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10 ー夕食のお誘いー
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(明日で終わりかあ。)
振り返ってみればいつも、物事が過ぎていくのはあっという間だな、と感じずにはいられない。
この2週間の習慣になっていた、店のウインドウからの空模様チェックをしながら、依子は満足していた。
どんなにがんばっても、常に何か得体の知れない焦りがしつこく自分の中にあって、落ち着かないのが依子の性格である。
でも、今回は、滅多にないことだが、小規模ながらも異国での個展をまずはやり切った充実感と、何より、予想していたよりは売上があった、という数字が出ているので概ね満足なのであった。
ずっと独りぼっちだと思っていたここでの生活だが、たくさんのお客さんや、友人知人が訪ねてくれて、ありがたいなあ、自分は知らないうちにいっぱい助けてもらってるなあ、と感謝を新たにした、というのも充足感の理由のひとつである。
大きめの作品がいくつか売れてくれたので、ラッキー、とホクホクしている。
だからと言って、情けない話だが、二週間張り付いていた自分の人件費が出る、というわけではなく、赤字ではある。
だが少なくとも、ギャラリーレンタル代と交通費、ランチ代などの諸経費は相殺できそうだ。
週末が終わって、今日は月曜だから、お客さんは一番少ない日だろう。
楽に流していこう、と思う。とにかくあとは搬出を乗り切らないと。
一晩寝て疲れがとれていた30代までとはもう身体が全然違う。
妙に無理をすると、リカバリーにめちゃくちゃ時間がかかるので、最初から負荷をかけないよう気をつける。
(オトナになったもんだよ、私も)と自分を嘲りつつ、通りに面したウインドウから離れた。
ーーー
予想通り、月曜の今日はまったく客足がなかった。
興味を持ってくれた通行人が1組、フラッと立ち寄ってくれた程度。
土日で薄くなった物販コーナーの小物を補充したり、即売して空いてしまった壁面スペースに、新たな作品を掛けたり、やるべきことを早々に終わらしてしまうと、いつものように、持ち込んだ内職で時間を潰す。
暇すぎて眠気が襲ってくると、バックヤードに行ってスクワットやレッグランジなどに勤しむ。
せせこましいバックヤードには全身が映る鏡が立てかけてある。そこに映る筋トレ中の自分が滑稽で、思わず吹き出してしまった。
スクワットしながらも、客観的に自分を観察してみる。
ギャラリーに来る間は、一応まともな格好をしている。いいカッコしたいという色気はとうに捨てていて、というか、昔からあまりなくて、清潔感があれば充分だと思っている。訪れた人に良い印象を与えるためである。
こんな自分を見てもらいたい、というより、個展の展示というか空間演出の一環という位置付けだ。
展示に興味を持ってもらい、あわよくば買ってもらいたいわけで、「いかにもこういう作品を作っているアーティスト」という演出だ。
150センチしかないわりに、肉付きがいいので、せめて作品がより良く見えるように、今日はモノトーンでまとめている。
黒と灰色の大きなチェック柄ベストに、白いワイシャツ、黒のロングプリーツスカート、黒のブーツ。
つまり、コム◯◯モードのマネキンさんが着ていたやつをずいぶん前にそっくりそのままセットで買ってきただけ。モノはいいので一張羅である。
営業用の一張羅はもう1セットある。ユニ◯ロセットだ。これもマネキンさんのセットをそっくりそのまま買った。
この2セットを組み合わせを変えながら永遠に着回して、この2週間は乗り切っていた。
自分の描きたいもの、作りたいものは、いくらでも湧いて来るのだが、自分に似合うファッションになると、とんと意欲が沸かない。
素敵なものを見るのは好きなのだが、自分がみっともない姿形なのを自覚しているので、自らを着飾りたいという欲求が全然わかない。
諦めて見ないふりをしている、とも言う。
髪はここ数年はショートボブにしていたが、ハンガリーに来てからというものなかなか良い美容室を見つけられず、ずいぶん伸びて今はひっつめにしていた。
せめてもの自己主張として、自分の作品である、鮮やかな紫のタッセルのついた大ぶりのイヤリングをつけてみた。
イベント中は必ず一点は自分の作った商品を身につけて、会話のネタにするようにしている。
ものづくりをする人間は2種類に分けられる、と思っている。
「良いモノ」にこだわっているから必然的に身の回りも生活も、良いモノで固めようとする丁寧な暮らし系。
それから、作ることに完全にセンサーが一極集中していて、作ること以外はどうでもいい系。
依子は明らかに後者だ。自宅で引きこもっている間は正直乞食みたいな格好をしている。
不潔なのは嫌いなので、清潔にして、心地よい香りのするお香やハーブなどを焚く。それで充分。
でも、ささやかな幸せを売る仕事、と自らの創作を位置付けている依子としては、生活スタイルもアートでなきゃな、と常々思ってはいるのだが、どうにもこうにも、衣食住にそれほど執着がもてない。
これは多分、親の教育が行き届いているせいだろう。
父方の本家は禅宗のお寺の家系だ。ボロを着てても心は錦、というやつである。
清貧こそ美徳、と良い方に自分を弁護して、20分ほどの筋トレを終えた。
ーーー
気づけば閉店まであと30分を切っている。
(お腹空いたなー。何食べよう。)と早くも帰り支度の気分になっていると、ギャラリーの扉が同じみの軋み音を立てた。
大抵、早く帰りたい時に限って駆け込みでお客様が来るのは、よくあることだ。
「いらっしゃいませ」と意識的に口角を上げて出迎える。
「こんばんは。」
あの男性だった。
「また来ちゃいました。」
「まあ、ありがとうございます! お仕事終わりですか?お忙しいんじゃありません?」
「今日は定時で上がって速攻来るつもりだったんですが、間際に打合せが入っちゃって、こんなギリギリになってしまいました。」
「うれしいです。どうぞどうぞ、ゆっくりしていってくださいね。」
「もうすぐ閉店ですよね? かえってすみません。」
「全然全然! どちらにしろオーナーが帰って来ないと閉められないのでいいんですよ。わりとテキトーな人なので。」
依子はまた、男性が気遣いなく見られるように、カウンターの奥に引っ込んだ。
ただ、今日は2回目の来訪なので幾分気安く、男性の様子を見守って、すぐ問いかけに答えられるようにする。
男性の方も少し慣れたのか、ぽつぽつと質問を挟みながら見ている。
「前回から展示内容変わりました? これは前には見なかった気がします。」
「そうなんですよ。二週間あるので、途中で少し入れ替えているんです。売れて隙間が空いてしまった所もあるので。」
ひとしきり見回ったタイミングを見計らって、依子が声をかける。
「もしお急ぎでなかったら、お茶一杯いかがですか?」
「ええと、、、いいんですか?」
男性は戸惑った様子で小首をかしげる。
「どうぞどうぞ。混んでいない時は、いらしたお客様にここで一服していただくんです。小さいギャラリーだから、そそくさと見て出て行かなきゃ、ってお気遣いいただくのが申し訳なくて。」
好きなだけ滞在していただいていいんですよ、と言いながら、小さな丸テーブルと2脚の椅子のある一角へ、男性を促した。
「緑茶とアールグレイとコーヒーがあるんですけど、どれがいいですか?」
「、、じゃあ、緑茶で。」
依子がバックヤードに引っ込み準備をしている間も、男性は立ち上がって作品を見てくれているようだった。
「お待たせしました。」
テーブルに、茶托とその上に微かな湯気を立てる茶碗、その隣には、懐紙に乗せた一口大の小さな桜の形の練り切りの皿を置く。
「いただきます。」
男性はそう言ってお茶を一口すすると、少し驚いたように続ける。
「和菓子なんて久しぶりに見ました。」
「『さくら』の手作り和菓子です。昨日テイクアウトしてきたんです。よかったらどうぞ。」
男性はうれしそうに一口で頬張った。
「甘いものお好きですか? 良かったら持って帰られません? まだ残っているんですけれど、あまり日持ちしないから今日明日中に食べないといけなくて。」
「それは。。。ありがとうございます。じゃあ遠慮なく。」
依子は忘れないうちに、と残っていた和菓子を、入っていた箱のまま封をして、紙袋に入れテーブルまで持ってきた。
ついでに自分のマグカップも片手に。
どうぞ、と言ってテーブルの上で紙袋を男性の方へ滑らせながら、自分も向かいの椅子に座る。
依子は一口お茶をすすって、当たり障りのない話題を出す。
「いかがですか。ブダペストは。けっこう寒いでしょ。
日本から転勤していらしたんですか?」
ゆっくり男性が答える。
「いや、カナダのバンクーバーから来ました。
確かに。思ってたより寒くてびっくりしてます。
基本的には在宅ワークなんであんまり支障はないですよ。」
「観光とかはあまりされないですか?」
「まあ、そうですね。今はまだ。」
「気候が良くなったら、少しは出かけやすくなるかもですね。ベタですけど、漁夫の砦からの眺めはオススメですよ。」
依子もテンポを合わせるように、ポツポツと話す。
「私も人のこと言えなくて、一回仕事始めると本当に出不精になっちゃうんですけど、身体が凝っちゃうので運動の代わりに上まで歩くんです。」
ーーー
時折りポツポツと会話を挟みながら、ちょっと遅めのお茶会の、静かな時間が流れていく。
お日様が出ているとね、ドナウにキラキラ反射して、それがこの鈍色のブダペストの空に映えて、きれいですよ。少しアンニュイで。
そうポツリと呟いた女性の横顔は、落ち着いた余裕のある大人の女性に見える一方で、少しばかりの陰があった。
(そりゃまあ、そうか。女性が1人でこんな外国で頑張っているには何か、そうさせる理由というか、いろんな過去もあるんだろう) 譲治は思った。
一所懸命話さなきゃいけない、という状況がひどく苦手な譲治にとって、やはり珍しい現象だ、と自らを俯瞰する。
やっぱり前に感じたように、この女性の前だと、自分をあまりがんばらせない安心感がある。ポツポツとまばらな会話や、その間に挟まれる沈黙が許される安心感。
マイペースで話すことができる安心感に誘われて、柄にもなく他者に対して関心が沸くと同時に、もう少し干渉してみようか、という気になった。
コミュ障の自分には非常に珍しい。
そんな自分に驚きつつ好奇心が抑えられない。
この女性が、どうしてこの国で、こんなふうに生きることになったのか、知りたい、と譲治は思った。
紆余曲折の末、海外就労に至った自分としては、他の人はどうなんだろうと、比べてみたくなった。自分の人生ではおよそ縁のないアートの世界で生きるとはどういうことなのか、純粋に興味がわいた。
お互い、賑やかに会話するでもなく、お茶を飲みながら物思いに耽っていると、ギイバタン!ドタドタと賑やかに大柄な男性が入ってきた。
「Ciao!! 戻ったよ~! 閉めよう閉めよう!」
そう言ってから譲治の存在に気づき、慌てて挨拶をくれる。
「おっと、失礼。いらっしゃいませ! 楽しまれました?」
大男との会話は英語。
ずいぶん訛りがあるようだった。
グイグイっと、前のめりに握手を求めながら言う大男を、向いの女性が紹介してくれた。
「オーナーのマルコさんです。」
2人の反応も待たずに、マルコはそそくさと表のシャッターを閉めに行った。
突然の突風襲来で呆気に取られたように、2人は顔を見合わせて思わず笑った。
「ごめんなさいね。騒がしくて。彼イタリア出身なんですよ。」
それで説明がつくというふうに、譲治もなるほどとうなずく。
慌てて帰り支度をしてあたふたとしているうちに、裏口から2人は放り出された。
じゃ、また明日ね~、と一緒に裏口から出たマルコは、挙げた手をヒラヒラさせて急ぎ足で裏通を歩いて行ってしまった。
「ええと、帰りはトラムですか?地下鉄?」依子が聞く。
「トラムです。9区方面なので。」
「あら、9区にお住まいですか? 私もなんですよ。 それじゃとりあえず駅までご一緒しましょうか。」
3月中旬とは言え、夜はまだ氷点下まで冷える。
凍てついた空気の中、白い息を吐きながら、2人は肩を並べて歩き出した。
「9区だと、この時間の一人歩きは危なくないですか?」
譲治は心配になった。
「うーん。そうですね。本当は私も夜間1人で歩きたくはないんですけど、仕事なんでね。9区ならギリギリ大丈夫かな、と。アパートと駅はすぐ近くですし、めっちゃ急いで行動します。まずはアパート代が安いから。」
駅に着いた所で、それまでしばらく無言だった女性が俯きながら言った。
「あの。。ご迷惑だったら申し訳ないんですけど。。お腹空いてません?」
次に顔を上げて譲治を真っ直ぐ見ながら続ける。
「さっき、最寄り駅うかがって思いついたんですけど、その近くにベジタリアン料理のお店があるんですよ。
今日はどちらにしろどっかで夕飯食べて帰ろうかと思ってたので、良かったらご一緒しませんか?」
袖すり合うも多少の縁、と言いますし、と言って、にこ、と微笑んだ。
きっとすごく気を回して思い切って言ってくれたのだろう、と譲治にはなんとなくわかったし、もう少し情報交換という名のおしゃべりもしたかったから、ありがたく誘いに乗った。
「ベジタリアンですか? 面白そうですね。」
譲治も頑張ってにっこりして返事をした。
振り返ってみればいつも、物事が過ぎていくのはあっという間だな、と感じずにはいられない。
この2週間の習慣になっていた、店のウインドウからの空模様チェックをしながら、依子は満足していた。
どんなにがんばっても、常に何か得体の知れない焦りがしつこく自分の中にあって、落ち着かないのが依子の性格である。
でも、今回は、滅多にないことだが、小規模ながらも異国での個展をまずはやり切った充実感と、何より、予想していたよりは売上があった、という数字が出ているので概ね満足なのであった。
ずっと独りぼっちだと思っていたここでの生活だが、たくさんのお客さんや、友人知人が訪ねてくれて、ありがたいなあ、自分は知らないうちにいっぱい助けてもらってるなあ、と感謝を新たにした、というのも充足感の理由のひとつである。
大きめの作品がいくつか売れてくれたので、ラッキー、とホクホクしている。
だからと言って、情けない話だが、二週間張り付いていた自分の人件費が出る、というわけではなく、赤字ではある。
だが少なくとも、ギャラリーレンタル代と交通費、ランチ代などの諸経費は相殺できそうだ。
週末が終わって、今日は月曜だから、お客さんは一番少ない日だろう。
楽に流していこう、と思う。とにかくあとは搬出を乗り切らないと。
一晩寝て疲れがとれていた30代までとはもう身体が全然違う。
妙に無理をすると、リカバリーにめちゃくちゃ時間がかかるので、最初から負荷をかけないよう気をつける。
(オトナになったもんだよ、私も)と自分を嘲りつつ、通りに面したウインドウから離れた。
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予想通り、月曜の今日はまったく客足がなかった。
興味を持ってくれた通行人が1組、フラッと立ち寄ってくれた程度。
土日で薄くなった物販コーナーの小物を補充したり、即売して空いてしまった壁面スペースに、新たな作品を掛けたり、やるべきことを早々に終わらしてしまうと、いつものように、持ち込んだ内職で時間を潰す。
暇すぎて眠気が襲ってくると、バックヤードに行ってスクワットやレッグランジなどに勤しむ。
せせこましいバックヤードには全身が映る鏡が立てかけてある。そこに映る筋トレ中の自分が滑稽で、思わず吹き出してしまった。
スクワットしながらも、客観的に自分を観察してみる。
ギャラリーに来る間は、一応まともな格好をしている。いいカッコしたいという色気はとうに捨てていて、というか、昔からあまりなくて、清潔感があれば充分だと思っている。訪れた人に良い印象を与えるためである。
こんな自分を見てもらいたい、というより、個展の展示というか空間演出の一環という位置付けだ。
展示に興味を持ってもらい、あわよくば買ってもらいたいわけで、「いかにもこういう作品を作っているアーティスト」という演出だ。
150センチしかないわりに、肉付きがいいので、せめて作品がより良く見えるように、今日はモノトーンでまとめている。
黒と灰色の大きなチェック柄ベストに、白いワイシャツ、黒のロングプリーツスカート、黒のブーツ。
つまり、コム◯◯モードのマネキンさんが着ていたやつをずいぶん前にそっくりそのままセットで買ってきただけ。モノはいいので一張羅である。
営業用の一張羅はもう1セットある。ユニ◯ロセットだ。これもマネキンさんのセットをそっくりそのまま買った。
この2セットを組み合わせを変えながら永遠に着回して、この2週間は乗り切っていた。
自分の描きたいもの、作りたいものは、いくらでも湧いて来るのだが、自分に似合うファッションになると、とんと意欲が沸かない。
素敵なものを見るのは好きなのだが、自分がみっともない姿形なのを自覚しているので、自らを着飾りたいという欲求が全然わかない。
諦めて見ないふりをしている、とも言う。
髪はここ数年はショートボブにしていたが、ハンガリーに来てからというものなかなか良い美容室を見つけられず、ずいぶん伸びて今はひっつめにしていた。
せめてもの自己主張として、自分の作品である、鮮やかな紫のタッセルのついた大ぶりのイヤリングをつけてみた。
イベント中は必ず一点は自分の作った商品を身につけて、会話のネタにするようにしている。
ものづくりをする人間は2種類に分けられる、と思っている。
「良いモノ」にこだわっているから必然的に身の回りも生活も、良いモノで固めようとする丁寧な暮らし系。
それから、作ることに完全にセンサーが一極集中していて、作ること以外はどうでもいい系。
依子は明らかに後者だ。自宅で引きこもっている間は正直乞食みたいな格好をしている。
不潔なのは嫌いなので、清潔にして、心地よい香りのするお香やハーブなどを焚く。それで充分。
でも、ささやかな幸せを売る仕事、と自らの創作を位置付けている依子としては、生活スタイルもアートでなきゃな、と常々思ってはいるのだが、どうにもこうにも、衣食住にそれほど執着がもてない。
これは多分、親の教育が行き届いているせいだろう。
父方の本家は禅宗のお寺の家系だ。ボロを着てても心は錦、というやつである。
清貧こそ美徳、と良い方に自分を弁護して、20分ほどの筋トレを終えた。
ーーー
気づけば閉店まであと30分を切っている。
(お腹空いたなー。何食べよう。)と早くも帰り支度の気分になっていると、ギャラリーの扉が同じみの軋み音を立てた。
大抵、早く帰りたい時に限って駆け込みでお客様が来るのは、よくあることだ。
「いらっしゃいませ」と意識的に口角を上げて出迎える。
「こんばんは。」
あの男性だった。
「また来ちゃいました。」
「まあ、ありがとうございます! お仕事終わりですか?お忙しいんじゃありません?」
「今日は定時で上がって速攻来るつもりだったんですが、間際に打合せが入っちゃって、こんなギリギリになってしまいました。」
「うれしいです。どうぞどうぞ、ゆっくりしていってくださいね。」
「もうすぐ閉店ですよね? かえってすみません。」
「全然全然! どちらにしろオーナーが帰って来ないと閉められないのでいいんですよ。わりとテキトーな人なので。」
依子はまた、男性が気遣いなく見られるように、カウンターの奥に引っ込んだ。
ただ、今日は2回目の来訪なので幾分気安く、男性の様子を見守って、すぐ問いかけに答えられるようにする。
男性の方も少し慣れたのか、ぽつぽつと質問を挟みながら見ている。
「前回から展示内容変わりました? これは前には見なかった気がします。」
「そうなんですよ。二週間あるので、途中で少し入れ替えているんです。売れて隙間が空いてしまった所もあるので。」
ひとしきり見回ったタイミングを見計らって、依子が声をかける。
「もしお急ぎでなかったら、お茶一杯いかがですか?」
「ええと、、、いいんですか?」
男性は戸惑った様子で小首をかしげる。
「どうぞどうぞ。混んでいない時は、いらしたお客様にここで一服していただくんです。小さいギャラリーだから、そそくさと見て出て行かなきゃ、ってお気遣いいただくのが申し訳なくて。」
好きなだけ滞在していただいていいんですよ、と言いながら、小さな丸テーブルと2脚の椅子のある一角へ、男性を促した。
「緑茶とアールグレイとコーヒーがあるんですけど、どれがいいですか?」
「、、じゃあ、緑茶で。」
依子がバックヤードに引っ込み準備をしている間も、男性は立ち上がって作品を見てくれているようだった。
「お待たせしました。」
テーブルに、茶托とその上に微かな湯気を立てる茶碗、その隣には、懐紙に乗せた一口大の小さな桜の形の練り切りの皿を置く。
「いただきます。」
男性はそう言ってお茶を一口すすると、少し驚いたように続ける。
「和菓子なんて久しぶりに見ました。」
「『さくら』の手作り和菓子です。昨日テイクアウトしてきたんです。よかったらどうぞ。」
男性はうれしそうに一口で頬張った。
「甘いものお好きですか? 良かったら持って帰られません? まだ残っているんですけれど、あまり日持ちしないから今日明日中に食べないといけなくて。」
「それは。。。ありがとうございます。じゃあ遠慮なく。」
依子は忘れないうちに、と残っていた和菓子を、入っていた箱のまま封をして、紙袋に入れテーブルまで持ってきた。
ついでに自分のマグカップも片手に。
どうぞ、と言ってテーブルの上で紙袋を男性の方へ滑らせながら、自分も向かいの椅子に座る。
依子は一口お茶をすすって、当たり障りのない話題を出す。
「いかがですか。ブダペストは。けっこう寒いでしょ。
日本から転勤していらしたんですか?」
ゆっくり男性が答える。
「いや、カナダのバンクーバーから来ました。
確かに。思ってたより寒くてびっくりしてます。
基本的には在宅ワークなんであんまり支障はないですよ。」
「観光とかはあまりされないですか?」
「まあ、そうですね。今はまだ。」
「気候が良くなったら、少しは出かけやすくなるかもですね。ベタですけど、漁夫の砦からの眺めはオススメですよ。」
依子もテンポを合わせるように、ポツポツと話す。
「私も人のこと言えなくて、一回仕事始めると本当に出不精になっちゃうんですけど、身体が凝っちゃうので運動の代わりに上まで歩くんです。」
ーーー
時折りポツポツと会話を挟みながら、ちょっと遅めのお茶会の、静かな時間が流れていく。
お日様が出ているとね、ドナウにキラキラ反射して、それがこの鈍色のブダペストの空に映えて、きれいですよ。少しアンニュイで。
そうポツリと呟いた女性の横顔は、落ち着いた余裕のある大人の女性に見える一方で、少しばかりの陰があった。
(そりゃまあ、そうか。女性が1人でこんな外国で頑張っているには何か、そうさせる理由というか、いろんな過去もあるんだろう) 譲治は思った。
一所懸命話さなきゃいけない、という状況がひどく苦手な譲治にとって、やはり珍しい現象だ、と自らを俯瞰する。
やっぱり前に感じたように、この女性の前だと、自分をあまりがんばらせない安心感がある。ポツポツとまばらな会話や、その間に挟まれる沈黙が許される安心感。
マイペースで話すことができる安心感に誘われて、柄にもなく他者に対して関心が沸くと同時に、もう少し干渉してみようか、という気になった。
コミュ障の自分には非常に珍しい。
そんな自分に驚きつつ好奇心が抑えられない。
この女性が、どうしてこの国で、こんなふうに生きることになったのか、知りたい、と譲治は思った。
紆余曲折の末、海外就労に至った自分としては、他の人はどうなんだろうと、比べてみたくなった。自分の人生ではおよそ縁のないアートの世界で生きるとはどういうことなのか、純粋に興味がわいた。
お互い、賑やかに会話するでもなく、お茶を飲みながら物思いに耽っていると、ギイバタン!ドタドタと賑やかに大柄な男性が入ってきた。
「Ciao!! 戻ったよ~! 閉めよう閉めよう!」
そう言ってから譲治の存在に気づき、慌てて挨拶をくれる。
「おっと、失礼。いらっしゃいませ! 楽しまれました?」
大男との会話は英語。
ずいぶん訛りがあるようだった。
グイグイっと、前のめりに握手を求めながら言う大男を、向いの女性が紹介してくれた。
「オーナーのマルコさんです。」
2人の反応も待たずに、マルコはそそくさと表のシャッターを閉めに行った。
突然の突風襲来で呆気に取られたように、2人は顔を見合わせて思わず笑った。
「ごめんなさいね。騒がしくて。彼イタリア出身なんですよ。」
それで説明がつくというふうに、譲治もなるほどとうなずく。
慌てて帰り支度をしてあたふたとしているうちに、裏口から2人は放り出された。
じゃ、また明日ね~、と一緒に裏口から出たマルコは、挙げた手をヒラヒラさせて急ぎ足で裏通を歩いて行ってしまった。
「ええと、帰りはトラムですか?地下鉄?」依子が聞く。
「トラムです。9区方面なので。」
「あら、9区にお住まいですか? 私もなんですよ。 それじゃとりあえず駅までご一緒しましょうか。」
3月中旬とは言え、夜はまだ氷点下まで冷える。
凍てついた空気の中、白い息を吐きながら、2人は肩を並べて歩き出した。
「9区だと、この時間の一人歩きは危なくないですか?」
譲治は心配になった。
「うーん。そうですね。本当は私も夜間1人で歩きたくはないんですけど、仕事なんでね。9区ならギリギリ大丈夫かな、と。アパートと駅はすぐ近くですし、めっちゃ急いで行動します。まずはアパート代が安いから。」
駅に着いた所で、それまでしばらく無言だった女性が俯きながら言った。
「あの。。ご迷惑だったら申し訳ないんですけど。。お腹空いてません?」
次に顔を上げて譲治を真っ直ぐ見ながら続ける。
「さっき、最寄り駅うかがって思いついたんですけど、その近くにベジタリアン料理のお店があるんですよ。
今日はどちらにしろどっかで夕飯食べて帰ろうかと思ってたので、良かったらご一緒しませんか?」
袖すり合うも多少の縁、と言いますし、と言って、にこ、と微笑んだ。
きっとすごく気を回して思い切って言ってくれたのだろう、と譲治にはなんとなくわかったし、もう少し情報交換という名のおしゃべりもしたかったから、ありがたく誘いに乗った。
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さらにおじさんは、私の気持ちを知って遠ざける。
だから私は、私に好意を持ってくれている宗正さんと偽装恋愛することにした。
……おじさんに、前と同じように笑いかけてほしくて。
羽坂詩乃
24歳、派遣社員
地味で堅実
真面目
一生懸命で応援してあげたくなる感じ
×
池松和佳
38歳、アパレル総合商社レディースファッション部係長
気配り上手でLF部の良心
怒ると怖い
黒ラブ系眼鏡男子
ただし、既婚
×
宗正大河
28歳、アパレル総合商社LF部主任
可愛いのは実は計算?
でももしかして根は真面目?
ミニチュアダックス系男子
選ぶのはもちろん大河?
それとも禁断の恋に手を出すの……?
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表紙
巴世里様
Twitter@parsley0129
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