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夜会の翌日。
王城の第一王子執務室は、お通夜のような空気に包まれていた。
カイル・ヴァルデマール王太子は、高級なマホガニーの机に突っ伏していた。
「……頭が痛い」
昨晩のダンス対決での惨敗。
そして、公衆の面前で「不要」と断言された屈辱。
それらが二日酔いのように頭の中でガンガンと響いている。
「殿下、お加減が優れないのは重々承知しておりますが……」
控えめに声をかけたのは、側近の文官だ。
彼の顔色は青を通り越して土気色になっている。
「決裁をお願いいたします。これ以上遅れると、物流が止まります」
文官が差し出したのは、私の背丈ほどもありそうな書類の塔だった。
「なんだそれは! 嫌がらせか!」
カイル殿下が顔を上げて叫ぶ。
「本日分の未決裁書類です。外交文書、予算承認申請、騎士団からの備品購入依頼、それから……」
「うるさい! 見ればわかる!」
殿下は乱暴に一番上の書類をひったくった。
それは隣国からの通商条約に関する改定案だった。
びっしりと並ぶ文字。
難解な法律用語。
「…………」
殿下の目が泳ぐ。
一行読み、二行目で眉をひそめ、三行目で放り投げた。
「読めるかぁっ!!」
バサァッ!
書類が床に散らばる。
「文字が小さい! 行間が狭い! 言い回しが回りくどい! これを作成した担当者は馬鹿なのか!?」
「い、いえ、それは国際標準の書式でして……」
「なら標準がおかしい! おい、要約だ! いつもの『三行まとめ』はどうした!」
殿下が机の上をバンバン叩く。
文官は泣きそうな顔で首を振った。
「ですから、その要約を作成していたのが、メモリア様でございます」
「……ッ」
その名前が出た瞬間、殿下の動きが止まった。
「メモリア様は、毎朝五時に登城し、殿下が起きる前に全ての書類に目を通し、重要ポイントだけを抜き出した付箋を貼っておられました。殿下は、その付箋を読んで『許可』か『却下』のハンコを押すだけでよかったのです」
「……知らん! そんなこと頼んでいない!」
「頼まれずとも、やっておられたのです。殿下の……その、読解力を補うために」
「僕を馬鹿だと言いたいのか!?」
「滅相もございません!(事実ですが)」
文官は心の中の声を必死に飲み込んだ。
「ええい、もういい! リナを呼べ! リナなら、僕を癒やしてくれるはずだ! あの子に読んで聞かせてもらえばいい!」
「リナ様ですか? リナ様なら、先ほどからソファで寝ておられますが」
「え?」
殿下が振り返ると、執務室のソファで、リナ男爵令嬢がスヤスヤと寝息を立てていた。
昨夜の夜会で張り切りすぎたのか、ドレスを着たまま大の字だ。
「リ、リナ……?」
「むにゃ……もう食べられません……公爵様ぁ……」
寝言で叔父上の名前を呼んでいる。
殿下のこめかみに青筋が浮かんだ。
「……起こせ」
「はい?」
「起こして、この書類を読ませろ!」
「承知いたしました」
文官がリナ嬢を揺り起こす。
「ふぇ? ……あ、カイル様ぁ。おはようございますぅ」
リナ嬢は目をこすりながら、可愛らしく(計算済みの角度で)微笑んだ。
「リナ、頼みがある。この書類を読んでくれ」
「えー? 書類ぃ? 私、難しい字は読めませぇん」
「……」
「だってぇ、女の子が賢すぎると可愛くないって、カイル様が言ったんじゃないですかぁ。メモリアさんみたいになっちゃいますよぉ?」
リナ嬢は悪びれもせずに言った。
カイル殿下は言葉に詰まった。
確かに言った。
「お前は何も知らなくていい。ただ笑っていればいい」と。
それが今、特大のブーメランとなって後頭部に突き刺さっている。
「で、でも、隣国の言葉くらいわかるだろう?」
「えー、わかりませーん。だって授業サボってたもーん」
「……」
殿下は天を仰いだ。
絶望的だ。
この部屋に、戦力になる人間がいない。
その時、廊下からドタドタと足音が近づいてきた。
「失礼します! 緊急事態です!」
飛び込んできたのは、騎士団長だった。
「何だ騒々しい! 今、取り込み中だ!」
「それどころではありません! 魔獣討伐の遠征費が下りていないため、食料の調達ができません! 兵士たちが腹を空かせて暴動寸前です!」
「はあ!? 予算なら先週承認したはずだぞ!」
「いえ、承認印がありません! 経理局に問い合わせたところ、『申請書の不備』で止まっていると!」
「不備だと!?」
「はい! これまではメモリア様が、申請書のミスを事前に修正して通してくださっていたようで……」
まただ。
またメモリアの名前だ。
「さらに報告があります!」
今度は財務大臣が血相を変えて入ってきた。
「王城の暖房用魔石の在庫が切れました! 発注リストの更新がされていません!」
「な、なんだと……寒くなるじゃないか!」
「担当者に確認したところ、『在庫管理はメモリア様が一括で行っていたので、パスワードがわかりません』と!」
「パ、パスワードぉ!?」
次々と報告者が雪崩れ込んでくる。
「殿下! 来週の舞踏会の招待状、宛名書きが終わっていません!」
「殿下! 王家直轄領の洪水の対策会議、資料が見当たりません!」
「殿下! おやつのドーナツが届いていません!」
「知るかぁぁぁっ!!」
カイル殿下がついに爆発した。
彼は髪をかきむしり、叫び声を上げた。
「どいつもこいつもメモリア、メモリア! あいつがいなきゃ何もできないのか、この城の人間は!」
シーン、と場が静まり返る。
全員の目が語っていた。
(((はい、できません)))
と。
王城の事務機能は、実はここ数年、メモリア・アッシュという一人の少女の超人的なハードワークによって支えられていたのだ。
彼女は「悪役令嬢」と呼ばれながらも、その実、影の宰相とも言うべき働きをしていた。
それを「可愛げがない」「出しゃばりだ」と排除した結果が、これだ。
「くそっ……くそっ……!」
殿下は震える手で書類を掴んだ。
「読んでやる……読んでやるとも! 僕だって王太子だ! これくらい……!」
彼は書類に目を落とした。
『第十三条第四項における関税撤廃の特例措置に関しては、前年度の条約第九条に基づき……』
「……zzZ」
「寝るな殿下あああああっ!!」
文官の絶叫が響き渡った。
一方その頃。
王城から馬車で三十分ほどの距離にある、ヴァルデマール公爵邸。
そこには、優雅な午後を過ごす二人の姿があった。
「――というわけで、王城の物流システムには致命的な欠陥がありまして」
「ふむ」
私は日当たりの良いテラスで、紅茶(最高級茶葉)を飲みながら説明していた。
「特定の個人に依存しすぎた業務フローは、その個人が欠けた瞬間に崩壊します。これを『属人化のリスク』と呼びます」
「なるほど。で、その対策は?」
「マニュアル化と情報の共有化です。……私は何度も提案したのですが、カイル殿下も大臣たちも『面倒くさい』『お前がやればいい』と聞き入れませんでした」
「愚かだな」
向かいの席で、アレクシス公爵が新聞を読みながら頷いた。
彼の前には、山盛りの角砂糖が入ったティーカップと、ホールケーキ(三分の一カット済み)が置かれている。
「その愚か者たちのせいで、今頃城は大パニックだろう」
「でしょうね。特に今日は、月ごとの決算日ですから」
私は優越感と共にクッキーを齧った。
「ざまぁみろ、ですね」
「口が悪いぞ、メモリア」
公爵が笑う。
「だが、気分はいい。……お前がここにいるだけで、俺の執務室は平和そのものだ」
実際、公爵邸の業務は劇的に改善されていた。
私が整理した書類棚は機能的に運用され、使用人たちへの指示系統も一本化された。
公爵の仕事時間は半減し、その分、こうして私とお茶をする時間(サボりとも言う)が増えている。
「平和なのは良いことですが、閣下」
「ん?」
「口の周りにクリームがついていますよ」
「……取ってくれ」
公爵が顔を近づけてくる。
「自分で拭いてください」
「手が塞がっている」
彼は両手で新聞を持っている。
仕方なく、私はナプキンで彼の口元を拭ってあげた。
「……はい、取れました」
「ありがとう。……やはりお前は優秀な秘書だ」
公爵は満足げに新聞を畳んだ。
「さて、そろそろ戻るか。……今日は早く仕事を切り上げて、街へ出かけないか?」
「街へ?」
「ああ。お前の眼鏡を新調したい。昨日のコンタクトも良かったが、やはりお前には知的な眼鏡が似合う」
「……それはデートのお誘いでしょうか?」
「視察だ。……美味しい酒場があるらしいぞ」
「行きます。喜んで」
即答だった。
王城での地獄のような日々が嘘のようだ。
労働環境が改善されると、人生とはこうも色鮮やかになるものなのか。
私は空を見上げた。
王城の方角には、どす黒い雨雲がかかっているような気がした。
「……ま、精々頑張ってください、殿下」
他人事のように呟き、私は公爵と共にテラスを後にした。
しかし。
私たちがのんびりとデート(視察)を楽しんでいる間に、追い詰められた王城側が、なりふり構わぬ手段に出ようとしていることを、私はまだ知らなかった。
カイル殿下の無能さに業を煮やした「あの方」が、ついに動き出すのだ。
王城の第一王子執務室は、お通夜のような空気に包まれていた。
カイル・ヴァルデマール王太子は、高級なマホガニーの机に突っ伏していた。
「……頭が痛い」
昨晩のダンス対決での惨敗。
そして、公衆の面前で「不要」と断言された屈辱。
それらが二日酔いのように頭の中でガンガンと響いている。
「殿下、お加減が優れないのは重々承知しておりますが……」
控えめに声をかけたのは、側近の文官だ。
彼の顔色は青を通り越して土気色になっている。
「決裁をお願いいたします。これ以上遅れると、物流が止まります」
文官が差し出したのは、私の背丈ほどもありそうな書類の塔だった。
「なんだそれは! 嫌がらせか!」
カイル殿下が顔を上げて叫ぶ。
「本日分の未決裁書類です。外交文書、予算承認申請、騎士団からの備品購入依頼、それから……」
「うるさい! 見ればわかる!」
殿下は乱暴に一番上の書類をひったくった。
それは隣国からの通商条約に関する改定案だった。
びっしりと並ぶ文字。
難解な法律用語。
「…………」
殿下の目が泳ぐ。
一行読み、二行目で眉をひそめ、三行目で放り投げた。
「読めるかぁっ!!」
バサァッ!
書類が床に散らばる。
「文字が小さい! 行間が狭い! 言い回しが回りくどい! これを作成した担当者は馬鹿なのか!?」
「い、いえ、それは国際標準の書式でして……」
「なら標準がおかしい! おい、要約だ! いつもの『三行まとめ』はどうした!」
殿下が机の上をバンバン叩く。
文官は泣きそうな顔で首を振った。
「ですから、その要約を作成していたのが、メモリア様でございます」
「……ッ」
その名前が出た瞬間、殿下の動きが止まった。
「メモリア様は、毎朝五時に登城し、殿下が起きる前に全ての書類に目を通し、重要ポイントだけを抜き出した付箋を貼っておられました。殿下は、その付箋を読んで『許可』か『却下』のハンコを押すだけでよかったのです」
「……知らん! そんなこと頼んでいない!」
「頼まれずとも、やっておられたのです。殿下の……その、読解力を補うために」
「僕を馬鹿だと言いたいのか!?」
「滅相もございません!(事実ですが)」
文官は心の中の声を必死に飲み込んだ。
「ええい、もういい! リナを呼べ! リナなら、僕を癒やしてくれるはずだ! あの子に読んで聞かせてもらえばいい!」
「リナ様ですか? リナ様なら、先ほどからソファで寝ておられますが」
「え?」
殿下が振り返ると、執務室のソファで、リナ男爵令嬢がスヤスヤと寝息を立てていた。
昨夜の夜会で張り切りすぎたのか、ドレスを着たまま大の字だ。
「リ、リナ……?」
「むにゃ……もう食べられません……公爵様ぁ……」
寝言で叔父上の名前を呼んでいる。
殿下のこめかみに青筋が浮かんだ。
「……起こせ」
「はい?」
「起こして、この書類を読ませろ!」
「承知いたしました」
文官がリナ嬢を揺り起こす。
「ふぇ? ……あ、カイル様ぁ。おはようございますぅ」
リナ嬢は目をこすりながら、可愛らしく(計算済みの角度で)微笑んだ。
「リナ、頼みがある。この書類を読んでくれ」
「えー? 書類ぃ? 私、難しい字は読めませぇん」
「……」
「だってぇ、女の子が賢すぎると可愛くないって、カイル様が言ったんじゃないですかぁ。メモリアさんみたいになっちゃいますよぉ?」
リナ嬢は悪びれもせずに言った。
カイル殿下は言葉に詰まった。
確かに言った。
「お前は何も知らなくていい。ただ笑っていればいい」と。
それが今、特大のブーメランとなって後頭部に突き刺さっている。
「で、でも、隣国の言葉くらいわかるだろう?」
「えー、わかりませーん。だって授業サボってたもーん」
「……」
殿下は天を仰いだ。
絶望的だ。
この部屋に、戦力になる人間がいない。
その時、廊下からドタドタと足音が近づいてきた。
「失礼します! 緊急事態です!」
飛び込んできたのは、騎士団長だった。
「何だ騒々しい! 今、取り込み中だ!」
「それどころではありません! 魔獣討伐の遠征費が下りていないため、食料の調達ができません! 兵士たちが腹を空かせて暴動寸前です!」
「はあ!? 予算なら先週承認したはずだぞ!」
「いえ、承認印がありません! 経理局に問い合わせたところ、『申請書の不備』で止まっていると!」
「不備だと!?」
「はい! これまではメモリア様が、申請書のミスを事前に修正して通してくださっていたようで……」
まただ。
またメモリアの名前だ。
「さらに報告があります!」
今度は財務大臣が血相を変えて入ってきた。
「王城の暖房用魔石の在庫が切れました! 発注リストの更新がされていません!」
「な、なんだと……寒くなるじゃないか!」
「担当者に確認したところ、『在庫管理はメモリア様が一括で行っていたので、パスワードがわかりません』と!」
「パ、パスワードぉ!?」
次々と報告者が雪崩れ込んでくる。
「殿下! 来週の舞踏会の招待状、宛名書きが終わっていません!」
「殿下! 王家直轄領の洪水の対策会議、資料が見当たりません!」
「殿下! おやつのドーナツが届いていません!」
