霧のはし 虹のたもとで

萩尾雅縁

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Ⅲ.春の足音

79 計画

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 イースター休暇を目前にした日曜日。僕は久しぶりに図書館には出掛けず、家にいた。
 せっかく旅行に出るのだ。ショーンから借りた本を読んで、予備知識を仕入れておきたい。どうせなら、メインのストーンヘンジだけではなく、周辺の観光地も訪れてみたい。
 観光ガイドブックを眺めるだけで気分が浮き立つ。毎日が家と大学の往復で、ロンドン以外の街を訪れたのはイギリスに来たばかりの頃の、ケンブリッジの日帰り旅行の一日だけだもの。
 ショーンの計画してくれたこの旅行は、沈み込むことが多かった最近の僕の気分を久々に引き上げてくれていた。


「何にやにやしているのよ?」
 と、お気に入りのスムージーを片手にマリーがキッチンから入ってきた。反対の手には分厚い本やファイルを持っている。彼女もここで勉強するのだろう。僕は慌てて、ティーテーブルにバラバラと広げて全面を占領していた本を閉じ、まとめにかかる。

「旅行に行くの?」
 マリーはその中の一冊を取り上げ、付箋を貼り付けてあるページをパラパラとめくる。
「うん。ショーンとね、十日間ほど」

 コースは全て彼が立ててくれている。僕はそれにのっかるだけだ。だけど、彼とは共通した目的があるから、彼の提案は充分に僕の興味を掻き立ててくれたし、お互い贅沢できない貧乏旅行の前提は、僕を程よく安心させてくれていた。

「ふーん。アルは知っているの?」
「彼の許可がいる?」

 僕はマリーから目を逸らして、訊ね返した。こんな態度では何かやましいことでもあるみたいじゃないか、と内心自分に苛立ちながら。

 あれから余りマリーとも話をしていない。互いに避けている訳ではないけれど。ただ何となく。だから、このところ会話がぎこちないんだ。
 僕が以前よりもずっと授業に慣れてきて、解らないところは先生やチューターに尋ねて、彼女に頼ることが減ったからかもしれない。
 そんな関係のない言い訳が、頭の中を駆け巡る。

 ちらりと目線を上げると、マリーは探るような眼つきでじっと僕を眺めている。なんだか居た堪れない。何もやましいことなんてないのに。

「あんた、何だか変わったわね」
 どこか冷たい声音で、マリーは呟いた。

「そうかな」僕は下を向いたまま相槌を打つ。

「アルのことが好き?」
「好きだよ」
「じゃあ、どうして他の男と旅行になんて行くの?」
「友だちと旅行に行くのが、そんなに悪いことなのかな?」

 マリーの言いたいことも、解らないではないけれど。僕も、ショーンも、ゲイな訳じゃない。僕がアルビーを好きなのは、彼がアルビーだからだ。男だから好きになった訳じゃない。それに、僕はアルビーと付き合っている訳じゃない。

 アルビーは、底なしの穴に吸い込まれそうな気分の時、僕にしがみつく。しがみついて、僕の躰で穴を埋める。排水溝に吸い込まれて行く水流が、その時だけは一瞬止まる。止まって緩やかな流れになる。その僅かな間に、彼は息を継ぐんだ。僕と彼の関係は、そんなもの。

 でも、その間の僕はと言うと、ごぼごぼと闇色の水を呑み込み、呑み込まれながら、呼吸不全に陥っている。息の出来ない恍惚の中で、全てを忘れて漂っている。
 だからこそ、目覚めている間は、意識的に彼から顔を背けなければ。彼を自分の中から締め出し、背を向け、来た道だけを見返しながら、後ろ向きに進まなければ。

 躰の芯まで凍りつきそうな水底では、僕の火蜥蜴サラマンダーは眠りについたまま。

 彼をもう一度目覚めさせ、アルビーを引き込む底なしの水をカラカラに干上がらせることができるなら……。
 そのためにも、僕は、僕を覆うこの湿気を吹き飛ばさなければならないんだ。


 不満そうに膨れっ面をするマリーに、苦笑が漏れた。

「アルビーにはちゃんと話すよ。誤解のないように」

 きみの何よりも大切なアルビーに。

 マリーは、額の傷が彼にもたらした痛みをずっと傍で見て来たから、彼にこれ以上、どんな些細な傷を付けられるのも我慢がならないんだ、って僕は知っているから。
 



 

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