鈍色の空と四十肩

いろは

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61 ー新しいアパートー

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 2人で住む新居が決まったのは3月も中旬のころ。
 ブダペスト中心部からは離れているので交通の便が些か悪いが、2人とも基本的に在宅ワーカーなのでほとんど問題ない。
 かなり古いが、大家さんもいい人で、部屋数も十分、賃料がお手頃だった。
 
 無事に契約を終え、のんびり周囲を散策しながら帰り道を歩いていると、個人宅の庭だろうか、ロウバイと梅が咲いていた。
「わあ、珍しい。日本ではよく見るけど。そっか春なのね。」
 依子はそっと香をかいで、譲治にも教える。
「へえ。久しぶりに見た気がする。」
 天気は相変わらず薄曇りだったが、硬く締まった樹皮が綻んでたくさんの蕾がつき、春の訪れを告げるその花たちを見て、これからの2人の新しい生活を祝福してもらえているように感じたのだった。

 契約はもう済んでいるので、引越しはいつしてもいい。
 譲治が3日ほど休みをとって車を借り、自分たちで作業をすることにした。
「ねえ、でも、譲治くん、私の荷物ほんとにすごいのよ。
 仕事道具と、制作した商品の在庫がとんでもない量なんだから。
 ほとんど私の荷物なのに、申し訳なさすぎるわ。」

 移動する荷物は、各自のものと、依子が使っていたテーブル、ソファくらいが主である。
 ベッドや冷蔵庫、洗濯機など大型のものはたいてい備え付けなので、自分たちで揃える必要はない。
「そんなこと遠慮しないで。
 だいたい、僕だって家具こそないけど、依子さんのもの共同で使わせてもらってるわけだし、仕事机はパソコン周りはそこそこ嵩張りますよ。」
「なんだかね、いろいろ申し訳なくて。
 家賃払っていただいてるのに、私が使うスペースが圧倒的に多いし...」

「オッケー。じゃあね、改めて僕の気持ちを話しますね。」
 そう言って、ちょっとした広場に来た時に、ベンチを見つけて2人で腰掛ける。

「最初に言ったように、僕は、僕の全身全霊を傾けてあなたの側に寄り添いたいと思っています。
 経済的な不安がないようにしてあげて、思いっきり自由に制作してもらいたいと思ってます。
 今はまだ生活費は折半してるけど、そのうちまたお給料が上がる予定なので、ゆくゆくはそうするつもりです。
 古いと言われるかもしれないけど、男としては、大事な人を、安全なところで養いたい、っていう何か使命感みたいな、心沸き立つものがあるんです。」

 譲治は、依子の不安を和らげるように、両手で依子の手を包み、いつかのように一所懸命話してくれている。
「そんな...いい人すぎない?
 そんなこと言ったら、私が私が!って両手をあげて立候補する若い高スペックな女子たちが群がると思うよ。
 ましてや私みたいな何の取り柄もないおばさんが、そんな立場を享受してはいけないんじゃないかと思うの...」

「僕ね、元々女性関係には淡白で、って話ましたよね。
 パートナーがいたら寂しくないかな、と思う時もあったけど、そんなに欲求とかは激しくなくて。
 きっとこのまま1人でぼんやり流されて生きていくんだろうな、って思ってました。
 でも、依子さんに会って初めて、一生を共にしたいと思える、のめりこめる人を見つけたと思いました。
 依子さんに会ってからね、世界がきれいに見えることが増えたんです。日々の生活が、面白いって気づくことが多くなりました。
 生きることって、まんざらじゃない、って思えたんです。
 依子さんのおかげで、人生が輝き出した。
 あなたでなかったら、こうはならなかった。
 他のどんな美女でも意味がないんです。」

 依子はなんだか突然心臓を揺さぶられて、涙が出てしまった。
 最初に譲治に気持ちを問われた時も、そういえば泣いてしまったんだ、と思いだす。
 この人は、私を揺さぶるのが上手いのね、と思った。

