8 / 28
8
しおりを挟む
ルーナがハーブ園の手入れに満足し、摘みたてのハーブをカゴに満たして立ち上がった頃には、空はすっかり夕焼け色に染まっていた。
「ふぅ。良い運動になりましたわ」
額にうっすらと浮かんだ汗を、ルーナはエプロンの袖で無造作に拭った。
その仕草は、公爵令嬢のものとは到底思えないほど、堂に入っている。
「……」
厨房の勝手口には、いまだに「氷の騎士」様が、腕を組んだまま仁王立ちになっていた。
その表情は、ハーブ園に来た時よりも、さらに険しく、冷たくなっている。
(まだいらっしゃったの。ご苦労様なことですわ)
ルーナは、その石像のような監視役を完全に無視して、カゴをアンナに手渡した。
「アンナ。これは後でハーブティーにしましょう。夕食の準備も始めませんとね」
「はい、お嬢様。本日は何をお作りに?」
「そうね…まずは、長旅の疲れを癒す、温かいスープですわね。それから、簡単に焼けるパンと…」
ルーナが楽しそうに献立を考えていると、背後から地殻変動のような低い声がかかった。
「…貴様」
「はい、なんでしょう、副団長様」
ルーナは、面倒くさそうに振り返った。
「謹慎中の身でありながら、庭仕事の次は夕食の準備か。ずいぶんと優雅な『謹慎』だな」
皮肉と非難が込められた言葉。
だが、ルーナには全く効力がなかった。
「あら。わたくし、食事は生きる上で最も重要なことだと教育されましたわ。謹慎中でも、お腹は空きますもの」
「…使用人に作らせればいいだろう。貴様が厨房に立つ必要はない」
(この堅物様は、わたくしが厨房で毒でも作ると疑ってらっしゃるのかしら)
ルーナは、小さくため息をついた。
「わたくしは、自分の食べたいものを、自分の手で、一番美味しい瞬間に食べるのが好きなのですわ。そういう趣味なの。それとも何ですの? 監視役様は、わたくしの食事内容まで管理するおつもり?」
「……」
アレクシスは、ぐっと言葉に詰まった。
確かに、謹慎中の食事内容について、王子から特別な指示は受けていない。
「結構ですわ」
ルーナは、アレクシスが何か言う前に、さっさと厨房に戻ってしまった。
当然のように、アレクシスも後を追う。
厨房は、彼の監視任務において、最も警戒すべき場所の一つだったからだ。(毒物混入などを警戒している)
「では、アンナ、エマ。始めましょうか」
ルーナは、髪をきつく結び直し、手を丁寧に洗うと、新しいエプロンをきりりと締めた。
その瞬間、彼女の纏う空気が変わった。
面倒くさがりの令嬢から、厨房を支配する「料理人」の顔へ。
「まずは、スコーンを焼きますわ。お腹が空いては、良いスープも作れません」
「まあ、スコーン!」
アンナが嬉しそうに声を上げる。
ルーナは、王都から持ち込んだ最高級の小麦粉を、大きな銅のボウルにふるい入れた。
そこへ、キンキンに冷やしておいたバターの塊を惜しげもなく投入する。
「…おい」
アレクシスは、そのバターの量を見て、思わず声を上げた。
(あんな量の油脂を…正気か?)
「何か? 副団長様。お菓子作りというのは、小麦粉とバターと砂糖でできているのですわよ」
ルーナは、アレクシスの怪訝な視線など気にせず、カードを使ってバターを小麦粉の中で細かく刻み始めた。
その手つきは、驚くほど正確で、淀みがない。
厨房に、カツカツとリズミカルな音だけが響く。
アレクシスは、その無駄のない動きから、目が離せなくなっていた。
(本当に…趣味、なのか?)
彼が知る令嬢たちの、遊び半分のお菓子作りとは、明らかにレベルが違った。
やがて、生地がそぼろ状になると、ルーナは牛乳と卵を加え、さっくりと一つにまとめた。
「エマ。オーブンに火を入れておいてちょうだい。温度は高めで」
「はい、かしこまりました!」
ルーナは、打ち粉をした台に生地を取り出すと、手早く伸ばし、型で抜いていく。
あっという間に、十数個の丸い生地が天板に並べられた。
「よし。これで第一弾はOKですわ」
オーブンに入れられた生地は、高温の中で見る見るうちに膨らみ始めた。
厨房に、バターと小麦粉が焼ける、暴力的なまでに甘く、香ばしい匂いが充満し始める。
「……」
アレクシスは、その匂いに、思わず喉が鳴りそうになるのを必死で堪えた。
彼は、五日間の過酷な馬車移動と、到着後の徹底した検分で、疲労困憊していた。
まともな食事も、昼から摂っていない。
この香りは、空腹の騎士にとって、一種の拷問だった。
(くそ…悪女の策略か…!)
アレクシスは、これを「匂いによる精神攻撃」と断定し、さらに警戒を強めた。
チーン、とオーブンのタイマーが鳴った。
「焼けましたわ!」
アンナが、ミトンをはめた手で、黄金色に輝くスコーンが並んだ天板を取り出す。
それは、完璧な「狼の口」(スコーンの割れ目)が開いた、理想的な焼き上がりだった。
「素晴らしいわ、アンナ。完璧な火加減よ」
「お嬢様の生地が素晴らしかったからですわ」
主従が、うふふと笑い合う。
アレクシスは、その和やかな(そして、自分だけが部外者の)空気に、ますます居心地の悪さを感じていた。
ルーナは、焼きたてのスコーンを一つ手に取ると、ふうふうと冷ました。
「さて。毒味(あじみ)ですわ」
(毒味だと!?)
アレクシスの神経が、ピリッと張り詰める。
ルーナは、そんなアレクシスの緊張などお構いなしに、スコーンをぱかりと二つに割った。
湯気と共に、芳醇なバターの香りが立ち上る。
ルーナは、それにエマお手製のベリージャムと、王都から持参したクロテッドクリーム(乳脂肪の塊)を、これでもかと乗せた。
(また油脂を…!)
アレクシスの眉間のシワが、さらに深くなる。
そして、ルーナは、それを大きな口で、幸せそうに頬張った。
「ん~! 最高ですわ!」
(…自分で食った)
アレクシスは、毒見(味見)という言葉通りの行動に、拍子抜けした。
(いや、待て。自分だけが食べることで、俺を油断させる作戦か…?)
ルーナは、二口、三口と食べ進めると、満足そうに頷いた。
「よし。これなら、お客様(・・)に出しても恥ずかしくありませんわね」
そう言うと、ルーナは新しい皿に、焼きたてのスコーンを二つ乗せた。
ジャムとクリームも、たっぷり添える。
そして、先ほど摘んだばかりのミントで淹れた、熱々のハーブティーもカップに注いだ。
「はい、アンナ。お客様にどうぞ」
「はい、お嬢様」
アンナは、その盆を持つと、にこやかにアレクシスの方へ向かった。
「…なんだ」
アレクシスは、後ずさりしそうになるのを堪え、低い声で威嚇した。
「副団長様。お嬢様からですわ。長旅と、先ほどのお庭仕事(・・・)のお手伝い(・・・・)、お疲れ様でした、と」
「俺は手伝など…!」
「まあまあ。どうぞ。焼きたてが一番美味しいのですから」
アンナは、有無を言わさぬ笑顔で、盆をアレクシスに突き出した。
「…いらん」
アレクシスは、短く拒絶した。
(悪女からの施しなど、受けられるか。毒が入っているに決まっている)
「あら、そうですの?」
厨房の奥から、ルーナのあっけらかんとした声が飛んできた。
「お嫌なら、結構ですわ。わたくし、食べ物を無駄にするのは大嫌いですの。アンナ、それは下げてちょうだい。わたくしが、スープの前にいただきますわ」
「かしこまりました」
アンナが、本当に盆を引こうとした、その瞬間だった。
ぐうぅぅ~~~~…。
静まり返った厨房に、盛大な「腹の虫」の音が響き渡った。
それは、空腹を我慢し続けた、堅物騎士の胃袋が上げた、悲痛な叫びだった。
「「「…………」」」
ルーナとアンナ、そしてエマの視線が、音の発生源に集まる。
アレクシスの「氷の仮面」が、音を立てて砕け散った。
彼の顔は、夕焼けよりも真っ赤に染まっていた。
人生最大の屈辱だった。
「…っ」
アレクシスは、羞恥と怒りで震える手で、ひったくるように盆を受け取った。
「…監視対象の出すものを、検分するのも任務だ」
誰に言うでもない言い訳を、くぐもった声で呟く。
「あら、そうですの。どうぞ、ごゆっくり『検分』してくださいまし」
ルーナは、笑いをこらえるのに必死で、顔を背けていた。
アレクシスは、厨房の隅に行くと、忌々しそうにスコーンを睨みつけた。
(こうなれば、食ってやる。そして、もし毒なら、その場でこいつを斬り捨ててやる)
彼は、ヤケクソ気味に、スコーンを大きく一口、頬張った。
サクッ。
まず、外側の香ばしい歯触り。
そして、内側の、しっとりとして、バターの香りが鼻に抜ける、優しい甘さ。
ジャムの酸味と、クリームの濃厚なコクが、完璧な調和を生み出している。
「……!」
アレクシスの青い目が、驚愕に見開かれた。
(な…なんだ、これは…)
彼が今まで知っていた「スコーン」という名の、パサパサした粉の塊とは、全くの別物だった。
疲労困憊した体に、その温かさと甘さが、雷のように染み渡っていく。
「…っ」
アレクシスは、騎士のプライドも、悪女への警戒心も、何もかも忘れて、夢中で二口目、三口目を頬張った。
(うまい…)
言葉にならない、素直な感想が、胸の奥から込み上げてくる。
「…うまい」
それは、アレクシス自身にも聞こえないほどの、小さな呟きだった。
しかし、ルーナの耳は、それを確かに捉えていた。
(ふふ。かかりましたわね)
ルーナは、スープ用の玉ねぎを刻みながら、誰にも気づかれないよう、小さく、悪役令嬢のように口の端を吊り上げた。
「氷の騎士」様が、悪役令嬢の差し入れによって、まず「胃袋」から陥落させられ始めた瞬間だった。
「ふぅ。良い運動になりましたわ」
額にうっすらと浮かんだ汗を、ルーナはエプロンの袖で無造作に拭った。
その仕草は、公爵令嬢のものとは到底思えないほど、堂に入っている。
「……」
厨房の勝手口には、いまだに「氷の騎士」様が、腕を組んだまま仁王立ちになっていた。
その表情は、ハーブ園に来た時よりも、さらに険しく、冷たくなっている。
(まだいらっしゃったの。ご苦労様なことですわ)
ルーナは、その石像のような監視役を完全に無視して、カゴをアンナに手渡した。
「アンナ。これは後でハーブティーにしましょう。夕食の準備も始めませんとね」
「はい、お嬢様。本日は何をお作りに?」
「そうね…まずは、長旅の疲れを癒す、温かいスープですわね。それから、簡単に焼けるパンと…」
ルーナが楽しそうに献立を考えていると、背後から地殻変動のような低い声がかかった。
「…貴様」
「はい、なんでしょう、副団長様」
ルーナは、面倒くさそうに振り返った。
「謹慎中の身でありながら、庭仕事の次は夕食の準備か。ずいぶんと優雅な『謹慎』だな」
皮肉と非難が込められた言葉。
だが、ルーナには全く効力がなかった。
「あら。わたくし、食事は生きる上で最も重要なことだと教育されましたわ。謹慎中でも、お腹は空きますもの」
「…使用人に作らせればいいだろう。貴様が厨房に立つ必要はない」
(この堅物様は、わたくしが厨房で毒でも作ると疑ってらっしゃるのかしら)
ルーナは、小さくため息をついた。
「わたくしは、自分の食べたいものを、自分の手で、一番美味しい瞬間に食べるのが好きなのですわ。そういう趣味なの。それとも何ですの? 監視役様は、わたくしの食事内容まで管理するおつもり?」
「……」
アレクシスは、ぐっと言葉に詰まった。
確かに、謹慎中の食事内容について、王子から特別な指示は受けていない。
「結構ですわ」
ルーナは、アレクシスが何か言う前に、さっさと厨房に戻ってしまった。
当然のように、アレクシスも後を追う。
厨房は、彼の監視任務において、最も警戒すべき場所の一つだったからだ。(毒物混入などを警戒している)
「では、アンナ、エマ。始めましょうか」
ルーナは、髪をきつく結び直し、手を丁寧に洗うと、新しいエプロンをきりりと締めた。
その瞬間、彼女の纏う空気が変わった。
面倒くさがりの令嬢から、厨房を支配する「料理人」の顔へ。
「まずは、スコーンを焼きますわ。お腹が空いては、良いスープも作れません」
「まあ、スコーン!」
アンナが嬉しそうに声を上げる。
ルーナは、王都から持ち込んだ最高級の小麦粉を、大きな銅のボウルにふるい入れた。
そこへ、キンキンに冷やしておいたバターの塊を惜しげもなく投入する。
「…おい」
アレクシスは、そのバターの量を見て、思わず声を上げた。
(あんな量の油脂を…正気か?)
