胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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六章

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 フランス国鉄のアナウンスが流れる中、伸ばされた浅黒い指先のわずかな先で無情にもドアは静かに閉まる。吉野は、ガラス越しにニッと笑って手を振っていた。

 パリ北駅。ロンドン発のユーロスターから下車し、歩きだした矢先だった。傍らを歩いていたはずの吉野が、あっという間に移動途中のコンコースから、発車間際の列車に駆けこんでいたのだ。

「カレー行き――。次の列車で追いかけよう!」
 呆れた顔で振り返るアリーに、ウィリアムは苦笑して首を横に振る。
「あの子のことだから、次の駅で降りて乗り換えますよ。頭の回る子なんでね。少しぐらいこちらにも付き合ってくれるのかと思ったら、ずいぶん行動が早かったですね」
「――聞きしに勝るやんちゃぶりだな」
 肩をすくめて口をへの字に曲げている、一回りは年上の真面目そうな男に、ウィリアムは柔らかな上品な笑みを向けた。
「彼が本来の行先に乗り換えるまで、お茶でも飲んで待ちましょう。ご心配無用です。GPSは仕込んでいますから」
 頷いたアリーも、パンッ、と自分のだぼっとしたカーゴパンツのポケットを叩く。
「ああ、それは駄目ですよ。あの子も心得ていますからね。スマートフォンの位置情報は、彼のプログラムした旅行日程通りに動いていくはずです」
「とんだお坊ちゃんだな」
 目を丸くし、くっくっと笑いだしたアリーの肩に、ウィリアムは軽く労うように手を添えた。

 Tシャツにスニーカー、大きなバックパックを担いでいる、中肉中背だがいかにも鍛えられたしなやかな筋肉と浅黒い肌を持つアリーと、明るいベージュのスーツにネクタイを締め、綺麗に磨かれた靴を履いてスーツケースをひく、いかにもスマートなビジネスマン然としたウィリアムは、一見してとても旅の連れあいには見えなかった。だが、同じ任務を持つ者同士として、雑踏の中を肩を並べて歩きだした。



『ルージュトレイン』の愛称をもつワインレッドの車体のアムステルダム行き高速列車タリスがホームを滑りだす。その二等座席の深紅のシートに身体を沈める吉野に、明るく弾んだ声がかかる。

「隣、空いてますか?」
「どうぞ」

 自分とそう変わらないラフなTシャツにジーンズ姿の典型的なバックパッカー風の青年だ。その爽やかな笑顔に吉野は同じくフランス語で応え、にこやかに微笑み返した。




「ヨシノは旅を楽しんでいるみたいだよ」
 居間のソファーで寛いでいたヘンリーは、空中を凝視しながらくすっと微笑んだ。送られてきたTSメールに目を通しているところなのだ。

「パリかぁ。僕も今の問題が落ち着いたら、行ってみたいな」
 膝の上のノートパソコンに視線を据えたままの飛鳥が応える。
「行くかい? いつか、なんて言っていたら、いつまで経っても行けやしないよ」
「そうだね……。でも先にこの映像酔いの問題に目途をつけなきゃ、ね」
「気になって、遊んでなんていられない?」
 苦笑するヘンリーに、飛鳥は残念そうな微笑み返した。

「ニューヨーク支店一周年と、ロンドン本店の二周年記念、どうしよう?」
「気が進まないないなら、無理をしなくてもいいんだよ」

 ヘンリーは、優しい穏やかな口調に柔らかな笑みを加えて飛鳥を見つめている。だが飛鳥は深く溜息をつき、不満げに口を尖らせた。

「本店の改装記念のときも大したイベントはしなかっただろ。依頼がもう、不満と怒号に変わってきてるんだよ。でも、まずは映像酔いの問題を解決しなきゃ、だろ」
「解決できるの? 3D映像には、今の時点でこれだけ症状がでているにも拘わらず、何の法規制もされていないんだよ。この発症率なら許容範囲として認められるのではないのかな?」

 もっともなヘンリーの意見だ。だが飛鳥は納得できないと、やはり首を横に振るのだ。

「規制されていないからってそのままにはできないよ。メイボールの迷宮にしても――。今、サラにSNSにあげられたTSイベントのコメント集計をしてもらっているんだ。アレンの言うことにしても、何だか引っかかるんだよ」

 ノートパソコンをローテーブルに下ろし、飛鳥は膝の上で頬杖をついた。

「こんなときに、吉野がいてくれたらなぁ」
「アスカ――」

 表情を曇らせるヘンリーに飛鳥は苦笑して謝った。

「ごめん。あいつを利用するなって言った僕が、一番あいつに甘えている」
「……きみは、映像酔いしないの? ほら、きみも三半規管が弱くて、すぐに乗り物酔いをするって言っていただろう? 映像酔いと乗り物酔い、症状が似てるっていうじゃないか」

 意識して吉野の話題から逸らし、ヘンリーは小首を傾げてみせる。

「僕は3D映像に慣れているから。この二つ、症状はほぼ同じでも、そこに至るメカニズムは違うみたいだよ。ええっと――、乗り物酔いは自分が揺れることによって起きるんだ。映像酔いは、自分は動かない状態で3D映像の方が動いて、脳が、映像と自身の動作との認識のズレを許容できなくて――」

 しばらくの間、話の途中で空を凝視するように黙り込んだ飛鳥を、ヘンリーは怪訝そうに、だが邪魔をしないように黙って見守っていた。だがとうとう、いつまで待っても続かない言葉に業を煮やして声をかけた。

「アスカ?」
「ヘンリー、もしかして、3D酔いじゃないのかもしれない!」

 目を見開いて自分を見つめ返した飛鳥は、慌てたように立ち上がっている。

「サラ、調べて欲しいんだ!」

 吹き抜けの階上に声を張りあげ、飛鳥は居間の片隅にある螺旋階段をカン、カン、と、足音高く駆けあがる。
 ヘンリーは呆気に取られ、ついで安堵の笑みを浮かべて、ロートアイアンの手摺に手に滑らせて回廊を走っていく飛鳥の姿を目で追っていた。






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