霧のはし 虹のたもとで

萩尾雅縁

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Ⅳ 初夏の木漏れ日

181 白薔薇

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 玄関のドアを開けてくれたマリーは、アルビーを見上げてほっとしたように微笑んでいた。アルビーは片手で軽く彼女を抱き締めて、その頬に「ただいま」のキスをした。
 
 もう夜も更けていたけれど、居間でお土産のジンジャーブレッドを摘まみ、お茶を飲んだ。アルビーは車内サービスで食べていたけれど、僕はずっと寝ていたから少しお腹が空いていたのもある。

 マリーにはアーノルドの話はしなかった。観光客が多くて辟易したとか、そんな話だけ。マリーは、夏季休暇には皆で旅行に行くのもいいわね、と話している。北よりも南、海に行きたいって。
 二人のそんな取り留めもない会話を聞き流しながら、僕は飾り棚の人形アビゲイル・アスターをじっと眺めていた。それこそ、吸い寄せられるようにじっと。アルビーはそんな僕を気にしている。ちらちらと視線を向けて来る。でも、すぐにマリーに優しい微笑みを返している。きっと、今日だけは彼女を邪険にしたりしない。彼女が一人でどんな不安な夜を送っていたか、彼は知っているから。

 なんだかむず痒い。後もう少しで届きそうなのに、届かない。つま先立ちで空に手を伸ばしているような気分だった。必死に霞を集めて何かを形作っているみたいな、無意味で、だけど切羽詰まった焦りが胃の下の方で渦巻いているような、そんな変な感じが続いている。

 やっぱり、くたびれているのかな。いろんなことがあり過ぎて。

「車内であれだけ寝たのにまだ眠いよ。今日はもう寝るね」
 と、僕は二人に告げて先に休むことにした。
「うん。ゆっくり休んで。今夜は邪魔しないから」
「アル、ちょっとは慎みなさいよ! コウ、おやすみなさい」
 マリーは軽くアルビーを睨み、彼は僕の頬におやすみのキスをくれた。



 久しぶりの自室のベッドに潜り込んだ。自分のベッドなのにアルビーの匂いがする。彼がここに来ることはほとんどないのに。僕自身に彼の香りが移っているんだ。ずっともたれ掛かって眠っていたから。目を瞑ると、列車の心地良い振動が蘇る。黒くて長いトンネルの中にいるみたいだ。覚えている。これはお祖母ちゃんの家に行く時通るトンネルだ。オレンジ色のライトが点々と灯っている。この中を母の運転する車で走り抜けるんだ。

 白く輝く出口から飛び出ると、眼下にぶわっと蒼く輝くウインダミア湖が広がっていた。灰色の屋根の大きな建物が僕たちの泊まったホテル。緑の中に見える点々はきっと白い羊たち。どんどん上昇する。湖が瞬く間に小さくなっていく。
 ああ、本当だ。緑の起伏の中に幾つもの湖面がキラキラしている。宝石みたいに。向こうの湖がアーノルドの住んでいる地域だ。そこを目指して急降下した。緑の中の白を目指して。この白薔薇アイスバーグとげの少ない品種だから、大丈夫。


 白雪姫は、棘を備えておくべきだったんだ。誰からも傷つけられないように。あんなふうに凍り付いてしまう前に。

 僕は目の前の一輪を摘み取った。涙の雫のような露をのせた白薔薇アイスバーグを。そして両手で包んで大事に持ち帰った。僕の白薔薇アルビーを。




 目が覚めると、横にアルビーがいた。僕の部屋に来ていたのか、と一瞬思ったけれど違っていた。ここは彼の部屋だ。

「おはよう」
 訳が分からないまま彼を見つめていると、
「僕がきみを攫って来たんじゃないよ。きみが僕のベッドに潜り込んで来たんだからね」
 と、アルビーが笑いながら言った。
「寝ぼけていたんだ。覚えてないよ」
「いよいよきみは僕のクライエントだな」
「拘束して入院させる?」
「それもいいね。僕の部屋に閉じ込めて誰にも会わせない」
「きみの方が病気みたいだよ」
「きみにしか治せない病にかかったんだ」

 笑いながら彼は僕を抱き寄せた。「特効薬をもらわなきゃ」と、僕の唇を啄んだ。でも、すぐに僕の顔を胸に押し当てるように抱いて、残念そうに吐息を漏らした。

「もう行かなきゃ。コウはまだ寝ているといいよ。疲れてるだろ?」
「大学?」
「うん。今日も遅くなるかも」
「遅くてもいいから帰って来て。話があるんだ」

 とくん、と彼の心臓が跳ねたような気がした。

「いい話、それとも悪い話?」
「判らないよ。決めるのはきみだ」
「できるだけ早めに帰るようにする」

 もう一度僕を強く抱き締めてから、彼は起き上がった。
 朝ご飯を作らなきゃ、と思っていたのに、彼がシャワーを浴びている間に、僕はまた、うつらうつらと眠りに落ちてしまっていた。深く、深く、彼が出掛けたのも気づかないほどに……。

 

 

 

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