「えっ? あっ...ごめんなさい。なんか傷つけましたか?」
 譲治が慌てて、指で頬を伝う涙をはらってくれる。
「ちがうの。なんだか、うれしくて、感動しちゃって...
 そんなふうに言ってくれるような、どんな良いことを、私したかな、って。」

「言ったじゃないですか。
 依子さんが、依子さんらしくそのままいてくれたことが、僕にとっての良いことです。
 じゃあ、逆に聞きますね。 
 依子さんは、当たり前のように、僕をタダで居候させてくれて、ご飯作ってくれて、家事全般やってくれて、しかも、死ぬほど僕を気持ち良くしてくれてる。どうしてそこまで尽くしてくれるの?
 僕、正直そんなふうに尽くしてもらえるような人間じゃないですよ。」

 譲治は優しく依子の両手を温めながら、顔を覗き込む。
「そんなこと言わないで。
 譲治くんが、譲治くんらしく、私と接してくれて、一緒にいてくれてる、それ自体が私にとって幸せなことだよ。
 あなたの元々のキャラクターが私大好きよ。」
 依子は涙を溜めたまま熱心に言う。

「ほら、ね。同じです。 だから自分のことあんまり卑下しないで。
 依子さんがそのままらしくいてくれれば、それで十分です。」
 譲治は依子の片手を、自分の頬にくっつけて続ける。
「ああ、でも、僕ね、わかってますよ。
 依子さん、いつ僕が離れてもいいように、いつでも自分が身を引けるように、逃げ道を作ってくれてるんでしょ?
 だから、必要以上に、お金も時間も共有しないで、できるだけ折半にしてくれてる。僕に経済的に甘えないようにしてくれてる。
 今のアパートも早々に解約しないでしばらくキープするつもりでしょ。
 それは、依子さんが僕に嫌気が差した時のため、というより、僕が依子さんと離れたくなった時のため、って思ってる。違いますか?」

「譲治くんは、いつも私のことをすごく良いように解釈してくれるのね。
 本性を隠してて、ほんとはもっと打算的な女だったらどうするの?」
 依子はいつもは見せない少し怖いような目つきで無表情に見上げる。

 一瞬、怯んだが、譲治は誤魔化されなかった。
「僕は、依子さんがそういう狡い精神構造ではない、ってこと知ってます。
 それは相手に悪いから、っていうより、卑怯なことをする自分が道義的に許せないから、っていう理由であることも知ってます。
 そして、非常に合理的思考の持ち主であることも。
 だから別れた時の安全策として、お互い被害が最低限に収まるように、精算が楽なように、って経済的な共有部分を極力避けてる。
 そうじゃないですか?」

 譲治は極めて冷静で鋭い話をしているのとは裏腹に、優しく甘いキスを、頬に当てていた依子の手の平に落としている。
「それに、僕はこれまであなたに遠慮なく甘えたり、ズボラな部分を始末してもらったり、あなたと過ごす時間を大いに満喫しているけど、依子さんはけっこう遠慮してるでしょ?
 ほんとはもっと、ガミガミ言いたいところを我慢して、面倒見てくれてる。 
 ほんとはもっと、僕に甘えたいところを、年上だからって毅然としようとしてくれてる、違う? 
 それって、そんなふうに曝け出したら、嫌われるって思ってるからでしょ?」

「...譲治くんは、すごいのね。私、見透かされてるわ。」
 自嘲的に笑って依子は俯く。
「それくらいのことがわかる程度には、付き合い長いんですよ。
 あなたに惹かれてからもう一年以上です。
 もっと、わがまま言ってください。
 もっと、大人げなくたっていい。これ買って~、って言ってくれていい。
 だからって嫌いになったりしない。
 家事なんてテキトーでいい。あなたがしたいならしてくれればいいし。
 あなたが、僕のそばでリラックスして、幸せに笑っていてくれることが、僕があなたを幸せにしてる、ってことの証明なんだから。
 僕は、僕があなたを幸せにしてる、って事実が自分自身を強くしてくれるんです。」
 譲治は依子の両手をまた握ってキスの雨を降らせる。
 そうやって安心させようとしていくれているのがよくわかった。

「パートナー相互の愛情って、経済的負担の大小で測れるものじゃないと思います。
 お金でしか相手の愛情を換算できないなんて、切ないです。
 それに、依子さんが、僕の経済力に胡座をかくような人じゃない、って知ってます。
 今のところ僕の方が経済力があるわけだから、僕がそこはカバーします。
 その分、依子さんは自分のできる部分でカバーしてくれればいい。
 もしかしてこれから依子さんの作品がバンバン売れたら、その時は経済的負担を増やしてくれればいいんだし。
 逆に言えば、僕は働いて稼ぐことしかできないんですよ。
 依子さんみたいに稼ぐと同時に絵を描いたりはできないし、僕の家事能力が壊滅的って知ってるでしょ?
 だから、僕にできることを取り上げないで?」

「...ありがとう...私、幸せものね。こんなに恵まれていていいのかしら。」
 依子は怖がっているように肩をすくめる。
「それは僕の方ですよ。僕の方が先にあなたから幸せをもらったんです。」

 春っぽくなってきたとは言え、まだ冷え切っているベンチに腰掛けて話し込んでいたので、お尻が冷たくなってきた。
「さ、いきましょか。」
 譲治が明るくいって、ぎゅっと依子の手を握り、歩き始める。

「ねえ、源氏物語の六条御息所って知ってる?」
 依子が歩きながら話す。
「うーん。光源氏ってのは知ってるけど。わからないなあ。なんで?」
「六条御息所はね、初めて光源氏に大人の恋の手ほどきをした年上の才女なの。
眉目秀麗、世事に強く、芸術文化に秀でて、男女関係についてもクールで粋、まさに完璧人間。ところが、光と関係を持つようになって、今までとは逆にのめり込むようになっちゃったのね。
これまで冷えた態度で人生歩んで来たのに、醜い感情が目を覚ましたわけ。
それで最終的に、嫉妬のあまり光の正妻を生霊となって取り殺してしまう。それも、そんな事が起こって初めて、自分の中の鬼に気づいた。
最後は、光源氏に謝って隠居して1人寂しく死んでいった。」

「誰しもね、彼女みたいに完璧でなくても、そういう解放しちゃいけない鬼を心の中に飼ってるのよね。」
 依子は握っていた譲治の手に、さらに腕を絡ませてぎゅっと自分にひきつける。
「譲治くんもあまり私に優しくしすぎると、私がのめり込み過ぎて束縛してがんじがらめにしちゃうかもよ。」
 依子は譲治の顔を覗き込んで、ニヤッとして言う。

「あはは!依子さんはそういうめんどくさいことしないでしょ。わかってます。
 あなた、粘着質に見せかけてけっこう合理的というかめんどくさがりだから、そんなドツボに嵌る前に、いちぬーけた、って放棄するタイプだ。
 身動きできなくなる前に、サッと離婚してすぐに独立して生活始めたっていう素早さもそれを証明してます。」
 譲治は愉快そうに依子を横目で見る。

「わかって頂いてて光栄だわ。」
 依子は自分の胸に手を当てて、頭を下げる。
「僕はあなたのそういう妙に男らしいところも大好きです。」
 譲治が見つめると、依子もきらきらした目で見返して言う。
「うーん、往来の真ん中で押し倒したくなっちゃうよ。」
「...早く帰りましょう...」
 譲治がぐい、と依子を引っ張った。
「冗談だよ...それくらいきゅーんとしちゃったってこと。
 さ、お茶でもしに行こう。」
 依子は苦笑して言う。
「ちえ。なんだ」

 たくさん会話して、たくさんくっつくこと、そんな一つ一つがとても幸せだ、としみじみ2人が思った、春の1日だった。
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