35 / 193
Ⅱ.冬の静寂(しじま)
32 おにぎり
しおりを挟む
「最近おかかおにぎりばっかりじゃない。私はサーモンのが好きなのに!」
マリーが唇を尖らせて僕を睨む。
「べつに嫌なら食べなくたっていいんだよ」
素っ気なく応えて、手の中のご飯にかつお節を加えてぎゅっと握る。
僕は怒っているんだ。
でも面と向かって文句を言えるようなことじゃない。だからこれは、僕なりのささやかな復讐だ。
イギリスは鮭が美味しい。鮭だけは、間違いなく日本で食べるよりも美味しい。マリーも、アルビーも、そしておそらく英国人は鮭好きだ。でも、日本人のように魚好きっていうわけでもないようで、スーパーで売られている魚の種類はびっくりするほど少ない。その中で、鮭だけはどこででも手に入る有難い魚なのだ。
僕はこの鮭の切り身を買ってきて、鮭フレークを手作りしている。軽く茹でた鮭をほぐして骨と皮を取り除き、ハーブソルトと黒コショウ、細かく砕いたニンニクフレーク、それに白ワインを加えてオリーブオイルで炒る。
本当は和風の鮭フレークにしたかったけれど、二人が喜ぶかと思って、あえて洋風レシピを選んでみた。
日本にいるときは、鮭フレークが自分で作れるなんて思ってもみなかったけれど、やってみると意外に簡単だ。僕は白ゴマ入りの普通の鮭フレークの方が好きだけどね。バジル風味もたまにならいいって感じで。
とはいえ狙い通り、この自家製鮭フレークのおにぎりは、二人にとても好評だった。
でも当分作ってなんてやるもんか!
本当は、前に作ったフレークがまだたっぷり残っているけれど、冷蔵庫の奥に隠している。僕の朝ご飯に振りかけて、全部食べ切ってやるって決めたんだ。
取り付く島のない僕を睨みながら、マリーはますます膨れっ面だ。雨あられと文句を浴びせかけてくる。僕は意識のシャッターを下ろす。そうすると、マリーの声はもう言葉じゃなくて鳥の声だ。意識しないと聴きとることなんてできないもの。
なんだよ、おにぎりの具くらいで。アルビーは文句なんて言わないのに!
――文句どころか、何も言わない。
いつも空っぽのタッパがシンクに置いてあるだけだ。朝ご飯も一緒に食べなくなって、朝のこのおにぎりができあがると、それを持ってすぐさま大学へ行ってしまう。もうほとんど「おはよう」以外の会話をしていない。
この繰り返しの毎日に、ほっとするような気持ちと、逆に無視されているような腹立たしさ、キリキリと胃を捩じるようなやるせなさが練りこまれマーブル模様をなしている。
捩じれてぐにゃぐにゃな僕は、このわずかな「おはよう」の隙間ですら、まともに顔を上げることができない。
あれから僕は、努めてアルビーのことを考えないようにしている。そのためにも、今まで以上に講義に積極的に取り組んだ。
ボイスレコーダーで講義やディスカッションを録音して、聞き逃していた箇所や、その場で理解できなかった箇所を集中して聴き直す。それでも解らないところは、マリーに尋ねて……。鮭おにぎりは作らないけれど、お祖母ちゃんが送ってくれた苺味のポッキーをさし出して、「教えて」と頼むと、彼女はよほど忙しくしていない限り、つきあってくれる。
マリーに対してだって、腹立ちが収まったわけではないけれど……。
背に腹はかえられない。
クラスで若干浮いていた僕が、やっと皆に馴染んで授業以外でも雑談できるようになってきたんだ。もうこれ以上失敗したくない。友だちだってできるかもしれないんだ。
それに僕は、この国で普通に喋れる相手がマリーとアルビーしかいないのが問題だって気づいたんだ。だから、必要以上にアルビーのことばかり考えてしまうんだって。考えたって無駄なのに。僕は彼にとってお話にもならないお子さまで、彼に対する同情も心配も、鼻で笑われてしまうようなものに過ぎないのに。
ほんのわずかな衣擦れの音や、ふわりと漂う残り香、ドアの軋む音にさえアルビーを意識して神経を逆立てている――。そんな自分が、ほとほと嫌になっていたんだ。
マリーが唇を尖らせて僕を睨む。
「べつに嫌なら食べなくたっていいんだよ」
素っ気なく応えて、手の中のご飯にかつお節を加えてぎゅっと握る。
僕は怒っているんだ。
でも面と向かって文句を言えるようなことじゃない。だからこれは、僕なりのささやかな復讐だ。
イギリスは鮭が美味しい。鮭だけは、間違いなく日本で食べるよりも美味しい。マリーも、アルビーも、そしておそらく英国人は鮭好きだ。でも、日本人のように魚好きっていうわけでもないようで、スーパーで売られている魚の種類はびっくりするほど少ない。その中で、鮭だけはどこででも手に入る有難い魚なのだ。
僕はこの鮭の切り身を買ってきて、鮭フレークを手作りしている。軽く茹でた鮭をほぐして骨と皮を取り除き、ハーブソルトと黒コショウ、細かく砕いたニンニクフレーク、それに白ワインを加えてオリーブオイルで炒る。
本当は和風の鮭フレークにしたかったけれど、二人が喜ぶかと思って、あえて洋風レシピを選んでみた。
日本にいるときは、鮭フレークが自分で作れるなんて思ってもみなかったけれど、やってみると意外に簡単だ。僕は白ゴマ入りの普通の鮭フレークの方が好きだけどね。バジル風味もたまにならいいって感じで。
とはいえ狙い通り、この自家製鮭フレークのおにぎりは、二人にとても好評だった。
でも当分作ってなんてやるもんか!
本当は、前に作ったフレークがまだたっぷり残っているけれど、冷蔵庫の奥に隠している。僕の朝ご飯に振りかけて、全部食べ切ってやるって決めたんだ。
取り付く島のない僕を睨みながら、マリーはますます膨れっ面だ。雨あられと文句を浴びせかけてくる。僕は意識のシャッターを下ろす。そうすると、マリーの声はもう言葉じゃなくて鳥の声だ。意識しないと聴きとることなんてできないもの。
なんだよ、おにぎりの具くらいで。アルビーは文句なんて言わないのに!
――文句どころか、何も言わない。
いつも空っぽのタッパがシンクに置いてあるだけだ。朝ご飯も一緒に食べなくなって、朝のこのおにぎりができあがると、それを持ってすぐさま大学へ行ってしまう。もうほとんど「おはよう」以外の会話をしていない。
この繰り返しの毎日に、ほっとするような気持ちと、逆に無視されているような腹立たしさ、キリキリと胃を捩じるようなやるせなさが練りこまれマーブル模様をなしている。
捩じれてぐにゃぐにゃな僕は、このわずかな「おはよう」の隙間ですら、まともに顔を上げることができない。
あれから僕は、努めてアルビーのことを考えないようにしている。そのためにも、今まで以上に講義に積極的に取り組んだ。
ボイスレコーダーで講義やディスカッションを録音して、聞き逃していた箇所や、その場で理解できなかった箇所を集中して聴き直す。それでも解らないところは、マリーに尋ねて……。鮭おにぎりは作らないけれど、お祖母ちゃんが送ってくれた苺味のポッキーをさし出して、「教えて」と頼むと、彼女はよほど忙しくしていない限り、つきあってくれる。
マリーに対してだって、腹立ちが収まったわけではないけれど……。
背に腹はかえられない。
クラスで若干浮いていた僕が、やっと皆に馴染んで授業以外でも雑談できるようになってきたんだ。もうこれ以上失敗したくない。友だちだってできるかもしれないんだ。
それに僕は、この国で普通に喋れる相手がマリーとアルビーしかいないのが問題だって気づいたんだ。だから、必要以上にアルビーのことばかり考えてしまうんだって。考えたって無駄なのに。僕は彼にとってお話にもならないお子さまで、彼に対する同情も心配も、鼻で笑われてしまうようなものに過ぎないのに。
ほんのわずかな衣擦れの音や、ふわりと漂う残り香、ドアの軋む音にさえアルビーを意識して神経を逆立てている――。そんな自分が、ほとほと嫌になっていたんだ。
0
あなたにおすすめの小説
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
恋文より、先にレポートが届いた~監視対象と監視官、感情に名前をつけるまで
中岡 始
BL
政府による極秘監視プロジェクト──その対象は、元・天才ハッカーで現在は無職&生活能力ゼロの和泉義人(32歳・超絶美形)。
かつて国の防衛システムに“うっかり”侵入してしまった過去を持つ彼は、現在、監視付きの同居生活を送ることに。
監視官として派遣されたのは、真面目で融通のきかないエリート捜査官・大宮陸斗(28歳)。
だが任務初日から、冷蔵庫にタマゴはない、洗濯は丸一週間回されない、寝ながらコードを落書き…と、和泉のダメ人間っぷりが炸裂。
「この部屋の秩序、いつ崩壊したんですか」
「うまく立ち上げられんかっただけや、たぶん」
生活を“管理”するはずが、いつの間にか“世話”してるし…
しかもレポートは、だんだん恋文っぽくなっていくし…?
冷静な大宮の表情が、気づけば少しずつ揺らぎはじめる。
そして和泉もまた、自分のために用意された朝ごはんや、一緒に過ごすことが当たり前になった日常…心の中のコードが、少しずつ書き換えられていく。
──これは「監視」から始まった、ふたりの“生活の記録”。
堅物世話焼き×ツンデレ変人、心がじわじわ溶けていく、静かで可笑しな同居BL。
僕たち、結婚することになりました
リリーブルー
BL
俺は、なぜか知らないが、会社の後輩(♂)と結婚することになった!
後輩はモテモテな25歳。
俺は37歳。
笑えるBL。ラブコメディ💛
fujossyの結婚テーマコンテスト応募作です。
優しい檻に囚われて ―俺のことを好きすぎる彼らから逃げられません―
無玄々
BL
「俺たちから、逃げられると思う?」
卑屈な少年・織理は、三人の男から同時に告白されてしまう。
一人は必死で熱く重い男、一人は常に包んでくれる優しい先輩、一人は「嫌い」と言いながら離れない奇妙な奴。
選べない織理に押し付けられる彼らの恋情――それは優しくも逃げられない檻のようで。
本作は織理と三人の関係性を描いた短編集です。
愛か、束縛か――その境界線の上で揺れる、執着ハーレムBL。
※この作品は『記憶を失うほどに【https://www.alphapolis.co.jp/novel/364672311/155993505】』のハーレムパロディです。本編未読でも雰囲気は伝わりますが、キャラクターの背景は本編を読むとさらに楽しめます。
※本作は織理受けのハーレム形式です。
※一部描写にてそれ以外のカプとも取れるような関係性・心理描写がありますが、明確なカップリング意図はありません。が、ご注意ください
ポメラニアン魔王
カム
BL
勇者に敗れた魔王様はポメラニアンになりました。
大学生と魔王様(ポメラニアン)のほのぼの生活がメインです。
のんびり更新。
視点や人称がバラバラでちょっと読みにくい部分もあるかもしれません。
表紙イラスト朔羽ゆき様よりいただきました。
はじまりの朝
さくら乃
BL
子どもの頃は仲が良かった幼なじみ。
ある出来事をきっかけに離れてしまう。
中学は別の学校へ、そして、高校で再会するが、あの頃の彼とはいろいろ違いすぎて……。
これから始まる恋物語の、それは、“はじまりの朝”。
✳『番外編〜はじまりの裏側で』
『はじまりの朝』はナナ目線。しかし、その裏側では他キャラもいろいろ思っているはず。そんな彼ら目線のエピソード。
Take On Me
マン太
BL
親父の借金を返済するため、ヤクザの若頭、岳(たける)の元でハウスキーパーとして働く事になった大和(やまと)。
初めは乗り気でなかったが、持ち前の前向きな性格により、次第に力を発揮していく。
岳とも次第に打ち解ける様になり…。
軽いノリのお話しを目指しています。
※BLに分類していますが軽めです。
※他サイトへも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる