでいる。

「対話ではありません。熱力学的な説得を試みているのですわ、閣下。見てください、この炎の色。酸素の供給量を調整したことで、完全燃焼に近い青白い光に変わりました。これこそ、純粋なエネルギーの姿です」

「……炎を見て『美しい』ではなく『純粋なエネルギー』と言うのは、世界で貴様一人だろうな」

閣下はそう言いながら、私の頬に飛んだ灰を、指先で軽く拭った。

その指先の冷たさが、火照った肌にあまりに心地よく、私は不意に作業の手を止めてしまった。

「……。閣下、その行為は私の作業効率を〇・五秒低下させました。それから、心拍数の上昇により体温がさらに零・三度上昇。冷却コストが嵩みますわ」

「そうか。ならば、私がこうして扇いでやることで、そのコストを相殺しよう」

閣下はどこからか取り出した扇で、私にゆっくりと風を送り始めた。

公爵が厨房の片隅で、跪いて作業する令嬢を扇ぐ。

あまりにも非論理的で、絵画のような(そして現場の料理人たちにとっては気まずい)光景だ。

「……あ、あの、閣下。お気持ちは嬉しいですが、その扇ぎ方。手首の角度が非効率です。もっとスナップを利かせれば、最小の筋力で最大の風量を得られますわ」

「……。貴様というやつは、どこまでも教えたがりだな」

閣下は苦笑しながらも、私の指摘通りに手首を動かし始めた。

「よし、オーブンの改修完了。ハンス! 今すぐ試作品のパンを焼きなさい。焼き上がりまでの時間は、従来より三割短縮されているはずですわ!」

「ええい、分かりましたよ! これで上手くいかなかったら、二度と厨房に入れないでもらいますからね!」

ハンスが半信半疑で生地を投入する。

そして……。

「……信じられん。もう焼けたのか? しかも、表面のパリッとした質感と中のしっとり感が、今までより完璧に調和している……」

厨房に、香ばしい香りが漂う。

料理人たちが次々と焼き上がったパンを囲み、驚嘆の声を上げた。

「これなら、一日に焼ける量が増えるぞ! 薪も余っているし、浮いた時間で新作のソースの研究ができる!」

「……素晴らしいわ。研究は未来への投資。ハンス、貴方の創造性を発揮するための時間を、私が物理的に生み出したのですわよ」

私が胸を張ると、ハンスはバツが悪そうに、しかし深く頭を下げた。

「……負けましたよ、お嬢様。あんたの数字は、確かに俺たちの腕を助けてくれる」

「認めればよろしい。さて、閣下! 次はこの厨房の廃熱を利用した『簡易床暖房システム』の構想について――」

「待て。それは明日にしろ」

アルリック閣下が、私の肩を抱き寄せて強引に立ち上がらせた。

「……今の貴様は、少しばかり熱に浮かれすぎている。まずは庭園に出て、頭を冷やせ。これは『冷却効率の最大化』のための閣下命令だ」

「……。閣下が『効率』という言葉を正しく使えるようになったのは喜ばしいですが、私の予定が……」

「予定なら、私が書き換えておいた。次の三十分は『私と二人で、何もしない時間』を過ごす。……計算不能な、無駄な時間だ」

「何もしない時間なんて、そんな非生産的な……」

「いいや。私の『心のエネルギー補充』には不可欠だ。行こう、ラジーナ」

私は閣下の力強い歩調に引きずられるようにして、厨房を後にした。

夕暮れの庭園。

風が吹き抜け、火照った体がゆっくりと冷えていく。

(……おかしい。外部からの冷却は進んでいるのに、胸の奥にある『熱源』だけが、一向に温度を下げようとしない。これは、新種の熱暴走かしら?)

私は隣を歩く閣下の横顔を盗み見て、自分の知らない「未知の数式」が、この領地に充満し始めているのを、認めざるを得なかった。

婚約破棄から十日余り。

私の合理的な世界は、この冷徹な公爵の手によって、少しずつ、けれど確実に「愛という名の非効率」に侵食されつつあった。
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