霧のはし 虹のたもとで

萩尾雅縁

文字の大きさ
163 / 193
Ⅳ 初夏の木漏れ日

158 過去

しおりを挟む
 朝はあんなに晴れていたのに、今はもう、どんよりとした曇り空だ。久しぶりの雨になるかもしれない。近頃はずっと良いお天気だったから仕方がないか。
 
 自室の机についたまま、眼を休めるために向けた窓外の予想外の暗さに、ますます気分が落ち込んだ。読み進めるにつれ、この空のような鈍色が広がっていくアーノルドの日記。手に馴染む、柔らかなその深緑の革表紙を親指でなぞる。

 アルビーの言った通り、儀式の記述から遡ってみても、四大精霊の人形のモデルたちについての言及はない。却って不自然なほどに。アビゲイルに出逢ってからの彼の想いが、ひたすらに綴られているだけだった。

 三冊目の日記帳に移って間もなく、アーノルドの恋は唐突に成就した。とんとん拍子に結婚に至る。彼は貴族階級の出身だけど、次男だったので、酷く反対されたりもしなかったらしい。アビゲイルのファッションモデルという職種、二十歳にも満たない若さ、それに孤児という出生に関しては、本人には聴かせられない嫌味を幾つか言われ、憤慨しているけれど。この程度の嫌味くらい、自分が甘んじて受ければよいことだ、との諦観がみえる。そんなこと、彼に取っては大した問題でもなかったようだ。

 この結婚が、彼にどれほどの幸福をもたらしたことか!

 僕も読みながらニヤニヤしてしまったよ。アルビーのお父さんは、こんなにも彼のお母さんを愛して、慈しんでいたんだもの。
 そしてだからこそ、その後、彼らを襲った過酷な運命に、息を呑まずにはいられなかった。

 結婚後一年もしないうちに、アーノルドのお兄さんが亡くなった。その二人の息子も巻き込んだ、交通事故だった。そしてアーノルドがアイスバーグ家の爵位継承者に繰り上がる。こうなると、今まで彼のすることに無関心だった彼の実家が、手のひらを返して干渉してくるようになる。辛いのはアビゲイルだ。舅、姑の嫌味に耐え、それでも健気に尽くしている様子が、腹立たし気なアーノルドの筆致から如実に伝わってくる。

 この頃の彼女なんて、僕とそう年齢も変わらないというのに……。

 アーノルドは両親に忠実に生きてきた、大人しい性格の人だ。結婚に関しては、彼らの期待に沿えなかったことを申し訳なく思っている。けれど、後悔はしていない。彼はアビゲイルを何ものにも代えがたいほどに、愛している。だから、頻繁に家に訪れては妻に辛く当たる自分の両親と、それでも明るく精一杯に応えようとする健気なアビゲイルとの間に挟まれ、随分と心を痛めていた。


 と、ここまで、僕は昼食を取るのも忘れて読み進めてきた。昼食どころか、もうすでに夕方だ。
 五冊目の革表紙をパタンと閉じた時には、さすがに空腹を感じていた。ポットに作っておいた紅茶も、もう空だ。

 一区切りつけて、まずはお腹に何か入れよう。この空っぽの胃に、ぐずぐず悩むばかりのアーノルドの心理は痛すぎる。



 キッチンに入ると、マリーがお茶を淹れていた。僕を見て「あら、いたの?」と呟いた。機嫌が悪そうだな。マリーの方は、最終試験どうなんだろう? 訊いていいものかどうか、迷ってしまう。

「随分深刻な顔しちゃって、どうしたのよ?」
 言わなくても、当たり前に僕のカップにお茶を入れ、テーブルの上にコトリと置く。
「別に、本を読んでたんだよ。ありがとう」
 カップを持ち上げお礼言う。ほっとして、笑みがこぼれた。ぱっと見た瞬間の印象ほど、マリーは機嫌が悪い訳ではないらしい。

「試験、もう済んだの?」
「まだ。今は休憩よ。お腹空いちゃって。スコーンがあるかと思ったのに……」
 恨みがましく僕を見るマリー。犯人は僕じゃない。それとも、早く次を作れってこと?
「僕も何か食べようと思っていたところなんだ。サンドイッチでもいい?」
「卵とベーコン」
「OK。ちょっと時間がかかるよ。できたら部屋に持って行こうか?」
 ティーポットとカップをトレイに載せている彼女にそう訊ねた。ここで、のんびりとお茶を飲むつもりはないみたいだから。

「ありがとう、お願いね」
 マリーは艶やかに微笑んだ。


 マリーは、どこまでアルビーの両親のことを知っているのだろう? 彼女もあの日記を読んでいるのだろうか? 

 この家で、兄妹同様に育ってきたアルビーとマリー。
 壁に飾られた家族の写真。アルビーの作った幾つもの銀細工。テニスの試合で手に入れたマリーのトロフィー。
 彼らの歩んで来た歴史が、この家の至る所に刻まれている。


 彼女の誇らしげな口許に、そのことを強烈に意識した。

 この家の中で、僕だけが、そぐわない、奇妙な異物のような気がしていた。






しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

恋文より、先にレポートが届いた~監視対象と監視官、感情に名前をつけるまで

中岡 始
BL
政府による極秘監視プロジェクト──その対象は、元・天才ハッカーで現在は無職&生活能力ゼロの和泉義人(32歳・超絶美形)。 かつて国の防衛システムに“うっかり”侵入してしまった過去を持つ彼は、現在、監視付きの同居生活を送ることに。 監視官として派遣されたのは、真面目で融通のきかないエリート捜査官・大宮陸斗(28歳)。 だが任務初日から、冷蔵庫にタマゴはない、洗濯は丸一週間回されない、寝ながらコードを落書き…と、和泉のダメ人間っぷりが炸裂。 「この部屋の秩序、いつ崩壊したんですか」 「うまく立ち上げられんかっただけや、たぶん」 生活を“管理”するはずが、いつの間にか“世話”してるし… しかもレポートは、だんだん恋文っぽくなっていくし…? 冷静な大宮の表情が、気づけば少しずつ揺らぎはじめる。 そして和泉もまた、自分のために用意された朝ごはんや、一緒に過ごすことが当たり前になった日常…心の中のコードが、少しずつ書き換えられていく。 ──これは「監視」から始まった、ふたりの“生活の記録”。 堅物世話焼き×ツンデレ変人、心がじわじわ溶けていく、静かで可笑しな同居BL。

僕たち、結婚することになりました

リリーブルー
BL
俺は、なぜか知らないが、会社の後輩(♂)と結婚することになった! 後輩はモテモテな25歳。 俺は37歳。 笑えるBL。ラブコメディ💛 fujossyの結婚テーマコンテスト応募作です。

優しい檻に囚われて ―俺のことを好きすぎる彼らから逃げられません―

無玄々
BL
「俺たちから、逃げられると思う?」 卑屈な少年・織理は、三人の男から同時に告白されてしまう。 一人は必死で熱く重い男、一人は常に包んでくれる優しい先輩、一人は「嫌い」と言いながら離れない奇妙な奴。 選べない織理に押し付けられる彼らの恋情――それは優しくも逃げられない檻のようで。 本作は織理と三人の関係性を描いた短編集です。 愛か、束縛か――その境界線の上で揺れる、執着ハーレムBL。 ※この作品は『記憶を失うほどに【https://www.alphapolis.co.jp/novel/364672311/155993505】』のハーレムパロディです。本編未読でも雰囲気は伝わりますが、キャラクターの背景は本編を読むとさらに楽しめます。 ※本作は織理受けのハーレム形式です。 ※一部描写にてそれ以外のカプとも取れるような関係性・心理描写がありますが、明確なカップリング意図はありません。が、ご注意ください

ポメラニアン魔王

カム
BL
勇者に敗れた魔王様はポメラニアンになりました。 大学生と魔王様(ポメラニアン)のほのぼの生活がメインです。 のんびり更新。 視点や人称がバラバラでちょっと読みにくい部分もあるかもしれません。 表紙イラスト朔羽ゆき様よりいただきました。

はじまりの朝

さくら乃
BL
子どもの頃は仲が良かった幼なじみ。 ある出来事をきっかけに離れてしまう。 中学は別の学校へ、そして、高校で再会するが、あの頃の彼とはいろいろ違いすぎて……。 これから始まる恋物語の、それは、“はじまりの朝”。 ✳『番外編〜はじまりの裏側で』  『はじまりの朝』はナナ目線。しかし、その裏側では他キャラもいろいろ思っているはず。そんな彼ら目線のエピソード。

Take On Me

マン太
BL
 親父の借金を返済するため、ヤクザの若頭、岳(たける)の元でハウスキーパーとして働く事になった大和(やまと)。  初めは乗り気でなかったが、持ち前の前向きな性格により、次第に力を発揮していく。  岳とも次第に打ち解ける様になり…。    軽いノリのお話しを目指しています。  ※BLに分類していますが軽めです。  ※他サイトへも掲載しています。

隣人、イケメン俳優につき

タタミ
BL
イラストレーターの清永一太はある日、隣部屋の怒鳴り合いに気付く。清永が隣部屋を訪ねると、そこでは人気俳優の杉崎久遠が男に暴行されていて──?

処理中です...