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アレクセイ様とのダンスは、予想以上に完璧だった。
彼のリードは強引すぎず、かといって迷いもなく、まるで水の中を漂うようにスムーズだった。
曲が終わると、会場からは割れんばかりの拍手が湧き起こった。
私は少し息を弾ませながら、彼に一礼する。
「お疲れ様でした、閣下。私の足は無事です」
「それはよかった。君が軽やかすぎて、私が雲の上を歩いている気分だったよ」
アレクセイ様は涼しい顔で、またしても歯の浮くようなセリフを言う。
この人、宰相を辞めて詩人にでもなればいいのに。
「少し、風に当たりたいわ。飲み物をいただいても?」
「ああ。私が取ってこよう。テラスで待っていてくれ」
「ありがとうございます」
私は人混みを避け、大広間に面したテラスへと足を向けた。
夜風が火照った頬に心地よい。
テラスの手すりにもたれかかり、私は大きく伸びをした。
「はぁ……疲れた」
慣れないヒールに、重たいドレス。
そして何より、周囲への「私、幸せですオーラ」の放出。
女優業も楽ではない。
「……見つけたぞ、シャロ」
背後から、ねっとりとした声が聞こえた。
振り返らなくても分かる。
この無駄に良い声と、漂ってくる薔薇の香水の匂い。
(来ないでって念じたのに、やっぱり来るのね)
私は深いため息をついて振り返った。
そこには、案の定、ジェラルド殿下が立っていた。
目は血走り、髪は少し乱れている。
ミナ様を置いてきたのだろうか。
「ごきげんよう、殿下。私に何か?」
「白々しいぞ! さっきのダンス、あれはなんだ! 僕への当てつけか!」
殿下がズカズカと歩み寄ってくる。
「当てつけではありません。大人の社交です」
「嘘だ! 君は僕を見ていた! 僕が嫉妬に狂う様を見て、楽しんでいたんだろう!?」
見ていない。
というか、ダンス中は足元のステップと、アレクセイ様の顔の近さに必死だったのだ。
「殿下、自意識過剰もそこまでいくと才能ですね。……下がってください。近いです」
私が後退ると、背中が石造りの壁に当たった。
逃げ場がない。
ドンッ!!
殿下の右手が、私の顔の横の壁に叩きつけられた。
いわゆる「壁ドン」である。
至近距離に殿下の顔。
整った顔立ちだが、瞳孔が開いていて怖い。
「……逃がさない。君は僕のものだ」
殿下が低い声で囁く。
普通のご令嬢なら「キャッ☆」となる場面かもしれないが、私は冷静に壁の心配をした。
「殿下。手袋が汚れますよ。ここの壁、苔が生えてます」
「そんなことはどうでもいい! シャロ、素直になれよ。宰相なんて堅苦しい男より、僕のほうがいいに決まっている」
「お断りします。宰相閣下は話が早いですし、定時を守ってくれます」
「仕事の話なんかしていない! 愛の話だ!」
殿下は逆ギレし、さらに顔を近づけてきた。
「戻っておいで、シャロ。僕の胸に。今なら許してやる。ミナと三人で仲良くやろうじゃないか」
「……は?」
今、とんでもないことを言わなかったか?
三人で?
「君は正妃として実務をこなし、ミナは側妃として僕を癒す。完璧な布陣だろ? 君もミナのことが気に入ったようだし、ちょうどいい」
鳥肌が立った。
この男、自分が一番可愛いだけのクズだ。
ミナ様も私も、自分のための便利なパーツとしか思っていない。
「……殿下。冗談でも不愉快です。退いてください」
「嫌だね。君が『愛してる』と言うまで離さない」
殿下がもう片方の手も壁につき、私を両腕の中に閉じ込める。
顔が近い。
香水の匂いで頭が痛くなりそうだ。
私が膝蹴りでも入れようかと考えた、その時だった。
「――ほう。面白い余興をしていますね」
絶対零度の声が降ってきた。
殿下の動きが止まる。
私の視線の先、殿下の背後に、二つのグラスを持ったアレクセイ様が立っていた。
笑顔だ。
だが、その笑顔は、能面のような無機質な怖さを帯びている。
「く、クロイツ公爵……! じゃ、邪魔をするな! これは僕とシャロの問題だ!」
殿下は振り返り、震える声で威嚇した。
「問題? いいえ、これは『害虫駆除』の案件に見えますが」
アレクセイ様はグラスを近くのテーブルに置くと、ゆったりとした動作でこちらへ歩いてきた。
一歩近づくごとに、空気が重くなる。
「シャロ。その男は、君の視界に入れる価値もない。どいていなさい」
「え、でも……壁ドンされてて動けません」
「ああ、そうか。へばりついているのか。汚らわしい」
アレクセイ様は、まるでゴミ拾いでもするかのように、無造作に殿下の襟首を掴んだ。
後ろから、片手で。
「なっ、貴様! 無礼だぞ! 離せ!」
「離せ? お望み通りに」
アレクセイ様は腕に力を込めた。
バリバリッという音(幻聴)と共に、殿下が壁から引き剥がされる。
それはまさに、壁にこびりついたシールを無理やり剥がすような、物理的な「壁ドン解除」だった。
「うわあああ!?」
殿下の体は宙を舞い、数メートル離れた植え込みの中へドサリと投げ捨てられた。
「ぎゃっ!」
情けない悲鳴が上がる。
「……ふん。手触りが悪い」
アレクセイ様はハンカチを取り出し、殿下を掴んだ手を念入りに拭いた。
そして、そのハンカチも植え込みへポイ捨てする。
「シャロ、無事か? 変な菌は移っていないか?」
彼は瞬時に表情を和らげ、私に駆け寄ってきた。
「はい、無事です。……閣下、王族を投げ飛ばすのは、さすがに不敬罪では?」
「何のことだ? 私はただ、君に襲いかかろうとしていた『不審者』を排除しただけだ。暗がりだったから顔が見えなくてね」
しれっと言い放つ。
この人、最強すぎる。
「それに、あれは『自損事故』として処理させる。もし文句があるなら、君へのセクハラ行為を公表し、正式に断罪裁判を開くまでだ」
植え込みの方から、ガサゴソと殿下が這い出してくる音がしたが、アレクセイ様の殺気を感じ取ったのか、すぐに静かになった。
どうやら逃亡したらしい。
「……ありがとうございます、助かりました」
「礼には及ばない。だが、少し目を離した隙にこれだ。やはり君には『虫除け』が必要だな」
アレクセイ様は私の手を取り、壁についた私の背中を優しく払った。
「壁も汚かっただろう。ドレスは新調させるとして、君の心に跡が残っていないか心配だ」
「大丈夫です。私の心は鋼鉄製ですので」
「そうか。だが、私は気が気じゃない」
彼は私の顔を覗き込み、真剣な眼差しで言った。
「もう二度と、あんな男に触れさせない。……君に壁ドンをしていいのは、私だけだ」
「……はい?」
聞き捨てならないセリフが聞こえた気がする。
アレクセイ様は、不敵に笑って、今度は彼自身の手を私の顔の横についた。
ドン。
スマートで、無駄のない、美しい壁ドン。
顔が近い。
でも、香水の匂いはしなくて、代わりに紅茶のような澄んだ香りがする。
「……どうだ? 私のほうが、様になっているだろう?」
「……ええ、まあ。構図としては」
私はドキドキする心臓を悟られないように、冷静に答えた。
顔が熱い。
これはきっと、テラスの気温が高いせいだ。
「戻ろうか。カクテルが温くなってしまう」
アレクセイ様はパッと手を離し、何事もなかったかのように私をエスコートした。
この切り替えの早さ。
やはり、この男には敵わない。
私は彼に手を引かれながら、植え込みの奥で悔し涙を流しているであろう元婚約者に、心の中で合掌した。
(さようなら、殿下。物理攻撃には勝てませんよ)
彼のリードは強引すぎず、かといって迷いもなく、まるで水の中を漂うようにスムーズだった。
曲が終わると、会場からは割れんばかりの拍手が湧き起こった。
私は少し息を弾ませながら、彼に一礼する。
「お疲れ様でした、閣下。私の足は無事です」
「それはよかった。君が軽やかすぎて、私が雲の上を歩いている気分だったよ」
アレクセイ様は涼しい顔で、またしても歯の浮くようなセリフを言う。
この人、宰相を辞めて詩人にでもなればいいのに。
「少し、風に当たりたいわ。飲み物をいただいても?」
「ああ。私が取ってこよう。テラスで待っていてくれ」
「ありがとうございます」
私は人混みを避け、大広間に面したテラスへと足を向けた。
夜風が火照った頬に心地よい。
テラスの手すりにもたれかかり、私は大きく伸びをした。
「はぁ……疲れた」
慣れないヒールに、重たいドレス。
そして何より、周囲への「私、幸せですオーラ」の放出。
女優業も楽ではない。
「……見つけたぞ、シャロ」
背後から、ねっとりとした声が聞こえた。
振り返らなくても分かる。
この無駄に良い声と、漂ってくる薔薇の香水の匂い。
(来ないでって念じたのに、やっぱり来るのね)
私は深いため息をついて振り返った。
そこには、案の定、ジェラルド殿下が立っていた。
目は血走り、髪は少し乱れている。
ミナ様を置いてきたのだろうか。
「ごきげんよう、殿下。私に何か?」
「白々しいぞ! さっきのダンス、あれはなんだ! 僕への当てつけか!」
殿下がズカズカと歩み寄ってくる。
「当てつけではありません。大人の社交です」
「嘘だ! 君は僕を見ていた! 僕が嫉妬に狂う様を見て、楽しんでいたんだろう!?」
見ていない。
というか、ダンス中は足元のステップと、アレクセイ様の顔の近さに必死だったのだ。
「殿下、自意識過剰もそこまでいくと才能ですね。……下がってください。近いです」
私が後退ると、背中が石造りの壁に当たった。
逃げ場がない。
ドンッ!!
殿下の右手が、私の顔の横の壁に叩きつけられた。
いわゆる「壁ドン」である。
至近距離に殿下の顔。
整った顔立ちだが、瞳孔が開いていて怖い。
「……逃がさない。君は僕のものだ」
殿下が低い声で囁く。
普通のご令嬢なら「キャッ☆」となる場面かもしれないが、私は冷静に壁の心配をした。
「殿下。手袋が汚れますよ。ここの壁、苔が生えてます」
「そんなことはどうでもいい! シャロ、素直になれよ。宰相なんて堅苦しい男より、僕のほうがいいに決まっている」
「お断りします。宰相閣下は話が早いですし、定時を守ってくれます」
「仕事の話なんかしていない! 愛の話だ!」
殿下は逆ギレし、さらに顔を近づけてきた。
「戻っておいで、シャロ。僕の胸に。今なら許してやる。ミナと三人で仲良くやろうじゃないか」
「……は?」
今、とんでもないことを言わなかったか?
三人で?
「君は正妃として実務をこなし、ミナは側妃として僕を癒す。完璧な布陣だろ? 君もミナのことが気に入ったようだし、ちょうどいい」
鳥肌が立った。
この男、自分が一番可愛いだけのクズだ。
ミナ様も私も、自分のための便利なパーツとしか思っていない。
「……殿下。冗談でも不愉快です。退いてください」
「嫌だね。君が『愛してる』と言うまで離さない」
殿下がもう片方の手も壁につき、私を両腕の中に閉じ込める。
顔が近い。
香水の匂いで頭が痛くなりそうだ。
私が膝蹴りでも入れようかと考えた、その時だった。
「――ほう。面白い余興をしていますね」
絶対零度の声が降ってきた。
殿下の動きが止まる。
私の視線の先、殿下の背後に、二つのグラスを持ったアレクセイ様が立っていた。
笑顔だ。
だが、その笑顔は、能面のような無機質な怖さを帯びている。
「く、クロイツ公爵……! じゃ、邪魔をするな! これは僕とシャロの問題だ!」
殿下は振り返り、震える声で威嚇した。
「問題? いいえ、これは『害虫駆除』の案件に見えますが」
アレクセイ様はグラスを近くのテーブルに置くと、ゆったりとした動作でこちらへ歩いてきた。
一歩近づくごとに、空気が重くなる。
「シャロ。その男は、君の視界に入れる価値もない。どいていなさい」
「え、でも……壁ドンされてて動けません」
「ああ、そうか。へばりついているのか。汚らわしい」
アレクセイ様は、まるでゴミ拾いでもするかのように、無造作に殿下の襟首を掴んだ。
後ろから、片手で。
「なっ、貴様! 無礼だぞ! 離せ!」
「離せ? お望み通りに」
アレクセイ様は腕に力を込めた。
バリバリッという音(幻聴)と共に、殿下が壁から引き剥がされる。
それはまさに、壁にこびりついたシールを無理やり剥がすような、物理的な「壁ドン解除」だった。
「うわあああ!?」
殿下の体は宙を舞い、数メートル離れた植え込みの中へドサリと投げ捨てられた。
「ぎゃっ!」
情けない悲鳴が上がる。
「……ふん。手触りが悪い」
アレクセイ様はハンカチを取り出し、殿下を掴んだ手を念入りに拭いた。
そして、そのハンカチも植え込みへポイ捨てする。
「シャロ、無事か? 変な菌は移っていないか?」
彼は瞬時に表情を和らげ、私に駆け寄ってきた。
「はい、無事です。……閣下、王族を投げ飛ばすのは、さすがに不敬罪では?」
「何のことだ? 私はただ、君に襲いかかろうとしていた『不審者』を排除しただけだ。暗がりだったから顔が見えなくてね」
しれっと言い放つ。
この人、最強すぎる。
「それに、あれは『自損事故』として処理させる。もし文句があるなら、君へのセクハラ行為を公表し、正式に断罪裁判を開くまでだ」
植え込みの方から、ガサゴソと殿下が這い出してくる音がしたが、アレクセイ様の殺気を感じ取ったのか、すぐに静かになった。
どうやら逃亡したらしい。
「……ありがとうございます、助かりました」
「礼には及ばない。だが、少し目を離した隙にこれだ。やはり君には『虫除け』が必要だな」
アレクセイ様は私の手を取り、壁についた私の背中を優しく払った。
「壁も汚かっただろう。ドレスは新調させるとして、君の心に跡が残っていないか心配だ」
「大丈夫です。私の心は鋼鉄製ですので」
「そうか。だが、私は気が気じゃない」
彼は私の顔を覗き込み、真剣な眼差しで言った。
「もう二度と、あんな男に触れさせない。……君に壁ドンをしていいのは、私だけだ」
「……はい?」
聞き捨てならないセリフが聞こえた気がする。
アレクセイ様は、不敵に笑って、今度は彼自身の手を私の顔の横についた。
ドン。
スマートで、無駄のない、美しい壁ドン。
顔が近い。
でも、香水の匂いはしなくて、代わりに紅茶のような澄んだ香りがする。
「……どうだ? 私のほうが、様になっているだろう?」
「……ええ、まあ。構図としては」
私はドキドキする心臓を悟られないように、冷静に答えた。
顔が熱い。
これはきっと、テラスの気温が高いせいだ。
「戻ろうか。カクテルが温くなってしまう」
アレクセイ様はパッと手を離し、何事もなかったかのように私をエスコートした。
この切り替えの早さ。
やはり、この男には敵わない。
私は彼に手を引かれながら、植え込みの奥で悔し涙を流しているであろう元婚約者に、心の中で合掌した。
(さようなら、殿下。物理攻撃には勝てませんよ)
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