「何か? 副団長様。お菓子作りというのは、小麦粉とバターと砂糖でできているのですわよ」
ルーナは、アレクシスの怪訝な視線など気にせず、カードを使ってバターを小麦粉の中で細かく刻み始めた。
その手つきは、驚くほど正確で、淀みがない。
厨房に、カツカツとリズミカルな音だけが響く。
アレクシスは、その無駄のない動きから、目が離せなくなっていた。
(本当に…趣味、なのか?)
彼が知る令嬢たちの、遊び半分のお菓子作りとは、明らかにレベルが違った。
やがて、生地がそぼろ状になると、ルーナは牛乳と卵を加え、さっくりと一つにまとめた。
「エマ。オーブンに火を入れておいてちょうだい。温度は高めで」
「はい、かしこまりました!」
ルーナは、打ち粉をした台に生地を取り出すと、手早く伸ばし、型で抜いていく。
あっという間に、十数個の丸い生地が天板に並べられた。
「よし。これで第一弾はOKですわ」
オーブンに入れられた生地は、高温の中で見る見るうちに膨らみ始めた。
厨房に、バターと小麦粉が焼ける、暴力的なまでに甘く、香ばしい匂いが充満し始める。
「……」
アレクシスは、その匂いに、思わず喉が鳴りそうになるのを必死で堪えた。
彼は、五日間の過酷な馬車移動と、到着後の徹底した検分で、疲労困憊していた。
まともな食事も、昼から摂っていない。
この香りは、空腹の騎士にとって、一種の拷問だった。
(くそ…悪女の策略か…!)
アレクシスは、これを「匂いによる精神攻撃」と断定し、さらに警戒を強めた。
チーン、とオーブンのタイマーが鳴った。
「焼けましたわ!」
アンナが、ミトンをはめた手で、黄金色に輝くスコーンが並んだ天板を取り出す。
それは、完璧な「狼の口」(スコーンの割れ目)が開いた、理想的な焼き上がりだった。
「素晴らしいわ、アンナ。完璧な火加減よ」
「お嬢様の生地が素晴らしかったからですわ」
主従が、うふふと笑い合う。
アレクシスは、その和やかな(そして、自分だけが部外者の)空気に、ますます居心地の悪さを感じていた。
ルーナは、焼きたてのスコーンを一つ手に取ると、ふうふうと冷ました。
「さて。毒味(あじみ)ですわ」
(毒味だと!?)
アレクシスの神経が、ピリッと張り詰める。
ルーナは、そんなアレクシスの緊張などお構いなしに、スコーンをぱかりと二つに割った。
湯気と共に、芳醇なバターの香りが立ち上る。
ルーナは、それにエマお手製のベリージャムと、王都から持参したクロテッドクリーム(乳脂肪の塊)を、これでもかと乗せた。
(また油脂を…!)
アレクシスの眉間のシワが、さらに深くなる。
そして、ルーナは、それを大きな口で、幸せそうに頬張った。
「ん~! 最高ですわ!」
(…自分で食った)
アレクシスは、毒見(味見)という言葉通りの行動に、拍子抜けした。
(いや、待て。自分だけが食べることで、俺を油断させる作戦か…?)
ルーナは、二口、三口と食べ進めると、満足そうに頷いた。
「よし。これなら、お客様(・・)に出しても恥ずかしくありませんわね」
そう言うと、ルーナは新しい皿に、焼きたてのスコーンを二つ乗せた。
ジャムとクリームも、たっぷり添える。
そして、先ほど摘んだばかりのミントで淹れた、熱々のハーブティーもカップに注いだ。
「はい、アンナ。お客様にどうぞ」
「はい、お嬢様」
アンナは、その盆を持つと、にこやかにアレクシスの方へ向かった。
「…なんだ」
アレクシスは、後ずさりしそうになるのを堪え、低い声で威嚇した。
「副団長様。お嬢様からですわ。長旅と、先ほどのお庭仕事(・・・)のお手伝い(・・・・)、お疲れ様でした、と」
「俺は手伝など…!」
「まあまあ。どうぞ。焼きたてが一番美味しいのですから」
アンナは、有無を言わさぬ笑顔で、盆をアレクシスに突き出した。
「…いらん」
アレクシスは、短く拒絶した。
(悪女からの施しなど、受けられるか。毒が入っているに決まっている)
「あら、そうですの?」
厨房の奥から、ルーナのあっけらかんとした声が飛んできた。
「お嫌なら、結構ですわ。わたくし、食べ物を無駄にするのは大嫌いですの。アンナ、それは下げてちょうだい。わたくしが、スープの前にいただきますわ」
「かしこまりました」
アンナが、本当に盆を引こうとした、その瞬間だった。
ぐうぅぅ~~~~…。
静まり返った厨房に、盛大な「腹の虫」の音が響き渡った。
それは、空腹を我慢し続けた、堅物騎士の胃袋が上げた、悲痛な叫びだった。
「「「…………」」」
ルーナとアンナ、そしてエマの視線が、音の発生源に集まる。
アレクシスの「氷の仮面」が、音を立てて砕け散った。
彼の顔は、夕焼けよりも真っ赤に染まっていた。
人生最大の屈辱だった。
「…っ」
アレクシスは、羞恥と怒りで震える手で、ひったくるように盆を受け取った。
「…監視対象の出すものを、検分するのも任務だ」
誰に言うでもない言い訳を、くぐもった声で呟く。
「あら、そうですの。どうぞ、ごゆっくり『検分』してくださいまし」
ルーナは、笑いをこらえるのに必死で、顔を背けていた。
アレクシスは、厨房の隅に行くと、忌々しそうにスコーンを睨みつけた。
(こうなれば、食ってやる。そして、もし毒なら、その場でこいつを斬り捨ててやる)
彼は、ヤケクソ気味に、スコーンを大きく一口、頬張った。
サクッ。
まず、外側の香ばしい歯触り。
そして、内側の、しっとりとして、バターの香りが鼻に抜ける、優しい甘さ。
ジャムの酸味と、クリームの濃厚なコクが、完璧な調和を生み出している。
「……!」
アレクシスの青い目が、驚愕に見開かれた。
(な…なんだ、これは…)
彼が今まで知っていた「スコーン」という名の、パサパサした粉の塊とは、全くの別物だった。
疲労困憊した体に、その温かさと甘さが、雷のように染み渡っていく。
「…っ」
アレクシスは、騎士のプライドも、悪女への警戒心も、何もかも忘れて、夢中で二口目、三口目を頬張った。
(うまい…)
言葉にならない、素直な感想が、胸の奥から込み上げてくる。
「…うまい」
それは、アレクシス自身にも聞こえないほどの、小さな呟きだった。
しかし、ルーナの耳は、それを確かに捉えていた。
(ふふ。かかりましたわね)
ルーナは、スープ用の玉ねぎを刻みながら、誰にも気づかれないよう、小さく、悪役令嬢のように口の端を吊り上げた。
「氷の騎士」様が、悪役令嬢の差し入れによって、まず「胃袋」から陥落させられ始めた瞬間だった。
68
あなたにおすすめの小説
辺境のスローライフを満喫したいのに、料理が絶品すぎて冷酷騎士団長に囲い込まれました
腐ったバナナ
恋愛
異世界に転移した元会社員のミサキは、現代の調味料と調理技術というチート能力を駆使し、辺境の森で誰にも邪魔されない静かなスローライフを送ることを目指していた。
しかし、彼女の作る絶品の料理の香りは、辺境を守る冷酷な「鉄血」騎士団長ガイウスを引き寄せてしまった。
お前を愛することはないと言われたので、姑をハニトラに引っ掛けて婚家を内側から崩壊させます
碧井 汐桜香
ファンタジー
「お前を愛することはない」
そんな夫と
「そうよ! あなたなんか息子にふさわしくない!」
そんな義母のいる伯爵家に嫁いだケリナ。
嫁を大切にしない?ならば、内部から崩壊させて見せましょう
悪役令嬢は調理場に左遷されましたが、激ウマご飯で氷の魔公爵様を餌付けしてしまったようです~「もう離さない」って、胃袋の話ですか?~
咲月ねむと
恋愛
「君のような地味な女は、王太子妃にふさわしくない。辺境の『魔公爵』のもとへ嫁げ!」
卒業パーティーで婚約破棄を突きつけられた悪役令嬢レティシア。
しかし、前世で日本人調理師だった彼女にとって、堅苦しい王妃教育から解放されることはご褒美でしかなかった。
「これで好きな料理が作れる!」
ウキウキで辺境へ向かった彼女を待っていたのは、荒れ果てた別邸と「氷の魔公爵」と恐れられるジルベール公爵。
冷酷無慈悲と噂される彼だったが――その正体は、ただの「極度の偏食家で、常に空腹で不機嫌なだけ」だった!?
レティシアが作る『肉汁溢れるハンバーグ』『とろとろオムライス』『伝説のプリン』に公爵の胃袋は即陥落。
「君の料理なしでは生きられない」
「一生そばにいてくれ」
と求愛されるが、色気より食い気のレティシアは「最高の就職先ゲット!」と勘違いして……?
一方、レティシアを追放した王太子たちは、王宮の食事が不味くなりすぎて絶望の淵に。今さら「戻ってきてくれ」と言われても、もう遅いです!
美味しいご飯で幸せを掴む、空腹厳禁の異世界クッキング・ファンタジー!
公爵令嬢 メアリの逆襲 ~魔の森に作った湯船が 王子 で溢れて困ってます~
薄味メロン
恋愛
HOTランキング 1位 (2019.9.18)
お気に入り4000人突破しました。
次世代の王妃と言われていたメアリは、その日、すべての地位を奪われた。
だが、誰も知らなかった。
「荷物よし。魔力よし。決意、よし!」
「出発するわ! 目指すは源泉掛け流し!」
メアリが、追放の準備を整えていたことに。
【完結済】冷血公爵様の家で働くことになりまして~婚約破棄された侯爵令嬢ですが公爵様の侍女として働いています。なぜか溺愛され離してくれません~
北城らんまる
恋愛
**HOTランキング11位入り! ありがとうございます!**
「薄気味悪い魔女め。おまえの悪行をここにて読み上げ、断罪する」
侯爵令嬢であるレティシア・ランドハルスは、ある日、婚約者の男から魔女と断罪され、婚約破棄を言い渡される。父に勘当されたレティシアだったが、それは娘の幸せを考えて、あえてしたことだった。父の手紙に書かれていた住所に向かうと、そこはなんと冷血と知られるルヴォンヒルテ次期公爵のジルクスが一人で住んでいる別荘だった。
「あなたの侍女になります」
「本気か?」
匿ってもらうだけの女になりたくない。
レティシアはルヴォンヒルテ次期公爵の見習い侍女として、第二の人生を歩み始めた。
一方その頃、レティシアを魔女と断罪した元婚約者には、不穏な影が忍び寄っていた。
レティシアが作っていたお守りが、実は元婚約者の身を魔物から守っていたのだ。そんなことも知らない元婚約者には、どんどん不幸なことが起こり始め……。
※ざまぁ要素あり(主人公が何かをするわけではありません)
※設定はゆるふわ。
※3万文字で終わります
※全話投稿済です
【完結】契約結婚は円満に終了しました ~勘違い令嬢はお花屋さんを始めたい~
九條葉月
ファンタジー
【ファンタジー1位獲得!】
【HOTランキング1位獲得!】
とある公爵との契約結婚を無事に終えたシャーロットは、夢だったお花屋さんを始めるための準備に取りかかる。
花を包むビニールがなければ似たような素材を求めてダンジョンに潜り、吸水スポンジ代わりにスライムを捕まえたり……。そうして準備を進めているのに、なぜか店の実態はお花屋さんからかけ離れていって――?
【完結】辺境に飛ばされた子爵令嬢、前世の経営知識で大商会を作ったら王都がひれ伏したし、隣国のハイスペ王子とも結婚できました
いっぺいちゃん
ファンタジー
婚約破棄、そして辺境送り――。
子爵令嬢マリエールの運命は、結婚式直前に無惨にも断ち切られた。
「辺境の館で余生を送れ。もうお前は必要ない」
冷酷に告げた婚約者により、社交界から追放された彼女。
しかし、マリエールには秘密があった。
――前世の彼女は、一流企業で辣腕を振るった経営コンサルタント。
未開拓の農産物、眠る鉱山資源、誠実で働き者の人々。
「必要ない」と切り捨てられた辺境には、未来を切り拓く力があった。
物流網を整え、作物をブランド化し、やがて「大商会」を設立!
数年で辺境は“商業帝国”と呼ばれるまでに発展していく。
さらに隣国の完璧王子から熱烈な求婚を受け、愛も手に入れるマリエール。
一方で、税収激減に苦しむ王都は彼女に救いを求めて――
「必要ないとおっしゃったのは、そちらでしょう?」
これは、追放令嬢が“経営知識”で国を動かし、
ざまぁと恋と繁栄を手に入れる逆転サクセスストーリー!
※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる