鈍色の空と四十肩

いろは

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41 ー教会にてー

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 楽しかったクリスマスの祝祭が過ぎると、また淡々とした日常が戻ってくる。
 学校や官公庁はクリスマス休暇に入っているだろうが、一般のサービス業は、大晦日、元日以外はまあまあ通常モードだ。
 
 依子もいつも通り在宅ワークをし、バイトをして過ごす。
 先日の出勤で『さくら』の方も簡単に掃除をして、御用納をしてきた。
 愛が入籍手続きをした、というので、パーリンカで乾杯した。

 依子にとって、ハンガリーで迎える大晦日も2回目になった。
 今年も教会に行って静かに年越しをしようかな、と思っている。

 1人になってから、クリスマスはどう過ごしていたかあまり覚えていない。
 日本にいた時はバイトに精を出していた。
 実家の両親と何回かは一緒に過ごしたんだったかな。
 大晦日は、ラジオで紅白とゆく年くる年を聞きながら、いつもの安い箱ワインを飲みつつ新年一作目になる絵の下描きをしていた。
 いつもなら飲みながら一番大事な下描きなんてしないのだが、ある種の景気付けとひとりの寂しさを紛らわすためである。
 それはそれで、充実した静かな時間だった。

 ハンガリーに来て、紅白も聞けないことはないのだが、せっかくだからと思って、近所の小さな教会に来て、気持ちを静かに、自分を取り巻くいろんなものに感謝して過ごすことにしている。
 大晦日なら、深夜の街区にも人気があり、そんなに物騒な感じはない。

 今日も家で仕事をして、夜10時。
 新年が明けるまでゆっくり過ごせる。
 教会までは歩いて5分くらいだ。
 厚着をして玄関を出る。
 外は零下で、鼻の中までパリパリするくらいだ。
 積もってはいないが細かい雪がちらついていて、街灯の下で光に反射してキラキラしている。
 時折、遠くの方で花火や爆竹、若者の騒ぐ声が聞こえる。

 寒いので足早に歩き始めると、ポケットに突っ込んできたスマホがブルっと震えた。
「こんばんは。大晦日いかがお過ごしですか。」
 譲治からだ。
「もしおひとりでしたら、一緒にそばでも食べませんか。」
 譲治はだいぶ打ち解けてからというもの、依子がひとりで寂しそうにしているのを、気にしてくれているらしい。
 ありがたいが、申し訳ないな、と思っている。
 今まで甘え過ぎたかもしれない。
 もっと元気でいるところを見せなきゃ。

「相変わらずおひとりですよ~。
 今から近所の教会に行って静かに過ごそうかな、と思っていました。
 ウチでおそば食べながら年越ししますか?」
 依子は返信する。
 じゃ、今から行きます、と言うので、教会の場所を教えて落ち合うことにした。

 依子が気に入っているこの教会は、街中のビルに挟まれて少し窮屈そうにひっそり佇んでいる。
 カトリック教会で、小さいながらもゴシック様式の小さな尖塔が立っている。
 石造りの壁には繊細な彫刻が施され、特別な銘板などは見当たらないが、由緒ある教会なんじゃないか、と思わせる歴史を感じる。
 内部の信徒席も左右に10列ほどだが、年季の入ったツヤの美しいベンチだ。
 きっと古くから近在の信徒のために、祈りの場所を開放してきたのだろう、というあたたかさがある。
 
 今日は大晦日と新年の祈りのために、一晩中開放されていた。
 入りたい人がいつでも入ることができる。
 祭壇にはたくさんのロウソクがオレンジ色の灯を放っていた。
 信徒席には他に、最前列に1組の老夫婦が座っているだけだ。
 彼らは祈りを捧げつつ、たまにポツポツとおしゃべりをしている。

 依子も最後列の席に座り、手を組んで祈る。
 今年一年への感謝と、新たな年への豊富と。
 神様、どうか見守ってください、と。
 持ってきていた小さなポケット聖書の1ページを開いて、心の中で詠んだ。

 しばらくすると、背後の扉がそっと開く音がした。
 振り向くと譲治が顔をのぞかせている。手招きして中に呼んだ。
 譲治は被っていたコートのフードを取ったが、全身雪まみれだ。
 依子は席の後ろに回って、軽く雪を払うのを手伝って、2人で信徒席に戻った。
 隣に座った譲治の身体からは、ひんやりとした氷点下の外気がまだ漂ってくるようだ。

「大丈夫?寒かったでしょ? 風邪ひかないかしら。」
 依子は心配そうだ。
「まあ、大丈夫でしょ。早足で来たのであったまってます。」
 譲治は軽く息が上がっているようだ。
「うえ、バスかトラムでなくて? かえって申し訳なかったですね。」
「いいんですよ。トラム捕まえるより歩いたほうが手っ取り早かったです。
 街の大晦日の様子も見られたし。」
「あ、そうか、田中さんは初めてハンガリーで年越しするんですもんね。」
「お邪魔じゃなかったですか?」
 譲治はいつもいきなり合流する割には、一応気にしてくれている。
「全然。どうせ1人でお酒飲みながらダラダラ過ごすだけなんだから。」

「依子さんはクリスチャンでしたか?」
 依子の持っている聖書を見て、一年近く付き合いがあって、まだ知らないことばかりだ、と譲治は思った。
「いいえ。
 でも、ちょっと苦しかった時期にね、たまたま近所にプロテスタントの教会があったの。
 誰でも入れる聖書講座ってのがあって、それに参加して、信徒さんや牧師夫人と仲良くなったのよ。
 私は洗礼受けてるわけでもないし、これから信徒になるかもわからないけど、すごく勉強になった。
 けっこう救われたのよ。
 だから、たまに自分に喝を入れたい時とか、静かに過ごしたい時は来るの。」

「どんなことを祈るんですか?」
 譲治自身は無宗教、というか信教を意識したこともないので、興味深く聞いてみた。
「そうね~。こうしてください、ああしてください、っていういわゆる神頼みじゃなくて、頑張るのでどうか見守ってください、って感じかな。
 神様やイエス様は伴走者みたいな存在なのよね。
 来年もがんばれる力をお貸しください、ってお願いしました。
 いつまでも豆腐メンタルじゃいられないものね?」
 依子は祭壇に目を向けたまま、そう静かに言った。

 譲治もしばらく静かに正面を向いて教会の空気に浸る。
「がんばらなくても、いいんじゃないですかね。」
 ぽつりと譲治は言った。

「依子さん。」

 譲治が依子の方に身体を向けて言った。
 依子もなにかしら、と譲治の方を見る。

「僕は....
あなたが好きです。」

 譲治は、依子が口を開く間もなく続ける。
「あなたがそんなに一人でがんばらなくてもいいように、そばで支えたい。
 一人で旅行するのはやっぱり寂しい、とあなたは言った。
 美しい景色や美味しいものを一緒に喜び合える人がそばにいればいいのに、と。できるなら、僕がそういう存在になりたい。
 あなたのそばにいたいんです。」

 依子は目を見開いて驚いている表情だ。
 血の気が引いていつも白めの顔色がさらに蒼白になっている。
 それからゆっくり俯いて、少し悲しそうに言う。

「ありがとう.....。すごく、うれしいです。
 田中さんが、私の頼りないところを何かと心配してくれているのは、わかっています。申し訳ないな、って。
 でも、それは好き、という感情じゃなくて同情ではないかな?
 歳も離れていて、姉のような母のような中年女の独り身を、哀れに思ってくれているのだと思う。
 田中さん優しいから。
 お友達でいてくれてるんだから十分幸せよ。
 ハンガリーに赴任してらっしゃる間、たまに暇つぶしに付き合ってくれてるんだから、それで十分です。」

 ふむ。
 やはりいざ拒否されると傷つくな。
 しかし想定内だ。
「依子さん、とりあえず年越しそば食べませんか。」
 譲治はいきなり切り替えて言った。
「あ、そうね。そうしましょう。
 ここでずっとおしゃべりしてるのも悪いし。教会って寒いしね。」
 依子もハッとして表情を和らげ、立ち上がる。
 譲治は考えを改めてくれたのかもしれない、と思った。
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