「知るかぁぁぁっ!!」
カイル殿下がついに爆発した。
彼は髪をかきむしり、叫び声を上げた。
「どいつもこいつもメモリア、メモリア! あいつがいなきゃ何もできないのか、この城の人間は!」
シーン、と場が静まり返る。
全員の目が語っていた。
(((はい、できません)))
と。
王城の事務機能は、実はここ数年、メモリア・アッシュという一人の少女の超人的なハードワークによって支えられていたのだ。
彼女は「悪役令嬢」と呼ばれながらも、その実、影の宰相とも言うべき働きをしていた。
それを「可愛げがない」「出しゃばりだ」と排除した結果が、これだ。
「くそっ……くそっ……!」
殿下は震える手で書類を掴んだ。
「読んでやる……読んでやるとも! 僕だって王太子だ! これくらい……!」
彼は書類に目を落とした。
『第十三条第四項における関税撤廃の特例措置に関しては、前年度の条約第九条に基づき……』
「……zzZ」
「寝るな殿下あああああっ!!」
文官の絶叫が響き渡った。
一方その頃。
王城から馬車で三十分ほどの距離にある、ヴァルデマール公爵邸。
そこには、優雅な午後を過ごす二人の姿があった。
「――というわけで、王城の物流システムには致命的な欠陥がありまして」
「ふむ」
私は日当たりの良いテラスで、紅茶(最高級茶葉)を飲みながら説明していた。
「特定の個人に依存しすぎた業務フローは、その個人が欠けた瞬間に崩壊します。これを『属人化のリスク』と呼びます」
「なるほど。で、その対策は?」
「マニュアル化と情報の共有化です。……私は何度も提案したのですが、カイル殿下も大臣たちも『面倒くさい』『お前がやればいい』と聞き入れませんでした」
「愚かだな」
向かいの席で、アレクシス公爵が新聞を読みながら頷いた。
彼の前には、山盛りの角砂糖が入ったティーカップと、ホールケーキ(三分の一カット済み)が置かれている。
「その愚か者たちのせいで、今頃城は大パニックだろう」
「でしょうね。特に今日は、月ごとの決算日ですから」
私は優越感と共にクッキーを齧った。
「ざまぁみろ、ですね」
「口が悪いぞ、メモリア」
公爵が笑う。
「だが、気分はいい。……お前がここにいるだけで、俺の執務室は平和そのものだ」
実際、公爵邸の業務は劇的に改善されていた。
私が整理した書類棚は機能的に運用され、使用人たちへの指示系統も一本化された。
公爵の仕事時間は半減し、その分、こうして私とお茶をする時間(サボりとも言う)が増えている。
「平和なのは良いことですが、閣下」
「ん?」
「口の周りにクリームがついていますよ」
「……取ってくれ」
公爵が顔を近づけてくる。
「自分で拭いてください」
「手が塞がっている」
彼は両手で新聞を持っている。
仕方なく、私はナプキンで彼の口元を拭ってあげた。
「……はい、取れました」
「ありがとう。……やはりお前は優秀な秘書だ」
公爵は満足げに新聞を畳んだ。
「さて、そろそろ戻るか。……今日は早く仕事を切り上げて、街へ出かけないか?」
「街へ?」
「ああ。お前の眼鏡を新調したい。昨日のコンタクトも良かったが、やはりお前には知的な眼鏡が似合う」
「……それはデートのお誘いでしょうか?」
「視察だ。……美味しい酒場があるらしいぞ」
「行きます。喜んで」
即答だった。
王城での地獄のような日々が嘘のようだ。
労働環境が改善されると、人生とはこうも色鮮やかになるものなのか。
私は空を見上げた。
王城の方角には、どす黒い雨雲がかかっているような気がした。
「……ま、精々頑張ってください、殿下」
他人事のように呟き、私は公爵と共にテラスを後にした。
しかし。
私たちがのんびりとデート(視察)を楽しんでいる間に、追い詰められた王城側が、なりふり構わぬ手段に出ようとしていることを、私はまだ知らなかった。
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