胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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五章

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「溜息がでるほどかっこいいねぇ、うちのボスは……」
 コントロール・ルームのモニターを見あげ、一人が呟いた。

 画面の中では我らがCOOが、次々と繰りだされる質問の一つ一つに丁寧でウイットに富んだ答を返し、去年の記者会見放棄に対する意地悪な質問に際してもも、決して逃げることのない真摯な姿勢で応えている。経営者としてのヘンリーの明快なヴィジョンと技術に裏付けられた確固たる自信は、米国の報道人に多大なインパクトを植えつけていた。

「それよりも、これ、大丈夫なのかな?」
 別の一人は連なるモニターの一角を指さして、心配そうに顔をしかめる。

 そこには、ニューヨーク支店前広場に続々と集まる人々の姿が映しだされている。

「あー、サリーが中の警備員を何名か表にもまわすってさ」
 バドリはモニターを見あげながら苦笑する。
「あっという間に、ニューヨーク新名所のできあがりだな!」
「新パワー・スポットだろ?」
 誰もが曖昧な笑いを浮かべ、互いに顔を見合わせていた。

 あの感覚は言葉では言い表せない。まさしく神秘体験といっても過言ではない興奮と多幸感を味わったのだ。自分自身が内側から解き放たれ、新しく作り変えられるようだった。だが、自分の内のこの不可思議な感覚を言葉にして誰かに伝えることは、奇妙にも、誰もしなかった。言葉にすることで、全てが嘘になってしまうような気がして、できなかったのだ。

「あっ!」
 モニター画面を眺めていたいく人かが一斉に声を上げる。画面の中の宇宙の映像が徐々に薄れ、消えかけているのだ。

「ヨシノ、どうなっているんだ?!」

 部屋の隅に置かれたソファーでぐっすりと眠っている吉野に、数人がバラバラと駆け寄り、その肩を乱暴に揺さぶった。煩そうに眉をしかめ薄っすらと目を開けた吉野は、チラッとモニターに目をやり、「もともと一時間設定――」と寝言のように呟いて、また眠りの中に戻っていった。

 内線が鳴り響く。対応した社員が困り顔でバドリを呼んだ。
「彼を起こしますか?」
 渋い顔で、バドリは首を横に振る。


 やがて鳴り響いた腕時計のアラーム音に、吉野は気だるげに身を起こした。すっきりしないのか、額に掌を当て顔をしかめている。

「レセプションに出てくる――」
「お腹が空いているのなら、何か貰ってこようか?」

 モニター前の席から、誰かが部屋の隅にいる吉野に大声で声をかける。吉野は首を振って断り、しかめっ面のままコントロール・ルームを後にした。バドリは慌てて立ちあがり、出口に向かう。だが思いだしたように扉の前で振り返り、モニターを指さして叫んだ。

「スティーブ、何かあったらすぐに呼べよ」
「OK! 俺たちにも何か見繕ってきてくれよ!」

 バドリは軽く手を振って同意を示し、急ぎ吉野の後を追った。



 彼女が定刻からわずかに遅れて到着した時には、できたばかりのこの不思議な美しい建物の内も、外も、多くの人々でごった返していた。

 レセプション会場となる地下一階のイベントホールには、等間隔に置かれた真っ白なクロスの長テーブルの上に、色取り取りの華やかな料理が並べられている。そしてホールに集うタキシード姿の紳士方とフォーマルドレスの淑女たちの、静かで落ち着いた会話の重なりあう心地よいざわめきが満ちている。

 キャロライン・フェイラーは、エスコート役の友人の腕から早々に離れて、怒ってでもいるかのような不機嫌な表情で辺りをぐるりと見廻していた。

 室内を囲む三方の壁に並ぶ数種の大型ポスターに、弟アレンと杜月吉野がいる――。

 長テーブルに料理を取りにいく人々と、壁際の椅子に腰かけて談笑している人々で、ポスターの図柄がよく見えない。今まで見たことのないそれらの写真のひとつに、不愉快げに眉をひそめて歩み寄る。と、一定の距離までくると、それらのポスターは忽然と消えてしまう。近づいて細部を確かめることができない。入り口付近からは、全部で六枚の異なったポスターが飾られていたはずなのに、人が邪魔で、その全体像の半分も見ることができないのだ。

 キャロラインは、ますます腹立たしげに、ポスターが消えてしまわないギリギリの位置を保ちながら、一枚一枚を眺めて歩いた。濃紺の夜を思わせる光沢のある生地に、細かな星々に似たラメを織り込んだドレスを着た彼女が、大きくカールした豊かな金髪を緩やかに揺らせて歩くと、すれ違う誰もが振り返る。キャロラインは誰とも目を合わせないように気をつけながら最奥の観葉植物の前まで来ると、不思議そうに足を止めた。

 ここだけ、3D映像――。

 階上フロアでも散々に騙されたのだ。そこかしこに置かれた美しい花や葉にそっと触れてみると、すべて擦り抜けてしまう。このポスターのように角度や距離が変わるといきなり消えてしまう、このだまし絵のような空間を、キャロラインは、ふん、と鼻先で嗤った。そして、つんと顎を尖らせて、カッカッとヒールの音も高くその映像に歩み寄り、眼と鼻の先で立ち止まる。

 黒のウエストコートだけでテールコートも着用せず、タイも付けずに首元のボタンまで外して、ウイングカラーシャツを着崩して肘上まで袖を捲りあげた、この場にはいかにも不釣り合いな、東洋人……。

 こんなみっともない恰好で3Dにしないで、ヘンリーも、もっとちゃんと躾ければいいのに。

 キャロラインはしなやかな手を伸ばし、そっと吉野の頬に触れた。

 3D映像の杜月吉野は不愉快そうに眉根をしかめ、ぷいっと横をむくと、ポケットに手を突っ込んだまま歩み去る。

 目を瞠り立ちつくしていた彼女の背後から、聞き覚えのある声がする。

「キャル、何をしに来たの?」
 振り返ると両手にグラスを持った弟が、訝しげな瞳を向けていた。
「ヨシノに何か言ったの? さっきまでここにいたのに。彼に何かしたら許さないよ、って言ったはずだよ!」

 険のある声音で詰るアレンを、キャロラインは目を瞬かせて、唖然と見つめ返す。

「――あれ、本物だったの?」

 驚いたのはアレンの方だ。ぷっと吹きだし笑い崩れながら、「TSの作った映像だと思ったの?」と、判り切ったことを揶揄うように訊き返した。

「ばっかじゃないの!」

 一言、言い捨てると、アレンはもう、腹立たしげに唇を尖らせる姉なんか眼中にもないようすで、クスクス笑いながら足早にその場を離れていった。




「来ないのか? それとも帰ったのかな?」
「どうだろうね。でも、まだ来てはいないのは確かだよ」

 吉野は二階フロアに続く中央らせん階段の手摺にもたれて、多くの人の出入りする正面扉をぼんやりと見おろし、消え入りそうな声で呟く。その横で、同じように下を覗きこんでいるサウードは、いつもと変わらない抑揚のない調子で応える。

 もうじき、長かった一日が終わる。
 吉野は手摺の上で組んだ腕に、目を瞑ってその額をのせ、深い吐息を漏らしていた。じっと動かない吉野の分まで、サウードは正面扉を見つめ続けている。

 いつの間にか傍らにアレンが来て、心配そうな瞳を吉野の背中に、ついでサウードに向ける。アレンに小さく微笑み返したサウードの口許がすぐに緊張で強張り、ひと息おいて、低い静かな声で告げた。

「ヨシノ、来たよ。リック・カールトンだ」

 待ち続けていたその言葉とともに、吉野はひらりと手摺を越えて、――飛んだ。





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