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Ⅲ.春の足音
80 デリバリー
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今日の食事当番はアルビーだ。遅れないように帰るから楽しみにしておいて、と、にこにこ言い残して、朝から出掛けている。だから僕は安心して居間にいた。午前中に溜まった家事を済ませ、紅茶を淹れてまったりとした午後を過ごしていた。こうしてマリーに邪魔されるまでは。
彼女は僕とアルビーのことを知っている。はっきりと口に出して話したことはないけれど。知っているから、僕たちが彼女に遠慮することなく二人の時間を持てるようにと、外泊するようになった。
アルビーが剥き出しの孤独を僕に晒したのは、本当にあの日一日だけで。翌日からは普段通りの彼に戻ってくれた。いや、普段通りというのは語弊があるかもしれない。以前よりもずっと空気が和らいで、落ち着いている、と思う。それに、スキンシップが増えた気もする。マリーにするのと同じように、僕にも、行ってきますのキスを頬やおでこにくれる。それに軽くハグしたりも。毎日のことなのに慣れなくて、アルビーがふわりと香る度にドキドキする。家族のような柔らかなスキンシップは、気恥ずかしいけれど、幸せな気分をくれる。
でも、僕は彼が居る時は、居間で勉強することはなくなった。携帯ポットにコーヒーを作り置きして、自室に籠って勉強に励んでいる。避けているとは思われたくないので、朝食は一緒に食べるし、お弁当作りも相変わらずしているけれど。
このまま何事もなかったように、元の生活に戻れるかと思っていたんだ。アルビーに、二回目に誘われるまでは。断れば、彼はまたあそこへ行くのではないかと怖くて、嫌だなんて言えなかった。それに、僕の意志に反して、彼の一言、一言が、その息遣いが、僕の躰の芯に点火していた。僕は自ら焔に飛び込んでいく羽虫のように、彼の腕の中に飛び込んで燃え墜ちた。
アルビーは優しい。いつだって優しくしてくれる。だけど僕には、その優しさが信じられなくて。彼に触れれば触れるほど、近づけば近づくほど、遠くなる。苦しくなる。僕は間違っていると、思ってしまう。それなのに、怖くて訊けないんだ。
綺麗なアルビー。人気者のアルビー。こんなにも皆に愛されているのに、どうしてきみは、刹那の愛しか望まないの?
ショーンに借りた本を視界に映しても、ちっとも内容が入ってこない。豊かな自然を写した綺麗な写真も、神秘的な図版も。
マリーはもう何も言わずに、黙々と自分のすべきことを始めている。多分。余りページが動いているようには見えないけれど。
こんな時、僕は少し辛い。ボロカスに文句を言ってくる彼女の方が安心するのに。本当は、僕とアルビーの関係を、マリーはどう思っているのか知りたい。けれど知りたくない。
アルビーを本当に愛しているのは誰で、アルビーが心から大切に想っているのは誰か。僕は解っているつもりだから。
その事を考える時、僕はとても居た堪れない想いに駆られる。僕はマリーを騙し、アルビーを騙し、自分自身を騙している。解っているのに、あの深い、透き通った緑の瞳の中に僕を見出せるその瞬間だけは、彼は僕だけのものだと夢見たいと、願ってしまうんだ。
玄関のブザーの音に、マリーは立ち上がった。アルビーかな? と思ったけど違った。アルビーが頼んだデリバリーサービスだったらしい。マリーの嬉しそうなにやけた笑顔に、僕まで顔がほころんだ。
「今日のご飯は何?」
「お楽しみ!」
マリーは受け取った袋を抱えたまま、キッチンへ向かう。きっとマリーの好物なんだ。
それからしばらくして帰って来たアルビーと揃って囲んだ夕食のテーブルは、オフィス街で人気のお弁当デリバリーの、みそ汁つき海鮮ちらし丼だった。平日のランチタイムしかデリバリーは受け付けないはずなのに。「友だちがバイトしているから」と、アルビーは澄まして何でもない事のように言うけれど。こんな我儘が通るアルビーの交友関係には、時々本当に驚かされる。
「コウが作ってくれるのも美味しいけれど、手間だろ? たまにはこんなのもいいかなって思ってさ」
街中で人気の日本食もどきチェーン店の、一風変わったイギリス風和食じゃなくて、ちゃんと日本人の店の日本で食べるのと変わらないその味は、気がつかない間に張り詰めていた僕のピリピリとした神経を緩ませるのに充分な、とても、懐かしい味がした。
彼女は僕とアルビーのことを知っている。はっきりと口に出して話したことはないけれど。知っているから、僕たちが彼女に遠慮することなく二人の時間を持てるようにと、外泊するようになった。
アルビーが剥き出しの孤独を僕に晒したのは、本当にあの日一日だけで。翌日からは普段通りの彼に戻ってくれた。いや、普段通りというのは語弊があるかもしれない。以前よりもずっと空気が和らいで、落ち着いている、と思う。それに、スキンシップが増えた気もする。マリーにするのと同じように、僕にも、行ってきますのキスを頬やおでこにくれる。それに軽くハグしたりも。毎日のことなのに慣れなくて、アルビーがふわりと香る度にドキドキする。家族のような柔らかなスキンシップは、気恥ずかしいけれど、幸せな気分をくれる。
でも、僕は彼が居る時は、居間で勉強することはなくなった。携帯ポットにコーヒーを作り置きして、自室に籠って勉強に励んでいる。避けているとは思われたくないので、朝食は一緒に食べるし、お弁当作りも相変わらずしているけれど。
このまま何事もなかったように、元の生活に戻れるかと思っていたんだ。アルビーに、二回目に誘われるまでは。断れば、彼はまたあそこへ行くのではないかと怖くて、嫌だなんて言えなかった。それに、僕の意志に反して、彼の一言、一言が、その息遣いが、僕の躰の芯に点火していた。僕は自ら焔に飛び込んでいく羽虫のように、彼の腕の中に飛び込んで燃え墜ちた。
アルビーは優しい。いつだって優しくしてくれる。だけど僕には、その優しさが信じられなくて。彼に触れれば触れるほど、近づけば近づくほど、遠くなる。苦しくなる。僕は間違っていると、思ってしまう。それなのに、怖くて訊けないんだ。
綺麗なアルビー。人気者のアルビー。こんなにも皆に愛されているのに、どうしてきみは、刹那の愛しか望まないの?
ショーンに借りた本を視界に映しても、ちっとも内容が入ってこない。豊かな自然を写した綺麗な写真も、神秘的な図版も。
マリーはもう何も言わずに、黙々と自分のすべきことを始めている。多分。余りページが動いているようには見えないけれど。
こんな時、僕は少し辛い。ボロカスに文句を言ってくる彼女の方が安心するのに。本当は、僕とアルビーの関係を、マリーはどう思っているのか知りたい。けれど知りたくない。
アルビーを本当に愛しているのは誰で、アルビーが心から大切に想っているのは誰か。僕は解っているつもりだから。
その事を考える時、僕はとても居た堪れない想いに駆られる。僕はマリーを騙し、アルビーを騙し、自分自身を騙している。解っているのに、あの深い、透き通った緑の瞳の中に僕を見出せるその瞬間だけは、彼は僕だけのものだと夢見たいと、願ってしまうんだ。
玄関のブザーの音に、マリーは立ち上がった。アルビーかな? と思ったけど違った。アルビーが頼んだデリバリーサービスだったらしい。マリーの嬉しそうなにやけた笑顔に、僕まで顔がほころんだ。
「今日のご飯は何?」
「お楽しみ!」
マリーは受け取った袋を抱えたまま、キッチンへ向かう。きっとマリーの好物なんだ。
それからしばらくして帰って来たアルビーと揃って囲んだ夕食のテーブルは、オフィス街で人気のお弁当デリバリーの、みそ汁つき海鮮ちらし丼だった。平日のランチタイムしかデリバリーは受け付けないはずなのに。「友だちがバイトしているから」と、アルビーは澄まして何でもない事のように言うけれど。こんな我儘が通るアルビーの交友関係には、時々本当に驚かされる。
「コウが作ってくれるのも美味しいけれど、手間だろ? たまにはこんなのもいいかなって思ってさ」
街中で人気の日本食もどきチェーン店の、一風変わったイギリス風和食じゃなくて、ちゃんと日本人の店の日本で食べるのと変わらないその味は、気がつかない間に張り詰めていた僕のピリピリとした神経を緩ませるのに充分な、とても、懐かしい味がした。
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