霧のはし 虹のたもとで

萩尾雅縁

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Ⅱ.冬の静寂(しじま)

23 傷

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 温かいお湯に浸かって漂っている。そんな靄がかった意識の向こうから、アルビーが僕を見ていた。それとも、僕がアルビーを見ていたのだろうか――。



 結局、僕は一週間もの間うつらうつらとベッドの中ですごした。初日の熱は割あい早くさがったのだけれど、微熱がだらだらととれなかったからだ。
 マリーなんかは、「もう熱もないじゃない」と怒るので、日本人とイギリス人の平熱の差をそれはもう必死で説明して、まだ身体がふらふらすることや食欲がまるでないことをなんとか解ってもらった。

 だけどずっとアルビーの顔を見ていない。マリーはちょくちょく顔を見せてくれて、差しいれをくれたりしてたのに。マリーに尋ねると、「アルは今忙しいから」と口を濁していた。

 体調が回復してくるにつれ、僕はなんだか不安になってきた。僕があまりの醜態を晒してしまったから、アルビーに呆れられて嫌われてしまったんじゃないかって……。あの丘では優しかったけど、本当はぐずぐずと泣きやまない僕を疎ましく思っていたのかもしれない。そう思い始めると、どんどん思考が悪い方、悪い方へと流れだして。熱がさがってからもベッドから起きるのが本当に嫌だった。

 そうはいっても、これ以上講義を休んではいられない。それに、またシンクが腐海に沈んでいるかもしれない。掃除だってしないと。僕はのんびり休んでいてもいいような身分じゃないんだ。



 
 お腹が空いた。
 久しぶりに感じた空腹に、なんだかほっとした。シャワーとトイレに行くときくらいしか立ちあがらなかったから、身体を起こすだけで眩暈がする。まずはちゃんと食べなきゃ。

 キッチンにおりてお粥を作った。やっぱり体調の悪い時はお米が食べたい。あいにく、以前に買っていた、だしの素が切れていたから、コンソメで味をつけることにした。

 キッチンのテーブルにぺたりと頭をのせ、じっと待つ。小鍋でご飯を炊くのも慣れたものだ。こっちに来るまで、料理なんてしたことがなかったのに。
 寮の食事に慣れなかった僕に、がいろいろ調べて教えてくれたから。彼はとにかくうんちくを垂れるのが好きだったから。ご飯の炊き方にも煩かったもんな。このお粥を作ってくれたのも、僕が今みたいに風邪をひいて寝こんだ時だったっけ。

 ぼんやりと小鍋から立ち昇る湯気に、懐かしいご飯の臭いが混じっている。ここに来てからはご飯を炊くのは初めてだ。皆で食べる時は大抵マリーの買ってきたお惣菜かデリバリーだから。ひとりで自炊することもなかったもんな。それに苦手だった学食も、今では安くてお腹いっぱいになる有難い食事だと思えるようになったから――。

 コンソメと粉チーズ、塩こしょうで味を調えてできあがり。バターを加えるのはやめておこう。まだ胃に重い気がする。



「いい匂いがしている」

 深皿によそって、いただきます、と手を揃えたところで聞こえた声に、びくりと振り返る。

「こんな夜中にお腹が空いたの? すっかり良くなったんだね」

 アルビーが目を細めて僕を見ている。彼は、なんだかすごく疲れているようにみえる。

「僕ももらっていい?」と、アルビーは前髪をかきあげて小鍋の中を覗きこむ。

 え……。

 彼の言った言葉よりも、気怠げな彼のくしゃくしゃの髪の――、ぬけるように白い細い指で無造作に押さえられているその下、額の生え際の傷にぎょっとして思わず目を逸らしてしまっていた。いつもは前髪で隠れてたんだ。今まで気づかなかったなんて!

「コウ?」
「あ、うん、どうぞ食べて」

 どうせ一回では食べきれない。あまった分は明日の朝ご飯にすればいいや、と思って多めに作っていたのだ。アルビーは自分でよそうと、僕の向かいに座った。

「リゾット?」
「みたいなもの。味気ないようならバターを足す?」

 冷蔵庫を見て立ちあがろうとした僕に、アルビーは「いや、いらない」と首を振る。そして、「顔色、良くなったね」と黙々と食べながら、思いだしたように言ってくれた。

「うん、ありがとう」

 ずっと顔を見なかったけれど、どうしていたの? とか、ついさっきまで頭を占領していた質問は、こうして普段通りの彼を目にすると煙のように消えてしまっていた。だけどそれは、別の疑念に頭を占領されていたからかもしれない。

 つい、彼の額に目がいってしまう。アルビーの綺麗な顔にあんな傷があるなんて、嘘だろって。こうして髪の毛をおろしていれば全然判らないのに。

 機械的にスプーンを口に運びながら、僕はまた彼の顔をじっと見つめてしまっていた。

 あんなに、謝ったばかりだというのに!





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