193 / 758
四章
7
しおりを挟む
夜中をかなりまわってから部屋に戻ってきた飛鳥は、大きめの空色のクッションを枕がわりにして、ソファーにごろりと横になって眠っている吉野を起こさないよう、そっと足音を忍ばせてその向かいに腰かけた。そして、月明かりにぼんやりと浮かぶいまだ幼さの残る寝顔を、静かに笑みを浮かべて眺めていた。
「せめてベッドで寝ればいいのに……」
「そしたら、飛鳥が戻ってすぐに寝られなくなるだろ?」
何気なく呟いた言葉に、返事があった。
「なんだ、起きていたんだ」
吉野は寝転がったまま、「おかえり」と言い、飛鳥はそんな吉野を穏やかな様子で見守ったまま、「ただいま」と応えた。
「どうだった、憧れのコズモスは?」
「市販品とはまるで違っていた。あれは彼女の頭脳そのものだ」
飛鳥は声を弾ませて嬉しそうに語る。
「ずいぶんと遅くまでかかったんだな」
ヘンリーと二人で夕食なんて御免被りたかったので、吉野はキッチンを借り飛鳥のためのカレーを仕込んで、ついでにそこで夕食を済ませた。そして、そのままメアリーと話しこんで時間を潰していたのだが、いくら待っても飛鳥は戻ってきそうになかったので、諦めて部屋に戻りさっさと寝ることにしたのだ。
案の定、こんな時間だ。
「うん。サラはやっぱりすごいよ」
「あんなにちっこいのになぁ」
「お前、同い年だよ」
「え?」
「言っていなかったっけ?」
アレンとも同じってことか――。
サラが四月生まれだからどうだって言うんだ、と胸糞悪い気分だったが、やっと謎が解けた。
「俺、父さんと母さんの子どもで良かった」
「なんだよ、急に」
「こんなでかい屋敷に生まれたら、いろいろ大変なんだな、て思ってさ」
「それは、まぁ、確かにね」
飛鳥は言葉を濁して曖昧に笑う。
「直系の証のオウム色の瞳、あいつが義妹を可愛いがるのも、あの瞳のせい?」
「何、それ?」
「伝説だよ、この家の。ここくらいの古い家系だと、冗談だろってくらい荒唐無稽な伝説がいろいろあるんだよ」
「へぇ――」
飛鳥は気のない返事をして、「伝説なら、うちにだってあるものね」と話を逸らした。
「は?」
「お前の龍笛、『紫雲』は、元は野辺送りの笛だろ」
薄暗がりの中、黙ったままの吉野に、「知らなかったの?」と飛鳥の方が逆に驚いて訊ね返す。
「俺、そう言えば母さんの家のこと、ほとんど知らない。そんないわくがあるから、人前でこの龍笛をあまり吹くなって言われるのか?」
「ヘンリーのフルートと同じ。みる人がみたら、出所が判るからだよ」
「出所って?」
「母さんの前の持ち主」
「誰?」
「母さんの曾祖父さん」
眠たげな声で、ソファーに頭をもたせかけている飛鳥に気づいて、「ベッドで寝ろよ」と吉野は、飛鳥の腕を掴んで引っ張り立たせ、ほとんど眠りかけている彼をそのままベッドに連れていった。
「あーあ、ジャケットくらい脱げよ」
出かける前の服装のまま横たわる飛鳥を見て、「よくこれで、あの几帳面な男に愛想をつかされずに一年もの間、同じ部屋で暮らせたな」と吉野は苦笑混じりに呟く。
「吉野、ウィルの瞳のことも、サラのことも、人に喋るんじゃないよ。結局は、誰かが傷つくことになるのだから……」
寝言のように呟いて飛鳥は完全に瞼を閉じた。
寝ぼけている時にしか、大事なことを教えてくれないくせに――。
小さくため息をついて、吉野はもう一度ソファーに横になった。
昼間焚いた伽羅の香が、いまだ空気に染みつくように残っていてふわりと包んでくれる。吉野もまた、じきに眠りに落ちていった。
久しぶりに、すっきりと目が覚めた。
飛鳥は、濃緑の天蓋をしばらくの間ぼんやりと見つめ、吉野の寝ているソファーに顔を向けた。吉野はすでにいない。
起き上がって、自分の服に目を遣りため息をつく。
「あーあ、皺だらけだ……」
早起きできたと思ったのに、窓の外の太陽はもうすでに高く昇っている。また、ため息をついた。
今日は忙しいのに――。
枕もとのチェストにある時計で時間を確認し、慌てて鞄を漁ると、着替えを持ってバスルームに急ぎ入った。
日が暮れかかる頃、送り火を焚き、吉野と二人、一番近い川まで車で送ってもらって精霊馬と精霊牛、お供え物を流した。
白い石造りの橋の欄干から、夕闇が迫る水の流れを覗きこむようにして、漂ってゆく精霊牛を目で追った。川岸にぽつりぽつりと佇む石造りの民家と、なだらかに広がる緑の牧草地の続く、のどかで、穏やかな異国の地から、遠く故郷に想いを馳せる。
「お祖父ちゃん、こんな遠い国まで来てくれたかなぁ――」
飛鳥はぽつりと呟いた。
「来てくれたよ。だって、飛鳥、お盆前よりずっと元気になっている。祖父ちゃんのおかげだよ」
吉野がにかっと笑って請け負う。
「お祖父ちゃん、今年は大忙しだったね、きっと。本所の家と、それにハワード教授の所にも。気兼ねせずに行けたかなぁ――」
飛鳥が自信なさげに語尾を伸ばしたので、「教授、いつもウイスキーをお供えしている、って言っていたから、祖父ちゃんはつき合いで仕方なく飲んでいただけで、本当は酒が嫌いだった、って言っておいた。だから今年は安心して行ってるよ、きっと」と、吉野は、くっくと笑って言った。
「お祖父ちゃん、ああ見えて甘党だったものね」
「ここの激甘な菓子でも喜んで食うよ、きっと」
顔を見合わせて笑い合った後、ふっと飛鳥は表情を曇らせる。
「生きている間に、教授に会いに行ってくれれば、良かったのにね」
微かに唇を震わせて、一瞬、眉をしかめたが、ぱっと瞳をあげて吉野を見ると、「吉野、ありがとう」と無理に笑顔を作ってお礼を言った。
「生きているときと同じ、死んじまっても、祖父ちゃんはいつだって飛鳥を見守ってくれているよ。なんたって、あの祖父ちゃんだからな。絶対に中途で放り出したりしないもんな」
「僕がダメダメだから、お祖父ちゃんも成仏できないっていうこと?」
飛鳥は噴き出しながら尋ねる。
「そうとも言える」
「お祖父ちゃんの幽霊が傍にいてくれるなら、ずっとダメなままでもいいなぁ」
笑いながら言われた願いが、あながち冗談を言っているようにも思えなくて、「だから、駄目なんだよ。安心させて成仏させてやらないと怒られるぞ」と、吉野は苦笑いする。
「確かに」
「怒ると恐いぞ、祖父ちゃんは」
クスクスと笑いながら肩をすくめる飛鳥の背中を、吉野はバンッと叩いた。
「そろそろ行こう。あんまりマーカスさんを待たせちゃ悪い」
名残惜しそうに川の流れにもう一度目を遣った後、頷くと、飛鳥は吉野と並んで橋を渡り、道の端で待つ車に向かって歩きだした。
「せめてベッドで寝ればいいのに……」
「そしたら、飛鳥が戻ってすぐに寝られなくなるだろ?」
何気なく呟いた言葉に、返事があった。
「なんだ、起きていたんだ」
吉野は寝転がったまま、「おかえり」と言い、飛鳥はそんな吉野を穏やかな様子で見守ったまま、「ただいま」と応えた。
「どうだった、憧れのコズモスは?」
「市販品とはまるで違っていた。あれは彼女の頭脳そのものだ」
飛鳥は声を弾ませて嬉しそうに語る。
「ずいぶんと遅くまでかかったんだな」
ヘンリーと二人で夕食なんて御免被りたかったので、吉野はキッチンを借り飛鳥のためのカレーを仕込んで、ついでにそこで夕食を済ませた。そして、そのままメアリーと話しこんで時間を潰していたのだが、いくら待っても飛鳥は戻ってきそうになかったので、諦めて部屋に戻りさっさと寝ることにしたのだ。
案の定、こんな時間だ。
「うん。サラはやっぱりすごいよ」
「あんなにちっこいのになぁ」
「お前、同い年だよ」
「え?」
「言っていなかったっけ?」
アレンとも同じってことか――。
サラが四月生まれだからどうだって言うんだ、と胸糞悪い気分だったが、やっと謎が解けた。
「俺、父さんと母さんの子どもで良かった」
「なんだよ、急に」
「こんなでかい屋敷に生まれたら、いろいろ大変なんだな、て思ってさ」
「それは、まぁ、確かにね」
飛鳥は言葉を濁して曖昧に笑う。
「直系の証のオウム色の瞳、あいつが義妹を可愛いがるのも、あの瞳のせい?」
「何、それ?」
「伝説だよ、この家の。ここくらいの古い家系だと、冗談だろってくらい荒唐無稽な伝説がいろいろあるんだよ」
「へぇ――」
飛鳥は気のない返事をして、「伝説なら、うちにだってあるものね」と話を逸らした。
「は?」
「お前の龍笛、『紫雲』は、元は野辺送りの笛だろ」
薄暗がりの中、黙ったままの吉野に、「知らなかったの?」と飛鳥の方が逆に驚いて訊ね返す。
「俺、そう言えば母さんの家のこと、ほとんど知らない。そんないわくがあるから、人前でこの龍笛をあまり吹くなって言われるのか?」
「ヘンリーのフルートと同じ。みる人がみたら、出所が判るからだよ」
「出所って?」
「母さんの前の持ち主」
「誰?」
「母さんの曾祖父さん」
眠たげな声で、ソファーに頭をもたせかけている飛鳥に気づいて、「ベッドで寝ろよ」と吉野は、飛鳥の腕を掴んで引っ張り立たせ、ほとんど眠りかけている彼をそのままベッドに連れていった。
「あーあ、ジャケットくらい脱げよ」
出かける前の服装のまま横たわる飛鳥を見て、「よくこれで、あの几帳面な男に愛想をつかされずに一年もの間、同じ部屋で暮らせたな」と吉野は苦笑混じりに呟く。
「吉野、ウィルの瞳のことも、サラのことも、人に喋るんじゃないよ。結局は、誰かが傷つくことになるのだから……」
寝言のように呟いて飛鳥は完全に瞼を閉じた。
寝ぼけている時にしか、大事なことを教えてくれないくせに――。
小さくため息をついて、吉野はもう一度ソファーに横になった。
昼間焚いた伽羅の香が、いまだ空気に染みつくように残っていてふわりと包んでくれる。吉野もまた、じきに眠りに落ちていった。
久しぶりに、すっきりと目が覚めた。
飛鳥は、濃緑の天蓋をしばらくの間ぼんやりと見つめ、吉野の寝ているソファーに顔を向けた。吉野はすでにいない。
起き上がって、自分の服に目を遣りため息をつく。
「あーあ、皺だらけだ……」
早起きできたと思ったのに、窓の外の太陽はもうすでに高く昇っている。また、ため息をついた。
今日は忙しいのに――。
枕もとのチェストにある時計で時間を確認し、慌てて鞄を漁ると、着替えを持ってバスルームに急ぎ入った。
日が暮れかかる頃、送り火を焚き、吉野と二人、一番近い川まで車で送ってもらって精霊馬と精霊牛、お供え物を流した。
白い石造りの橋の欄干から、夕闇が迫る水の流れを覗きこむようにして、漂ってゆく精霊牛を目で追った。川岸にぽつりぽつりと佇む石造りの民家と、なだらかに広がる緑の牧草地の続く、のどかで、穏やかな異国の地から、遠く故郷に想いを馳せる。
「お祖父ちゃん、こんな遠い国まで来てくれたかなぁ――」
飛鳥はぽつりと呟いた。
「来てくれたよ。だって、飛鳥、お盆前よりずっと元気になっている。祖父ちゃんのおかげだよ」
吉野がにかっと笑って請け負う。
「お祖父ちゃん、今年は大忙しだったね、きっと。本所の家と、それにハワード教授の所にも。気兼ねせずに行けたかなぁ――」
飛鳥が自信なさげに語尾を伸ばしたので、「教授、いつもウイスキーをお供えしている、って言っていたから、祖父ちゃんはつき合いで仕方なく飲んでいただけで、本当は酒が嫌いだった、って言っておいた。だから今年は安心して行ってるよ、きっと」と、吉野は、くっくと笑って言った。
「お祖父ちゃん、ああ見えて甘党だったものね」
「ここの激甘な菓子でも喜んで食うよ、きっと」
顔を見合わせて笑い合った後、ふっと飛鳥は表情を曇らせる。
「生きている間に、教授に会いに行ってくれれば、良かったのにね」
微かに唇を震わせて、一瞬、眉をしかめたが、ぱっと瞳をあげて吉野を見ると、「吉野、ありがとう」と無理に笑顔を作ってお礼を言った。
「生きているときと同じ、死んじまっても、祖父ちゃんはいつだって飛鳥を見守ってくれているよ。なんたって、あの祖父ちゃんだからな。絶対に中途で放り出したりしないもんな」
「僕がダメダメだから、お祖父ちゃんも成仏できないっていうこと?」
飛鳥は噴き出しながら尋ねる。
「そうとも言える」
「お祖父ちゃんの幽霊が傍にいてくれるなら、ずっとダメなままでもいいなぁ」
笑いながら言われた願いが、あながち冗談を言っているようにも思えなくて、「だから、駄目なんだよ。安心させて成仏させてやらないと怒られるぞ」と、吉野は苦笑いする。
「確かに」
「怒ると恐いぞ、祖父ちゃんは」
クスクスと笑いながら肩をすくめる飛鳥の背中を、吉野はバンッと叩いた。
「そろそろ行こう。あんまりマーカスさんを待たせちゃ悪い」
名残惜しそうに川の流れにもう一度目を遣った後、頷くと、飛鳥は吉野と並んで橋を渡り、道の端で待つ車に向かって歩きだした。
5
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
隣に住んでいる後輩の『彼女』面がガチすぎて、オレの知ってるラブコメとはかなり違う気がする
夕姫
青春
【『白石夏帆』こいつには何を言っても無駄なようだ……】
主人公の神原秋人は、高校二年生。特別なことなど何もない、静かな一人暮らしを愛する少年だった。東京の私立高校に通い、誰とも深く関わらずただ平凡に過ごす日々。
そんな彼の日常は、ある春の日、突如現れた隣人によって塗り替えられる。後輩の白石夏帆。そしてとんでもないことを言い出したのだ。
「え?私たち、付き合ってますよね?」
なぜ?どうして?全く身に覚えのない主張に秋人は混乱し激しく否定する。だが、夏帆はまるで聞いていないかのように、秋人に猛烈に迫ってくる。何を言っても、どんな態度をとっても、その鋼のような意思は揺るがない。
「付き合っている」という謎の確信を持つ夏帆と、彼女に振り回されながらも憎めない(?)と思ってしまう秋人。これは、一人の後輩による一方的な「好き」が、平凡な先輩の日常を侵略する、予測不能な押しかけラブコメディ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる