霧のはし 虹のたもとで

萩尾雅縁

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Ⅰ.秋の始まり

18 魚

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 この季節は曇天が普通のロンドンでは珍しい、日射しの暖かい晴れ渡った日曜日だ。朝のひと仕事を終え、僕は日当たりの良い居間で勉強していた。昨夜はこの部屋で寝たらしいアルビーが、温かいラジエーターの前でまだ眠っていた。

 自分のベッドがあるのにわざわざ床で眠る彼のことが、僕はよく解らない。尋ねると、「熟睡できないから寝ながら思索できる」と平然と応えていた。熟睡できないとかえって頭は休めないから働かなくなる、って思われがちだけど、本当に集中しているときには、頭は冴え渡っている。だから眠ってたって思考は続く。大学受験日がさし迫っていたときの僕がそうだったから、アルビーの言うことに僕は至極納得した。

 黙っていても、アルビーはぼーとしているわけではないのだ。たぶん頭の中は博士論文でいっぱいなのだと思う。

 だから僕は彼がこうして眠っているように見えるときは、極力邪魔しないように気をつけている。最初の頃は彼がいる時は居間に入らないようにしていたくらいだ。けれど、人の気配のある方が落ち着くからかまわないよ、とアルビーに言われて、こうしてできるだけ静かに勉強するようになった。でもさすがに彼が居間にいると解っているときには、洗濯機は回さない。



 茶色の毛布を頭からすっぽり被り、全身に巻きつけるようにくるまっている中から、アルビーの黒髪がぴょこんとのぞく。起きたみたいだ。
 まるでミノムシが葉っぱの中から出てくるみたいだな。
 この時ばかりは、彼のこの寝相、小さな子どもみたいだなって、僕は微笑ましく想いながら眺めていた。初めの頃よりずっと喋ってくれるようになった彼は、本当は、ちっともそんな可愛げなんてないんだけどね。



「コウ、マリーがハムステッド・ヒースで一緒にランチを食べようって」

 もぞもぞと毛布の中で携帯を触っていたアルビーが、仰向けの頭をのけ反らせて僕を見ていた。

「ヒースで? ピクニックってこと?」
「ん――。カフェに行く?」

 あんな野原まで行って、わざわざカフェなんて。

 僕はきっと、がっかりした顔をしていたのだと思う。

 いまだに眠たげな目をしたアルビーは、さらに首を反らして眼を眇め、考える素振りで唇を尖らせている。

「じゃあ、なにか買って行こう。シャワーを浴びてくる。すぐすますから準備しておいて」

 そう言って毛布から伸びでた剥きだしの彼の腕に、なにかが巻きついていた。一瞬それに気をとられた僕は、すぐに慌てて顔を逸らす。

「なんで服、着てないんだよ!」 
「暑かったから」
「ラジエーターの温度下げればいいだろ! そんなんじゃ、風邪ひくよ!」
「平気」

 アルビーは、ぽりぽりと背中を掻きながら答えている。たぶん。僕は真っ赤になってそっぽを向いていたから見てないけれど、そんな音がする。

「コウ、」
「なに!」
「首の後ろが痒い。ちょっと見て」

 アルビー、ちょっと無頓着すぎないか? 
 僕がゲイじゃなくて、別段彼のことを好きじゃないって解ってから、僕を意識しないにもほどがあるって振舞いだ。

「ん」

 内心そんな不満を渦巻かせながら、僕は突きだされた彼の白い背中を一瞥する。取りあえず、毛布は巻きつけてくれている。吐息が漏れる。こっちの人って平気で裸で寝るんだ。寮の廊下でも裸で歩き回ってたりでびっくりしてたけれど、まさかアルビーまでがそうだなんて――。

「どうもなってないよ」
「首の下あたりだよ」

 彼はざっくりと後ろ髪をかきあげた。

「あ、赤くなってる」

 などと呟きながら、そんなことよりなにより僕は彼の左腕に目を奪われていたのだ。切り絵のように繊細で複雑な模様が描きこまれた深緑がかった細長い魚が、アルビーの腕に泳いでいるんだもの! まさかアルビーが、タトゥーだなんて!

 すごいショックだ。こんな綺麗な白い肌に彫り物なんて!

「ただの絵だよ。ヘナだからね、それ。二週間くらいで消えるよ」

 アルビーは背中に目があって、僕の歪んだ顔が見えているらしい。僕はぷいっと、これ以上僕の変顔を見られないようにそっぽを向いた。でも本当は、消えるって聞いてほっとして力が抜けちゃって――。それから無性に腹がたった。

「首、クッションの金具でひっかいたんだろ! そんなところで寝てるからだよ!」

 拗ねたように聞こえたに違いない。そんな声音で言ってしまった僕に返ってきたのは、アルビーのクスクス笑う声だった。
 




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