20 / 193
Ⅰ.秋の始まり
18 魚
しおりを挟む
この季節は曇天が普通のロンドンでは珍しい、日射しの暖かい晴れ渡った日曜日だ。朝のひと仕事を終え、僕は日当たりの良い居間で勉強していた。昨夜はこの部屋で寝たらしいアルビーが、温かいラジエーターの前でまだ眠っていた。
自分のベッドがあるのにわざわざ床で眠る彼のことが、僕はよく解らない。尋ねると、「熟睡できないから寝ながら思索できる」と平然と応えていた。熟睡できないとかえって頭は休めないから働かなくなる、って思われがちだけど、本当に集中しているときには、頭は冴え渡っている。だから眠ってたって思考は続く。大学受験日がさし迫っていたときの僕がそうだったから、アルビーの言うことに僕は至極納得した。
黙っていても、アルビーはぼーとしているわけではないのだ。たぶん頭の中は博士論文でいっぱいなのだと思う。
だから僕は彼がこうして眠っているように見えるときは、極力邪魔しないように気をつけている。最初の頃は彼がいる時は居間に入らないようにしていたくらいだ。けれど、人の気配のある方が落ち着くからかまわないよ、とアルビーに言われて、こうしてできるだけ静かに勉強するようになった。でもさすがに彼が居間にいると解っているときには、洗濯機は回さない。
茶色の毛布を頭からすっぽり被り、全身に巻きつけるように包まっている中から、アルビーの黒髪がぴょこんとのぞく。起きたみたいだ。
まるでミノムシが葉っぱの中から出てくるみたいだな。
この時ばかりは、彼のこの寝相、小さな子どもみたいだなって、僕は微笑ましく想いながら眺めていた。初めの頃よりずっと喋ってくれるようになった彼は、本当は、ちっともそんな可愛げなんてないんだけどね。
「コウ、マリーがハムステッド・ヒースで一緒にランチを食べようって」
もぞもぞと毛布の中で携帯を触っていたアルビーが、仰向けの頭をのけ反らせて僕を見ていた。
「ヒースで? ピクニックってこと?」
「ん――。カフェに行く?」
あんな野原まで行って、わざわざカフェなんて。
僕はきっと、がっかりした顔をしていたのだと思う。
いまだに眠たげな目をしたアルビーは、さらに首を反らして眼を眇め、考える素振りで唇を尖らせている。
「じゃあ、なにか買って行こう。シャワーを浴びてくる。すぐすますから準備しておいて」
そう言って毛布から伸びでた剥きだしの彼の腕に、なにかが巻きついていた。一瞬それに気をとられた僕は、すぐに慌てて顔を逸らす。
「なんで服、着てないんだよ!」
「暑かったから」
「ラジエーターの温度下げればいいだろ! そんなんじゃ、風邪ひくよ!」
「平気」
アルビーは、ぽりぽりと背中を掻きながら答えている。たぶん。僕は真っ赤になってそっぽを向いていたから見てないけれど、そんな音がする。
「コウ、」
「なに!」
「首の後ろが痒い。ちょっと見て」
アルビー、ちょっと無頓着すぎないか?
僕がゲイじゃなくて、別段彼のことを特別に好きじゃないって解ってから、僕を意識しないにもほどがあるって振舞いだ。
「ん」
内心そんな不満を渦巻かせながら、僕は突きだされた彼の白い背中を一瞥する。取りあえず、毛布は巻きつけてくれている。吐息が漏れる。こっちの人って平気で裸で寝るんだ。寮の廊下でも裸で歩き回ってたりでびっくりしてたけれど、まさかアルビーまでがそうだなんて――。
「どうもなってないよ」
「首の下あたりだよ」
彼はざっくりと後ろ髪をかきあげた。
「あ、赤くなってる」
などと呟きながら、そんなことよりなにより僕は彼の左腕に目を奪われていたのだ。切り絵のように繊細で複雑な模様が描きこまれた深緑がかった細長い魚が、アルビーの腕に泳いでいるんだもの! まさかアルビーが、タトゥーだなんて!
すごいショックだ。こんな綺麗な白い肌に彫り物なんて!
「ただの絵だよ。ヘナだからね、それ。二週間くらいで消えるよ」
アルビーは背中に目があって、僕の歪んだ顔が見えているらしい。僕はぷいっと、これ以上僕の変顔を見られないようにそっぽを向いた。でも本当は、消えるって聞いてほっとして力が抜けちゃって――。それから無性に腹がたった。
「首、クッションの金具でひっかいたんだろ! そんなところで寝てるからだよ!」
拗ねたように聞こえたに違いない。そんな声音で言ってしまった僕に返ってきたのは、アルビーのクスクス笑う声だった。
自分のベッドがあるのにわざわざ床で眠る彼のことが、僕はよく解らない。尋ねると、「熟睡できないから寝ながら思索できる」と平然と応えていた。熟睡できないとかえって頭は休めないから働かなくなる、って思われがちだけど、本当に集中しているときには、頭は冴え渡っている。だから眠ってたって思考は続く。大学受験日がさし迫っていたときの僕がそうだったから、アルビーの言うことに僕は至極納得した。
黙っていても、アルビーはぼーとしているわけではないのだ。たぶん頭の中は博士論文でいっぱいなのだと思う。
だから僕は彼がこうして眠っているように見えるときは、極力邪魔しないように気をつけている。最初の頃は彼がいる時は居間に入らないようにしていたくらいだ。けれど、人の気配のある方が落ち着くからかまわないよ、とアルビーに言われて、こうしてできるだけ静かに勉強するようになった。でもさすがに彼が居間にいると解っているときには、洗濯機は回さない。
茶色の毛布を頭からすっぽり被り、全身に巻きつけるように包まっている中から、アルビーの黒髪がぴょこんとのぞく。起きたみたいだ。
まるでミノムシが葉っぱの中から出てくるみたいだな。
この時ばかりは、彼のこの寝相、小さな子どもみたいだなって、僕は微笑ましく想いながら眺めていた。初めの頃よりずっと喋ってくれるようになった彼は、本当は、ちっともそんな可愛げなんてないんだけどね。
「コウ、マリーがハムステッド・ヒースで一緒にランチを食べようって」
もぞもぞと毛布の中で携帯を触っていたアルビーが、仰向けの頭をのけ反らせて僕を見ていた。
「ヒースで? ピクニックってこと?」
「ん――。カフェに行く?」
あんな野原まで行って、わざわざカフェなんて。
僕はきっと、がっかりした顔をしていたのだと思う。
いまだに眠たげな目をしたアルビーは、さらに首を反らして眼を眇め、考える素振りで唇を尖らせている。
「じゃあ、なにか買って行こう。シャワーを浴びてくる。すぐすますから準備しておいて」
そう言って毛布から伸びでた剥きだしの彼の腕に、なにかが巻きついていた。一瞬それに気をとられた僕は、すぐに慌てて顔を逸らす。
「なんで服、着てないんだよ!」
「暑かったから」
「ラジエーターの温度下げればいいだろ! そんなんじゃ、風邪ひくよ!」
「平気」
アルビーは、ぽりぽりと背中を掻きながら答えている。たぶん。僕は真っ赤になってそっぽを向いていたから見てないけれど、そんな音がする。
「コウ、」
「なに!」
「首の後ろが痒い。ちょっと見て」
アルビー、ちょっと無頓着すぎないか?
僕がゲイじゃなくて、別段彼のことを特別に好きじゃないって解ってから、僕を意識しないにもほどがあるって振舞いだ。
「ん」
内心そんな不満を渦巻かせながら、僕は突きだされた彼の白い背中を一瞥する。取りあえず、毛布は巻きつけてくれている。吐息が漏れる。こっちの人って平気で裸で寝るんだ。寮の廊下でも裸で歩き回ってたりでびっくりしてたけれど、まさかアルビーまでがそうだなんて――。
「どうもなってないよ」
「首の下あたりだよ」
彼はざっくりと後ろ髪をかきあげた。
「あ、赤くなってる」
などと呟きながら、そんなことよりなにより僕は彼の左腕に目を奪われていたのだ。切り絵のように繊細で複雑な模様が描きこまれた深緑がかった細長い魚が、アルビーの腕に泳いでいるんだもの! まさかアルビーが、タトゥーだなんて!
すごいショックだ。こんな綺麗な白い肌に彫り物なんて!
「ただの絵だよ。ヘナだからね、それ。二週間くらいで消えるよ」
アルビーは背中に目があって、僕の歪んだ顔が見えているらしい。僕はぷいっと、これ以上僕の変顔を見られないようにそっぽを向いた。でも本当は、消えるって聞いてほっとして力が抜けちゃって――。それから無性に腹がたった。
「首、クッションの金具でひっかいたんだろ! そんなところで寝てるからだよ!」
拗ねたように聞こえたに違いない。そんな声音で言ってしまった僕に返ってきたのは、アルビーのクスクス笑う声だった。
0
あなたにおすすめの小説
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
恋文より、先にレポートが届いた~監視対象と監視官、感情に名前をつけるまで
中岡 始
BL
政府による極秘監視プロジェクト──その対象は、元・天才ハッカーで現在は無職&生活能力ゼロの和泉義人(32歳・超絶美形)。
かつて国の防衛システムに“うっかり”侵入してしまった過去を持つ彼は、現在、監視付きの同居生活を送ることに。
監視官として派遣されたのは、真面目で融通のきかないエリート捜査官・大宮陸斗(28歳)。
だが任務初日から、冷蔵庫にタマゴはない、洗濯は丸一週間回されない、寝ながらコードを落書き…と、和泉のダメ人間っぷりが炸裂。
「この部屋の秩序、いつ崩壊したんですか」
「うまく立ち上げられんかっただけや、たぶん」
生活を“管理”するはずが、いつの間にか“世話”してるし…
しかもレポートは、だんだん恋文っぽくなっていくし…?
冷静な大宮の表情が、気づけば少しずつ揺らぎはじめる。
そして和泉もまた、自分のために用意された朝ごはんや、一緒に過ごすことが当たり前になった日常…心の中のコードが、少しずつ書き換えられていく。
──これは「監視」から始まった、ふたりの“生活の記録”。
堅物世話焼き×ツンデレ変人、心がじわじわ溶けていく、静かで可笑しな同居BL。
僕たち、結婚することになりました
リリーブルー
BL
俺は、なぜか知らないが、会社の後輩(♂)と結婚することになった!
後輩はモテモテな25歳。
俺は37歳。
笑えるBL。ラブコメディ💛
fujossyの結婚テーマコンテスト応募作です。
優しい檻に囚われて ―俺のことを好きすぎる彼らから逃げられません―
無玄々
BL
「俺たちから、逃げられると思う?」
卑屈な少年・織理は、三人の男から同時に告白されてしまう。
一人は必死で熱く重い男、一人は常に包んでくれる優しい先輩、一人は「嫌い」と言いながら離れない奇妙な奴。
選べない織理に押し付けられる彼らの恋情――それは優しくも逃げられない檻のようで。
本作は織理と三人の関係性を描いた短編集です。
愛か、束縛か――その境界線の上で揺れる、執着ハーレムBL。
※この作品は『記憶を失うほどに【https://www.alphapolis.co.jp/novel/364672311/155993505】』のハーレムパロディです。本編未読でも雰囲気は伝わりますが、キャラクターの背景は本編を読むとさらに楽しめます。
※本作は織理受けのハーレム形式です。
※一部描写にてそれ以外のカプとも取れるような関係性・心理描写がありますが、明確なカップリング意図はありません。が、ご注意ください
ポメラニアン魔王
カム
BL
勇者に敗れた魔王様はポメラニアンになりました。
大学生と魔王様(ポメラニアン)のほのぼの生活がメインです。
のんびり更新。
視点や人称がバラバラでちょっと読みにくい部分もあるかもしれません。
表紙イラスト朔羽ゆき様よりいただきました。
はじまりの朝
さくら乃
BL
子どもの頃は仲が良かった幼なじみ。
ある出来事をきっかけに離れてしまう。
中学は別の学校へ、そして、高校で再会するが、あの頃の彼とはいろいろ違いすぎて……。
これから始まる恋物語の、それは、“はじまりの朝”。
✳『番外編〜はじまりの裏側で』
『はじまりの朝』はナナ目線。しかし、その裏側では他キャラもいろいろ思っているはず。そんな彼ら目線のエピソード。
Take On Me
マン太
BL
親父の借金を返済するため、ヤクザの若頭、岳(たける)の元でハウスキーパーとして働く事になった大和(やまと)。
初めは乗り気でなかったが、持ち前の前向きな性格により、次第に力を発揮していく。
岳とも次第に打ち解ける様になり…。
軽いノリのお話しを目指しています。
※BLに分類していますが軽めです。
※他サイトへも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる