鈍色の空と四十肩

いろは

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35 ー茜空の夕方ー

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 秋もすっかり後半に入り、北国ではいつ木枯らし1号が吹いてもおかしくない季節になった。

 譲治は相変わらず在宅ワークで、各種手配の仕事をしている。
 あれからバイヤーのアテンドなど、大したことは起きていなかったが、6月に案内した石井夫妻の娘の智子はすっかりハンガリーが気に入って、再度訪れたらしい。
 元々語学は堪能だから、バイヤーとして各所を飛び回って色々買付けていったそうな。
 譲治の会社の仕事も役に立てたなら、けっこうなことだ。
 おかげで、石井夫妻の店とは契約がまとまり、定期的に品物を用立てる手配がついている。

 上司も一度、カナダからハンガリーへ出張で来て、譲治は簡単な観光案内をした。
 商社向けのコンベンションがあったので、それが目的だ。
 譲治を伴ってパーティーに参加し、営業してきた。
 と言ってもトークは上司に任せて、譲治は顔見せ挨拶と飲食専門である。

 9月に、依子の旅に乱入する形で遅めの夏休みを取った時に、釣りの楽しさを思い出したので、近所でできないかと散歩しながら調べてみた。
 依子の言っていたように、ドナウ川の護岸でやれそうだ。
 通販で安い中古の釣竿を買って、プラプラと川沿いを歩き、良さそうなポイントを見つけた。

 水質は微妙で、見た感じ魚影も見えない。
 ただ、釣り果を得るため、というより精神統一するため、というかボーッとするためなので、構わない。
 釣れたらまた放してしまうし。

 2度ほど訪れたが、2度とも同じおじさんが、同じ場所で釣っていた。
 釣れている様子はないが。特に言葉を交わすでもなく、ただひたすら糸を垂れる。
 今までこういう釣りで、楽しい楽しくない、とか考えることもなく、それなりに満足していた。

 だが、満足できていたはずのこの趣味も、今はどうも何かが足りない気がした。この前はなんだか満ち足りて久しぶりに幸せだったのに。
 何が違うんだろう。

 ああ、そうか。
 依子さんがいないんだ。

 バラトン湖の釣りの間、ずっと彼女が隣に座っていたわけではない。
 彼女は彼女なりにぷらぷらと遊びに行っていた。
 でも、必ず自分の所に戻ってくるのがわかっていたし、何見に行ったのかなと想像するのも、帰ってきた彼女を迎えるのも、楽しかった。
 離れていた時間に何をしていたのか、再会した時に報告し合える相手がいるのがうれしかった。
 なんだろう、これ。
 こんな風に思うこと、今まであっただろうか。

 ヴェスプレームの丘の上で、依子の寂しそうな顔を見て、思わず口に出しそうになった言葉についても考えてみる。僕ではだめですか、と。
 あれ以来、心にひっかかっている。

 自分はひとりで人生を楽しめる、ひとりでも全然平気な人間だと思っていた。
 いや、別にいつでもひとりで生きてはいけるのだ。ただ、何かが欠けているように感じるだけで。
 依子さんがそばにいる時間はとても自然で、いないと何か不自然で物足りないと感じるようになってしまったみたいだ。

 夏休み以降、結局会っていない。
 元気にしてるだろうか。
 そう考えると急に心配になってきた。また無理してるんじゃないか。
 ちょっと連絡してみよう。そう思った。

ーーー
 

 いつもなら、譲治のLINEにはワンツーですぐに返事が来るのだが、既読もつかない。
 忙しいのかと思いしばらく待ってみたが、今日はアルバイトのある土曜日だと気づいた。
 久しぶりに『さくら』に行ってみるか。
 どうも、いつも依子に会うために行っているようで、その動機の不純さに我ながら呆れたが、気にしないことにした。
 店の利益にはなるし。

 夕方、店の前に来ると、何やらいつもと様子が違って、前に停められた乗用車のトランクが開き、店の間で人がバタバタしている。
 知らない人かと思ったら、斉藤だった。
 おしゃれに関心のない譲治にもさすがにわかるくらい上等のスーツと、その上にコートを羽織り、きっちりマフラーも巻いている。
 斉藤の年齢にぴったり寄り添う完璧にかっこ良いいでたちだった。

 店の中から、何やら荷物を持ってきてはトランクに運んでいる。
「こんばんは。お手伝いしましょうか?」
 譲治は声をかけた。
「おう!田中君!久しぶり。店に来てくれたの?」
 斉藤が気づいた。
「ごめんね~、今日臨時休業でさ。」

 その時、店から、籠と紙袋を抱えた和服の女性が出てきた。
 一瞬気づくのが遅れたが、依子だった。
「わあ、田中さん!びっくりした。」
 いつもの笑顔の依子だった。

 持ちますよ、と言ってすぐ依子の荷物を受け取る。
「僕もびっくりしました。何かイベントですか?」
 譲治は依子の珍しい姿に気を取られて上の空で聞いた。

 依子は、クリーム色の地にパステルカラーの大きめの花模様が散った着物を着ている。
 それに金糸の入った帯、暗めの紅い襟と帯揚げ、同じ色合いの椿の髪飾り、黒い羽織。
 いつもは薄化粧で気付きもしなかったが、真っ赤な口紅を差している。

 いつも年齢不詳な不思議な姉さん、という雰囲気だった依子は、今は年相応に臈たけた空気を纏っていた。
「すみません。ありがとうございます。あ、それ後部座席で。」
 譲治は荷物を積んでやる。
「今日は商工会のパーティーなんですよ。
 これから大和撫子を装いながらがんばって営業しなきゃいけないの。」
 そう言って、依子も手荷物を車に積んでいる。

 深く抜いた衣紋から見える白いうなじと、髪に挿した紅い椿の対比にどきりとした。
「せっかく来てくれたのに、悪いねえ。
 愛ちゃんも先に行ってて、お料理担当頼んじゃってるから店開けらんないのよ。」
 斉藤も隣に来る。

 あ、これお詫びに、と言って斉藤は、さっき積んだ籠から小さくラッピングされたお菓子らしきものを取って、譲治の手に押し付けた。
「ばたばたしちゃってごめんなさい。また来てくださいね。」
 そう言って依子は助手席に回る。
 斉藤がすかさずドアを開けた。
 斉藤が甲斐甲斐しく依子の手を支えるのを見ていると、譲治は喉の奥がズキリとした。
 ドアを閉め、そんじゃね~、と言って斉藤も手を振って運転して行ってしまった。

 今日は曇りがちだったので、暗い灰色の雲が多い。
 その隙間から茜色に染まった空が見えている。

 さっき見た、依子の紅い襟と、お揃いの紅い椿、それから紅い唇。
 夕闇の薄暗がりを背景に、それらの紅が、いつまでも譲治の脳裏にチラついてしばらく忘れられそうになかった。
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