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七章
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「あ、お帰り。遅いからもう置いていっちゃおうと思ってたよ」
物音と人の気配に、デヴィッドは居間のドアを開けた。玄関ホールに帰ってきたばかりの吉野を見つけ、軽く手を振る。
「まだ時間あるだろ? 何か食うものある?」
「途中で買いなよ。ほら、早く準備して!」
今日は毎週通っているロンドン弓道場の、稽古納めの日なのだ。
だが、ヘンリーのアパートメントで吉野を待っていた彼を無視して、当の本人は気ままに、「腹、減った~」などと歌いながらキッチンに向かっている。
「ちょっと、ヨシノ!」
デヴィッドは呆れて追いかけて、その肩をぽんと叩く。と、いきなり「こら! この悪ガキ!」と、デヴィッドは振り向いた吉野の頬を思いきり捻りあげる。
「痛、痛いよ、デヴィ!」
呆気に取られて抵抗する吉野からやっと指を放したかと思うと、今度は赤くなった頬を容赦なくペシパシと叩く。
「マリファナの臭いを染みつかせて帰ってくるなんて、どこでそんな悪い遊びを覚えたんだよ!」
「やってないよ、俺! だからすぐに帰ってきたんじゃないか! こんな臭いがつくなんて思わなかったんだよ。一ヶ月前から予約してたテムズ・フォヤーのアフタヌーン・ティーを諦めてキャンセルしたんだぞ!」
ひりひりと痛む右頬を摩りながら、吉野は眉根をしかめてデヴィッドを睨んだ。
「でもその場にいたんでしょ? きみ、誰とつるんでたの?」
デヴィッドは吉野の前に立ちはだかったまま、厳しい表情で詰問した。場合によってはヘンリーやアーネストにも報告しなければならない。吉野はこの国では一介の留学生にすぎないのだ。軽い遊びのつもりでも、簡単にこの国から追いやられて戻ってこられなくなるかもしれないのだ。
「アブド・H・アル=マルズーク」
吉野から告げられたその名前に、彼の表情は和らぐどころかさらに険しさを増し、驚愕と嫌悪感までが上乗せされる。
「きみさぁ、ほっぺ、ピシパシくらいじゃ済まされないねぇ、それは……」
「なんだよ! だから俺はやってないって! だいたいさぁ、俺が薬に手をだすはずないだろ? 何があってもそれだけはないよ。あいつがおかしいんだよ! 真面目に仕事の話をしてるっていうのにさぁ、いきなりやり始めるんだぞ! イカれてるだろ!」
「あんな奴と関わること自体が問題なの!」
「だから、仕事だって!」
「子どもが働かなくたっていいんだよ! お金に困っているわけでもないのに!」
「人は食うために生きるに非ずっていうだろ!」
「大食らいのきみが何言ってるんだよ、きみ、正しく食べるために生きてるじゃないか!」
「だから、自分の食い扶持ぐらい自分で稼いで、」
「それが余計だっていうんだよ!」
ふん、と腰に手を当ててデヴィッドは仁王立ちして吉野を睨めつけた。
「そうキャンキャン言うなよ、腹減ってるんだからさ」
吉野は諦めたように声のトーンを落とした。
「きみもう、この休み中は外出禁止だ」
「おい、今日は稽古納めなんだからさ」
「じゃあ、さっさと準備する! 今日は僕も一緒だから特別に許可してあげるよ。その臭いジャケット、捨ててしまいなよ!」
「無茶言うなよ。『アンダーソン』だぞ……」
吉野は自分の袖口を鼻先に持っていって臭いを嗅ぎ、しかめっ面をする。その腕を盾にして、そっとデヴィッドの機嫌を取るように上目遣いに様子を伺う。
「さっさとする!」
いつもの甘ったるい笑顔の彼とは別人のように、ヘーゼルの瞳に険を込めて叱りつけたデヴィッドは、くいっと顎をしゃくって階段を示した。
「ちぇ、なんだよ~。着替えればいいんだろ! 俺、真剣、腹減ってんのになぁ~。飢え死にするぞー!」
吉野は諦めたように派手にため息を吐き、自室のある二階へ向かった。だがその途中で、やはり納得がいかないふうに立ち止まり、手摺から身を乗りだして不思議そうに小首を傾げてデビッドを見やる。
「なぁ、なんで俺、こんな怒られてんの?」
「馬鹿だからだよ!」
間髪入れずに返ってきた容赦ない一言に、遂に吉野は肩を震わせてクスクスと笑いだした。そして、「ひでーな、俺、ぐれるぞ。あー、傷ついた! デヴィが俺のこと、いじめるんだー」と、悪態をつきながら階段を上っていった。
その夜の十一時を回るころ、アーネストがもたらした新ニュースにヘンリーは腹の底から笑っていた。
「まったく、あの子の無鉄砲さときたら!」
「デイヴを宥める方が大変だったよ」
アーネストは苦笑を漏らしながら、スカイラウンジの窓越しに広がるニューヨークの夜景に視線を移す。けれど、この美しい光の海原をゆっくり眺めて堪能する余裕など、デヴィッドからの電話で吹き飛んでしまった。
あの子はほんの束の間ですら、じっとしていてくれないのだから。
おそらく同じ事を考えているであろうヘンリーと、顔を見合わせる。
「デイヴがいてくれて良かったね」
やっと笑いを納め、ヘンリーは呟いた。
「本当に、あの悪名高いアブド・H・アル=マルズークとホテルの一室で交渉していたとか、よく無事に帰ってこられたよ」
「逆に信じられないくらいだけどね。でも、その点はデイヴがしっかり確認しているよ。顔色も、息の臭いも、行動も、まともだったって」
「それは心配していないよ。もし強制されていたとしたら、自分の足で帰ってくるのは無理だろうしね。あの子は自分からは絶対にドラッグには手をださない。アスカの事があるからね。薬物と名のつくものは風邪薬ですら嫌っているくらいだ。さあて、ここにいる間に色々調べなければ。ロレンツォとデイヴのお陰で、ヨシノに一歩近づけたのは確かだからね」
ヘンリーはふわりと涼しげな笑みを見せ、アーネストに穏やかな視線を向けた。
「アーニー、予定変更だ。お祖父様の新年パーティーに参加するよ。ジェームズ・テーラーに会ってくる。きみは例の件の方、頼んだよ」
物音と人の気配に、デヴィッドは居間のドアを開けた。玄関ホールに帰ってきたばかりの吉野を見つけ、軽く手を振る。
「まだ時間あるだろ? 何か食うものある?」
「途中で買いなよ。ほら、早く準備して!」
今日は毎週通っているロンドン弓道場の、稽古納めの日なのだ。
だが、ヘンリーのアパートメントで吉野を待っていた彼を無視して、当の本人は気ままに、「腹、減った~」などと歌いながらキッチンに向かっている。
「ちょっと、ヨシノ!」
デヴィッドは呆れて追いかけて、その肩をぽんと叩く。と、いきなり「こら! この悪ガキ!」と、デヴィッドは振り向いた吉野の頬を思いきり捻りあげる。
「痛、痛いよ、デヴィ!」
呆気に取られて抵抗する吉野からやっと指を放したかと思うと、今度は赤くなった頬を容赦なくペシパシと叩く。
「マリファナの臭いを染みつかせて帰ってくるなんて、どこでそんな悪い遊びを覚えたんだよ!」
「やってないよ、俺! だからすぐに帰ってきたんじゃないか! こんな臭いがつくなんて思わなかったんだよ。一ヶ月前から予約してたテムズ・フォヤーのアフタヌーン・ティーを諦めてキャンセルしたんだぞ!」
ひりひりと痛む右頬を摩りながら、吉野は眉根をしかめてデヴィッドを睨んだ。
「でもその場にいたんでしょ? きみ、誰とつるんでたの?」
デヴィッドは吉野の前に立ちはだかったまま、厳しい表情で詰問した。場合によってはヘンリーやアーネストにも報告しなければならない。吉野はこの国では一介の留学生にすぎないのだ。軽い遊びのつもりでも、簡単にこの国から追いやられて戻ってこられなくなるかもしれないのだ。
「アブド・H・アル=マルズーク」
吉野から告げられたその名前に、彼の表情は和らぐどころかさらに険しさを増し、驚愕と嫌悪感までが上乗せされる。
「きみさぁ、ほっぺ、ピシパシくらいじゃ済まされないねぇ、それは……」
「なんだよ! だから俺はやってないって! だいたいさぁ、俺が薬に手をだすはずないだろ? 何があってもそれだけはないよ。あいつがおかしいんだよ! 真面目に仕事の話をしてるっていうのにさぁ、いきなりやり始めるんだぞ! イカれてるだろ!」
「あんな奴と関わること自体が問題なの!」
「だから、仕事だって!」
「子どもが働かなくたっていいんだよ! お金に困っているわけでもないのに!」
「人は食うために生きるに非ずっていうだろ!」
「大食らいのきみが何言ってるんだよ、きみ、正しく食べるために生きてるじゃないか!」
「だから、自分の食い扶持ぐらい自分で稼いで、」
「それが余計だっていうんだよ!」
ふん、と腰に手を当ててデヴィッドは仁王立ちして吉野を睨めつけた。
「そうキャンキャン言うなよ、腹減ってるんだからさ」
吉野は諦めたように声のトーンを落とした。
「きみもう、この休み中は外出禁止だ」
「おい、今日は稽古納めなんだからさ」
「じゃあ、さっさと準備する! 今日は僕も一緒だから特別に許可してあげるよ。その臭いジャケット、捨ててしまいなよ!」
「無茶言うなよ。『アンダーソン』だぞ……」
吉野は自分の袖口を鼻先に持っていって臭いを嗅ぎ、しかめっ面をする。その腕を盾にして、そっとデヴィッドの機嫌を取るように上目遣いに様子を伺う。
「さっさとする!」
いつもの甘ったるい笑顔の彼とは別人のように、ヘーゼルの瞳に険を込めて叱りつけたデヴィッドは、くいっと顎をしゃくって階段を示した。
「ちぇ、なんだよ~。着替えればいいんだろ! 俺、真剣、腹減ってんのになぁ~。飢え死にするぞー!」
吉野は諦めたように派手にため息を吐き、自室のある二階へ向かった。だがその途中で、やはり納得がいかないふうに立ち止まり、手摺から身を乗りだして不思議そうに小首を傾げてデビッドを見やる。
「なぁ、なんで俺、こんな怒られてんの?」
「馬鹿だからだよ!」
間髪入れずに返ってきた容赦ない一言に、遂に吉野は肩を震わせてクスクスと笑いだした。そして、「ひでーな、俺、ぐれるぞ。あー、傷ついた! デヴィが俺のこと、いじめるんだー」と、悪態をつきながら階段を上っていった。
その夜の十一時を回るころ、アーネストがもたらした新ニュースにヘンリーは腹の底から笑っていた。
「まったく、あの子の無鉄砲さときたら!」
「デイヴを宥める方が大変だったよ」
アーネストは苦笑を漏らしながら、スカイラウンジの窓越しに広がるニューヨークの夜景に視線を移す。けれど、この美しい光の海原をゆっくり眺めて堪能する余裕など、デヴィッドからの電話で吹き飛んでしまった。
あの子はほんの束の間ですら、じっとしていてくれないのだから。
おそらく同じ事を考えているであろうヘンリーと、顔を見合わせる。
「デイヴがいてくれて良かったね」
やっと笑いを納め、ヘンリーは呟いた。
「本当に、あの悪名高いアブド・H・アル=マルズークとホテルの一室で交渉していたとか、よく無事に帰ってこられたよ」
「逆に信じられないくらいだけどね。でも、その点はデイヴがしっかり確認しているよ。顔色も、息の臭いも、行動も、まともだったって」
「それは心配していないよ。もし強制されていたとしたら、自分の足で帰ってくるのは無理だろうしね。あの子は自分からは絶対にドラッグには手をださない。アスカの事があるからね。薬物と名のつくものは風邪薬ですら嫌っているくらいだ。さあて、ここにいる間に色々調べなければ。ロレンツォとデイヴのお陰で、ヨシノに一歩近づけたのは確かだからね」
ヘンリーはふわりと涼しげな笑みを見せ、アーネストに穏やかな視線を向けた。
「アーニー、予定変更だ。お祖父様の新年パーティーに参加するよ。ジェームズ・テーラーに会ってくる。きみは例の件の方、頼んだよ」
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