胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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五章

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 親鳥が差しだす餌をついばむ雛のように、吉野は他人の指で支えられているハンバーガーをはぐはぐと食んでいる。
 コントロール・ルームに入ってきた時は苦虫を噛み潰したような顔をしていたのに胃が満たされて満足したのか、今は口許に薄っすらと笑みまで浮かべている。それとも、始終もぐもぐと動いている頬のせいで、そのように見えるだけなのだろうか?

「それにしてもよく食べるね。その細い身体のどこに入るのかな?」

 社員の一人がクスクスと、笑いながら呟いた。いつの間にか室内を覆っていた緊張感も解れ、のんびりとした空気に包まれている。コントロール・ルームのみんなのための軽食が吉野一人の腹に消え、呆れるよりも、腹を壊さないかと心配の方が先に立って忠告していた皆も、最後の一個が消えるにあたって、ついに笑いに至ったのだ。

「脳だよ。俺、代謝がいいからさ」
 吉野はにっと笑って答え、この部屋に入ってから初めて、キーボード上の指を止めた。



「トヅキさん、記者会見が始まります。二階フロアに待機して下さい」

 社内アナウンスの呼びだしに、吉野は立ちあがり、腕を廻してコキコキと鳴らす。そして身を屈めると、床に落としたテールコートのポケットから自分のTSネクストを出し、シャツの胸ポケットにしまった。

「行くぞ」
「行くって?」
「外だよ。全員で行くんだ」

 訝しげに自分を見つけるいくつもの目に応えるように、吉野はにやりと笑い、もう一度同じ言葉を繰り返してドアに向かって顎をしゃくる。

「ほら、さっさとしろ。お前たちにも見てほしいんだ」
「ここの監視は?」
「もうすることはない」

 吉野はスタスタと出口に向かう。バドリはみんなの顔を見廻し静かに頷くと、吉野の後を追った。



「ただ今より、当社CEOヘンリー・ソールスベリーによる、質疑応答に移らせていただきます」

 ぼうっと紫がかった乳白色のガラスドームの下に、ヘンリーが登壇する。

 
 米国の誇るIT業界の揺るがないトップ企業であるガン・エデン本社の目と鼻の先に、まるで喧嘩でも売るように米国支部を築き、乗りこんできたこの英国人が、少しでも隙を見せようなら食らいついてやるつもりで、記者連中は虎視眈々と檀上を見つめている。
 セレモニー後に開かれた販売ブースや、この二階フロアのいたる所に仕かけられた空中映像、何よりもメイン商品となるTSネクストと、彼らが訊ねたいことは山ほどあるのだ。

 ヘンリー・ソールスベリーは、静かな上品な微笑を口許に湛え、表情とは裏腹な気迫を漲らせて、そんな記者たちの視線を全身で受け止めてなお優雅に佇んでいる。



 勝負あったわね。

 即席の舞台脇に立つサリーは、会場を眺めて心の中で呟いていた。
 若干二十歳とは思えない威厳と、威圧感をあますところなく放っているこのボスに、その名前の重さすら理解できない自分たち米国人が、叶うわけがないのだ、と。

 あとは、あの子がヘマさえしなければ……。

 なぜアレが『杜月』を代表して来ているのか――、それが何よりもサリーには理解できなかった。呼び出ししたにもかかわらず、一向に姿を現さない杜月吉野など、このまま引っこんでいてくれればいいのに、とすら思っている。



 次々と手を挙げる記者団の一人が指名され、質疑応答が始まった。サリーは雑念を振り払い壇上に視線を注ぐ。

「我々、アーカシャーHDの目指すところですか――」

 ヘンリーは、ふっと微笑んで檀上を下り、記者席の中央を分かつ通路を真っ直ぐに窓際まで進むと、くるりと振り返った。

「それは、口で説明されるよりも、ご自身の眼でご覧になられた方が、よりご理解頂けると思います」


 ヘンリーは腕を高く上げ、指を弾く。偉大な魔術師か何かのように。

 天井が溶けだし景色が変わっていく。魔法が解けて現れた、むき出しの透明ガラスに覆われた空間にどよめきが走る。外はもう日が落ちている。だが、西の空にかすかに紫の残照がたゆたい、今はまだ、輝くネオンに晒される前の薄闇が、室内に、ガラスの向こう側に、広がっている。

 くるりと背を向け、俯いて眼下のコンクリート広場を注視するヘンリーに、記者団も、コズモス社員たちも、我先にと窓辺に集まり外を覗く。
 コンクリートの広場の中央だけが、艶々と薄闇を弾いて滑らかな肌を見せている。その中心で、この季節だというのに、ウエストコートと、その下のシャツの袖を肘まで捲りあげた場違いな吉野が、ひとりポツンと佇んで空を仰いでいた。


「おい、ヘンリー、始めるぞ!」

 ホール内に、吉野の声が大きく響く。

「これが杜月飛鳥から、お前への、ニューヨーク上陸祝いだ、受け取れ!」



 吉野の足下からオレンジ色の光が、ものすごい勢いで膨れあがり爆発する。一瞬の眩しい閃光に、思わず誰もがギュッと目を閉じた。――そして衝撃が去ると、瞼の向こうに暗闇を感じてそっと薄目を開ける。

 辺りを照らすほどの光はすでに収束し、色取り取りの光の粒となって一点を中心にして渦を巻き始めていた。渦は高速で回転しながらその範囲を広げている。渦の中心からはいくつもの光の粒が飛びでて、散らばっていく。
 目の前で繰り広げられる宇宙創成の物語に、一同は我を忘れて見いっていた。星の動きが緩慢になり、それ以上の広がりを終え、一定の速さで廻り始める頃になって、やっと思いだしたようにカメラのシャッターが切られ始めた。いく人かが、バタバタと表へ続く階段を駆け下りる。

 やがて、軌道に乗った星々は、地球の重力には抗えないかのように地面に落ち、吸い込まれるようにその場所に呑みこまれていった。




 ホールの灯りが戻った。静まり返った会場に、ヘンリーの声が響き渡る。

「これが、僕たちの目指す未来。仮想と現実が融合する宇宙アーカシャ―。僕たちアーカシャーHDがこれからの未来を形作る。人類の新しい夜明けは、今、この場所から始まるのだ。
 小さな宇宙コズモスをこんなにも美しく創生し、育ててくれたのは、僕たちの一番のパートナーである『杜月』です。僕たちは、常に肩を並べ、足並みを揃えてここまでやって来ました。これからも、それは変わらないでしょう。僕の傍らに杜月飛鳥がいる限り、僕は、誰にも負けない」

 ひとり壇上に立つヘンリーは満足そうに微笑んでいる。

「さぁ、次の質問は?」





「な、飛鳥の作る世界は綺麗だろう?」

 足下だけを見つめていると、宇宙空間に放りだされたような錯覚に陥る。だが、同じようなくらりとした眩暈を感じるにしても、目の前の鳥籠の二階ホールとはまるで違う。不安や恐怖の入りこむ余地なんかない。この宇宙そらに接する足先から逆に安心感が広がり、心が高揚していくのが解るのだ。視覚の不安定さは同じはずなのに、いや、この闇の方がもっと深いはずなのに、散らばる星々の調和が、糸を張り巡らせてあるかのように、この身体と心を支えてくれる。

 これが、飛鳥だ。誰の、どんな追従をも許さない、飛鳥の本質だ――。

 TSガラスの嵌めこまれた足下に広がる宇宙を覗きながら、吉野はにっこりと嬉しそうにバドリに笑いかけた。
 コズモスの技術者たちは、初めは恐る恐る、次いで、歓声を上げながらこの宇宙の上を走り回っている。その様子をぼんやりと眺めながら、バドリは放心したように立ち尽くしていた。

 くしゅん!

 くしゃみの音に、バドリはぴくっと我に返る。吉野が肩をすぼめて鼻をすすっている。

「あー、寒ぃよ……。俺、もう下で寝とくわ。レセプション始まったら起こして。メシ食いに行くから」
「まだ食べる気か!」
「だって、俺、ちゃんと働いただろ?」

 吉野は鼻を擦りながらにっと笑う。バドリは、釣られたように口の端を上げ、くいっと首を倒して吉野の肩を組んだ。




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