君のような悪女とは婚約破棄だ!と言われたので帰ります

パリパリかぷちーの

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王都を出てから三時間が経過しました。

窓の外にはのどかな田園風景が広がっていますが、車内の空気は依然として張り詰めたままです。

向かいに座るギルバート様は、まるで彫像のように動きません。

組んだ腕、閉じられた目、そして引き結ばれた口元。

時折、馬車が大きな石に乗り上げてガタンと揺れる時だけ、彼の太い眉がピクリと動きます。

(……暇だわ)

私は心の中で盛大に嘆息しました。

本を読むにも酔いそうだし、外の景色も見飽きました。

何より、目の前の氷山のような騎士様が気になって仕方がありません。

先ほどクッキーを渡した時の、あの一瞬の目の輝き。

あれは私の見間違いだったのでしょうか。

(いえ、私の観察眼はアレン様の浮気を見抜くほど鋭いのよ。絶対に何かあるはずだわ)

私は作戦を変更することにしました。

「……ふぁ」

わざとらしくあくびを一つ。

「少し眠くなってしまいましたわ。セバスチャン、起こさないでね」

「承知いたしました、お嬢様」

私は座席のクッションに頭を預け、ゆっくりと目を閉じました。

寝息を整え、完全に熟睡しているフリを決め込みます。

視界は闇に包まれましたが、その分、聴覚が研ぎ澄まされます。

車輪の音、馬の蹄の音、そして……。

ゴソッ。

衣擦れの音がしました。

(動いた!)

私は呼吸を乱さないように細心の注意を払います。

気配からして、ギルバート様が体勢を崩したようです。

彼はこちらを窺っているのでしょうか。

しばらくの沈黙の後、再びゴソゴソという音が聞こえました。

どうやら、懐から何かを取り出しているようです。

(短剣? まさか暗殺? いや、それならもっと静かにやるはずよね)

カサリ、という乾いた音。

それは紙袋を開ける音でした。

続いて、サクッ、サクッという軽快な咀嚼音。

(……食べた!)

私は薄目を開けて状況を確認したい衝動に駆られましたが、ここは我慢です。

相手は騎士団長。

気配を察知される恐れがあります。

「……ん」

私は寝言を装って少し身じろぎしました。

咀嚼音がピタリと止まります。

数秒の静寂。

私が再び動かなくなると、彼は安堵したように小さく息を吐きました。

「……ふぅ」

そして、先ほどよりもリラックスした様子で、サクサクと音を立て始めました。

今だ!

私はカッと目を見開きました。

「美味しいですの?」

「ブッ!!」

ギルバート様が盛大に吹き出しました。

咳き込みながら慌てて口元を覆いますが、もう手遅れです。

彼の手には、私が先ほど渡したクッキーの袋が握られていました。

そして何より衝撃的だったのは、その表情です。

あの氷のような無表情が崩れ去り、頬を赤らめ、目を見開いて硬直しています。

口の端には、クッキーの食べかすがちょこんと付いていました。

「あ……いや、これは……」

「寝たふりをしていて申し訳ありません。でも、あまりにも美味しそうな音が聞こえてきたものですから」

私は悪戯っぽく微笑みながら、身体を起こしました。

ギルバート様は、戦場で敵に囲まれた時よりも焦っているように見えます。

「ち、違うのです。これは、その……貴殿が寝ている間に、毒味の続きを……」

「毒味? 三時間も経ってから?」

「そ、それは……遅効性の毒の可能性を考慮して……」

「ふふっ、苦しい言い訳ですわね」

私は扇で口元を隠し、肩を震わせて笑いました。

「正直に仰ってくださいな。甘いものがお好きなのでしょう?」

ギルバート様は観念したように肩を落としました。

その姿は、巨大な熊が小さくなっているようで、なんだか可愛らしく見えてきます。

「……騎士団長としての威厳に関わるため、他言無用に願いたい」

「あら、脅しですの?」

「頼み、だ」

彼は真剣な眼差しで私を見つめました。

「部下たちには『甘いものなど軟弱な男が好むものだ』と指導している手前、知られるわけにはいかないのだ」

「なるほど。氷の騎士様にも、そんな秘密があったのですね」

私はニヤリと笑いました。

これは使える。

弱みを握った、というわけではありませんが、交渉の材料にはなりそうです。

「わかりましたわ。このことは二人だけの秘密にしましょう」

「本当か!?」

「ええ。その代わり……」

私はバスケットから、さらに別の包みを取り出しました。

「これから領地に着くまで、私のお茶会に付き合ってくださいな。一人で食べるおやつほど味気ないものはありませんもの」

そう言って差し出したのは、高級茶葉を使ったパウンドケーキです。

ギルバート様の喉がゴクリと鳴りました。

「……それだけか?」

「ええ。それと、美味しいお店の情報交換ができれば最高ですわね」

「……王都の三番街にある『黒猫亭』の蜂蜜タルトは絶品だ」

「! あそこ、気になっていましたの! いつも行列で入れなくて」

「裏口から入れば並ばずに買える。店主が私の剣の師匠でな」

「まあ! 素晴らしいコネクションをお持ちですのね!」

気がつけば、私たちは身を乗り出して話し込んでいました。

セバスチャンが「やれやれ」といった顔でポットから紅茶を注いでくれます。

「どうぞ、ギルバート様」

「かたじけない」

渡されたカップを大きな手で包み込むように持ち、彼は一口啜りました。

そして、パウンドケーキを口に運びます。

その瞬間、彼の周りに幻覚の花が咲いたように見えました。

強面の皺が伸び、目尻が下がり、なんとも幸せそうな顔になるのです。

(……ギャップ萌えって、こういうことを言うのかしら)

私は内心でときめきを覚えつつ、自分の紅茶を飲みました。

「それにしても、ギルバート様。そんなに甘いものがお好きなら、堂々としていればよろしいのに」

「……私の顔を見ればわかるだろう」

彼は自嘲気味に笑いました。

「この顔で『マカロンが好きだ』などと言えば、店員が悲鳴を上げて逃げ出すか、裏の意味があるのではないかと勘繰られるのがオチだ」

「裏の意味?」

「『マカロン(隠語で心臓)』をよこせ、とか」

「ぶっ!」

今度は私が吹き出す番でした。

「なんですかそれ! 傑作ですわ!」

「笑い事ではない。以前、ケーキ屋の前で商品を眺めていただけなのに、店主が震えながら『金ならレジの中にあります!』と叫んだこともある」

「あはははは! お腹、お腹が痛いですわ!」

私は涙が出るほど笑いました。

アレン様の前では決して見せられなかった、心からの大笑いです。

ギルバート様はむっとした顔をしていましたが、私が笑い続けるのを見て、やがてつられるように小さく笑いました。

「……貴殿は、変わっているな」

「そうですか?」

「私を恐れない令嬢は初めてだ。それに、あんな大騒動の直後に、こうして笑っていられるとは」

「泣いても笑っても、現実は変わりませんもの。なら、笑って美味しいものを食べた方がお得でしょう?」

私がウィンクをしてみせると、ギルバート様は眩しそうに目を細めました。

「……強いな、ニナリー嬢は」

「いいえ、図太いだけですわ」

揺れる馬車の中、甘い香りと笑い声が満ちていきます。

王都での嫌な記憶が、急速に薄れていくのを感じました。

ふと窓の外を見ると、日は西に傾き始めていました。

「お嬢様、そろそろ宿場町が見えてまいります」

セバスチャンの声に、私は伸びをしました。

「今日の宿はどんなところかしら」

「街道沿いですが、料理が評判の宿だそうです。特に煮込み料理が」

「肉料理か。悪くない」

ギルバート様が即座に反応しました。

さっきまで甘味の話をしていたのに、もう夕食の心配です。

私は思わず吹き出しそうになりながら言いました。

「では、今夜は騎士団長様と元悪役令嬢の、ささやかな宴といたしましょうか」

「……悪くない提案だ」

氷の騎士様は、今度は隠すことなく、穏やかに微笑んでくれました。

それは、どんな宝石よりも魅力的な、不器用で優しい笑顔でした。
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