胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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七章

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「それで?」
 サリーの報告は右から左に聞き流してずっと吉野のことを考えていたのか、とここは叱るべきだなと思いつつ、アーネストは意思に反して続きを促した。特に問題のないニューヨーク支店よりも、今はこっちの方が重要度が高い。そう思い直したからだ。

「今のところ、ルベリーニも欧州四家も、もちろん僕たちも、彼とは利害が一致しているんだ。ヨシノはアスカのために働き、僕らに仇なすまねはしない。そういう子だろう?」
「だからといって、あの子のやっていることは犯罪行為だろ?」
「クラッキングくらいうちだってやっているよ」
「それは言わない約束」

 そっとアーネストは人差し指を立てる。

「ルベリーニの言うウイルスに関して僕たちが解っていることはね、不正アクセスの痕跡だけなんだ」
 難しい顔で告げるヘンリーに、逆にアーネストは尋ね返す。
「ということは、きみは知っていた、って意味かな?」
「アスカに言われていたんだ。ヨシノは、世界で最も普及しているセキュリティ暗号を破る攻撃手法を手に入れているはずだって。サラがずっと彼の痕跡を追っているところだよ」

 さすが――。

 野放しにしている訳ではないのだと安堵して、アーネストの口許から笑みが溢れた。だが続いて聞かされた事実に、逆に危機感から身を引き締めることになる。

 一瞥するだけですべてを記憶できる吉野に、データの保存も転送も必要ない。ただ侵入して中身を垣間見るだけで事足りる。それもわずか数秒でいいのだ。ファイルを盗まれる訳でも改竄される訳でもない。強いていえば情報漏洩の可能性だけ。それも、彼だという確証はどこにもないのだ。これをどう防衛できるというのか。

「彼がなんの情報を集めて、何をしようとしているかすら、まだ僕らは把握できていないんだ」

 広場を忙しなく行き交う人々の流れを、ガラス越しにぼんやりと見下ろしながら、「害はなさない――。そう、あの子を信じるしかないんだ」とヘンリーは吐き捨てるように言って、この件に関しての話を結んだ。

 この問題は思った以上に厄介なのか――。

 アーネストは見るともなしに、遠い地面に薄らと光を帯びて輝いているアレンの映像を眺め、次いで、ヘンリーの端正な横顔を盗み見る。

 信じるなんて、嘘だ。

 地上を見つめる彼の怜悧な横顔は、アーネストにそう思わせずにはいられないほど、厳しさと危惧とを湛えていた。




「俺、もうそろそろ行くよ。この下でアフタヌーン・ティーを予約してあるんだ」
「アフタヌーン・ティー? 婦女子の楽しみだな」

 馬鹿にしたようにアブドはふっと笑い、吉野が立ちあがるのと同時に、自身もソファーの上で胡座をかいていた脚を下ろした。

「あそこのサンドイッチが旨いんだ」
「それくらい今すぐ用意してやる」
「あんたとじゃ嫌だ」
「座れ。まだ話は済んでいない」

 膨れっ面をする吉野を、アブドは自分の横を力任せにバンと叩いて威嚇する。

「おお怖。あんた、見かけより気が短いんだね」
 首をすくめてくいっと唇をはね上げる吉野を睨めつけ、アブドはもう一度顎をつき出して、ゆっくりと繰り返す。

「座れ」

 ため息を一つつき、吉野はアブドの向かいのソファーに腰を下ろす。



「吸うか? それとも酒でも飲むか?」
 アブドは軽く背を丸めて細い紙巻煙草に火を点けた。ゆっくりと肩を持ち上げるように大きく息を吸い込む。
 その青臭い匂いに、吉野はかすかに顔をしかめる。
 同じくらいゆっくりと、アブドはふーと長く細い煙を吐く。白い煙がゆらめき立ち昇る。口の端に銜えて笑いながら、継いで彼はローテーブルの上のロックグラスにウイスキーを波なみと注ぎ、吉野の前にダンと置いた。

「俺は、酒も煙草も、マリファナもしないよ」

 目を細めて自分を眺めている吉野を、アブドは打って変わって豪快に笑い飛ばした。

「お前、イスラム教徒ムスリムなのか!」

「あんたは、らしくないね」
「返事は? 諾、以外の言葉は受けつけないぞ」
「おまけに我儘だ」
「それが許される身分だ」
「自国の中だけでね」
「このまま無事に帰れるとでも?」
「思っているよ。あんた、そこまで馬鹿じゃないもの」

 平然と笑う吉野を前に、アブドは手を延ばしてウイスキーのグラスを掴み一息に煽る。

「強気だな」
「理由は解っているだろ?」
「アブドゥルアジーズか」
「彼の顔を立ててやってもいいよ」

 ここにきて吉野は、だらしなくソファーの肘掛けにもたれかかり、頬杖をついて言質を翻した。鷹揚な笑みを浮かべてぼんやりとした眼を宙に漂わせながら、また片膝立ててソファーにゆったりと身を預けているアブドを見下ろすように眺めながら。

「回るの早いんだね。純度が高いんだ?」

 アブドの投げたシガレットケースが、吉野の膝に落ちる。だが彼はそれを手に取ると、アブドの前にコトリと置いて、薄らと笑みを浮かべたまま首を振った。

「必要ないよ、俺には。こうやって目を瞑るだけでもう、脳内モルヒネ出捲りだからね。一歩足を踏みだせば、いつでも宇宙の海に飛び込めるよ。あんたも見たい、俺の宇宙? そんなもの吸っているくらいだもんな、トリップしたいんだろ? いいよ、見せてやっても――」

 いつの間にか、アブドからあの顔面と一体化したような鷹揚な笑みが消えている。
 だが吉野は、変わらずあの片唇を跳ね上げた、歪んだ笑みを浮かべていた。





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