鈍色の空と四十肩

いろは

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70 ーアブサンー

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「依子さ~ん、また女子会しません?」
 今日も今日とてバイトの休憩時間。
 今日の賄いは愛の特製肉うどんである。
 依子に差し出しながら愛が声をかけてきた。
 斉藤はちょっとお使い、と言って出かけている。

「いただきまーす。」
 依子は早速箸をつける。
「うん、今日もおいしい。ありがとうございます。
 それで? 何か悩ましいことでも?」
「ええまあ...ちょっと遅くなっちゃうけど今日お店あがった後どうですか。
 そんな長時間じゃなくていいんで軽くで。
 あんま依子さん独占して田中氏に恨まれたくないんで。」

「あはは。そんな。大丈夫よ。
 今週末はね、日本から譲治くんのご家族が来てるから、家族水入らずでバラトン湖観光しに行ってるのよ。」
「あ、そっか。じゃあちょうどよかったですね。」
 そうして、店の終わった後、深夜までやっている近所の立ち飲みバーで飲むことにした。

ーーー

 その濃い琥珀色のリキュールは、ウンダーベルグという。
 緑の唐草が這ったラベルには妖精が飛んでいる。
 ドイツの薬草酒で、日本で言えば養命酒みたいな感じで、かなり癖があるのだが、一度飲むと病みつきになってしまう何かがあった。
 依子はこれが好きで、見つけるといつも頼む。
 本当はストレートで飲みたいが、ミニボトルなのでもったいなく、ロックでチビチビやることにする。
 ドクターペッパーとかルートビアも好きなので、そういう系列の匂いがそもそも好きなのだろう。
 何よりラベルが気に入っていたのだ。
 いわゆるジャケ買いである。

「それで? 何か心配事? 
 あれかな、いよいよ結婚式が迫ってきて、マリッジブルーってやつかな。」
 愛は、そんなマニアックなもの好きなんて、変わってますね、と依子の薬草酒を横目で見ながら、チビチビとワインを飲んでいた。いつもがぶがぶ飲む愛にしてはかなり珍しい。

「あのね...ちょっと非常にナイーブな話題なんで、自分はどうなんだろう、って心配になるんだけど、あんま人にも聞けず...依子さんくらいなんですよ~」
 ちょっと困ったふうである。
「なんて説明すればいいんだろう...
 うーん、あのね...そのお...」
 愛にしては非常に珍しくひどく歯切れが悪い。

「うんうん。ゆっくりでいいよ。うまく説明しようと思わなくていいから。」
 依子は愛の腕に優しく触れて言う。
「私ね、コルムと過ごすとすごい...盛んになっちゃって。
 いい歳して、10代ならわかるけど、どっかおかしいんじゃないか、ってくらい。
 どっかおかしいのかなあ?依子さんはどう思う?」
 愛はもじもじしながら言う。

「ええ?なんでえ?
 立派な大人が健全な関係を結ぶのがどうしておかしいと思うの? 
 なんか誰かに言われた?」
 依子は憮然として言う。
「はあ、まあ。前に付き合ってた男にね、ちょっと。
 10代のやりたい盛りでもないのに、インランかよ..って。」
 愛はちょっとしょんぼりしている。

「それ以来、こういうことに熱心になるのにちょっと抵抗があったというか、トラウマで。
 でも、コルムといると自然に燃えあがっちゃうというか?
 なんかまた激しすぎるって、ある日冷たく言われるんじゃないか、って怖いんです。」

「うーん。確かにそういうひどい言い方する人はいるよ。
 私も言われたことある。色情狂なんでしょ?って蔑みの目で見られたなあ。
 まあ私の場合は、私を見てくれない人の心を引き留めるために頑張りすぎてたっていうのが原因だから、そういう風にされてからは、自分から率先してご奉仕するのやめたけど。」
 依子は苦い経験を思い出して顔を歪めた。
「でも、愛ちゃんの場合は、コルムさんを愛し愛されてるが故のことだよね?
 2人で一緒に気持ちを高めてるから体も一緒に燃えるわけでしょ?
 コルムさんは嫌がってないでしょ?ていうかむしろ喜んでるでしょ?」

「はあ、そうなんです。コルムと肌を重ねてると、自然とそうなるんです。
 でも私だってもう40前だし何か、はしたないのかなあ、って。
 世間一般の見方として。」
「そうね~。私もそれは思う。私なんかさらに歳いっちゃってるからね。破廉恥なんだろうか、って。
 でも、まずカップルの閨のことなんて、2人が幸せなのが一番大事なんであって、外野の見方なんかどうでもいいよね。
 確かに日本なんか、そういうことを隠してお淑やかに、みたいなのが美徳とされてるけど、建前だよね。
 実際どうなのか、なんてほっとけ、って話よ。
 これがフランスやイタリア辺りだったら、やんやの喝采だと思うよ。
 年齢関係なく、深く愛し合うのは美しいこととされてるんだから。」

 依子は自分のウンダーベルグをごくり、と飲む。
 氷が溶け出して、甘く癖のある酒がちょうどまろやかになっていた。
「あとね、年齢の話ね。
 確かに、40代、50代、それ以上になってもお盛ん、てのはちょっと恥ずかしいって思う風潮はあるかもしれない。
 私も日々悩んでる。
 でも、これも結局個人差だし、そのカップルによって違うんだから、好きにすりゃいいよね。
 男は80代だって子供作れて羨ましい、不公平よね。
 女だっていつまでも性愛の世界を楽しむ権利があるのよ。
 なんかで読んだんだけど、女性は閉経後から益々感度が良くなる、って学説があるんだって。大いに楽しめばいいじゃない。」
 ちょっと、と言って依子は新しい酒を、カウンターに取りに行った。

 アブサンとは渋いですね、愛が依子の新しいグラスを見て言う。
 小さな足つきグラスに透かし模様の入ったスプーンが乗せてあり、その上には角砂糖。
 薄緑のリキュールは、妖しい魅力を放っていた。今日は薬草酒の気分の日だった。

「愛ちゃんは、そういう性愛の話って嫌い?」
 依子は頬杖をつきながら、小首を傾げて優しく聞く。
「いやあ、嫌いではないです。ただ恥ずかしいというか。
 コルムと出会ってから目覚めちゃったので、ちょっと戸惑ってて。」
「そっかあ。それは本当に素敵なことだと思う。
 コルムさんと心も体もぴったり、相性が良いってことだもの。
 だって、ぴったりでなければ、そんなに戸惑うほどの快感って得られないよ。」

「そんなもんですか?」
 愛は不思議そうだ。
「うん。私の経験ではね。
 そりゃさ、価値観はそれぞれだから、情欲とか快感を汚らわしい、と思う人は普通に世の中いると思う。
 そういう人はそういう価値観同士でくっつけばいいし。
 私の場合は、心と体って表裏だから、どちらか一方では成り立たないかな。  
 あくまで私の場合だけどね。
 病気とかだったら仕方ないよ。でもお互いに心身共に愛し合える健全な肉体があるなら、どちらでも深く繋がりたいよね。
 そう思うのは恥ずかしいことじゃないよ。」

 愛もアブサンを頼んだ。依子に触発されたらしい。
 依子は続ける。
「私もね、いい歳したおっさんおばさんがイチャイチャするなんて、恥ずかしくないの、ってまだ30代の時に言われてすごく傷ついた。
 でも、お互いに愛し合ってれば自然なことなのに、どうして恥ずかしいと思うの?って思った。
 その時に、ああ、この人わたしのこと好きじゃないんだ、ってわかったのよ。価値観が絶望的に違うって。
 それでもう無理だと思って別れた。
 ちなみにその人は最初から私のことバカにしてたから、もう全然無理だったのよね。
 お前は俺の言う通りに生きればいいんだ、とか平気で言う人で。
 我慢した私がバカだったわ。」
 依子はついでに頼んだプレッツェルを齧る。

「依子さんも回り道しましたね...でもその分、今は幸せでしょ? 
 田中さん見てるとめっちゃ面白いですよ。
 もう子犬が依子さんの後をついて行くみたいに従順で可愛い。」
 愛はニヤニヤして言う。

「そお? 彼かわいいのは確かだけど、とっても男らしいよ。
 私はすごく精神的に支えられてる。
 私ね、肉体的にほんとに快感を感じられたのって、譲治くんが初めてなのよ。
 心が結びついてると、こんなに気持ちいいんだ、ってびっくりしてるの。
 それに、お互いが同じくらい夢中になれるの。どっちかが冷めてることなんてない。
 今まで付き合った人で、死にたくなるほどの快感を得られたことってなかった。いつもどこか冷めてて、居心地悪くて。
 愛ちゃんはそう感じることない?」
 依子は静かに言う。

「実はね、私もそうなんです。
 こんなことってあるんだろうか、って。
 身も心もコルムに溶けていって、一緒くたになってしまえばいいのに、って。このまま死んでもいい、って。」
 愛も、酩酊したような声色で呟く。

 おんなじよ。私も全くおんなじ。依子はそう言って、角砂糖を舌に乗せた。
「そっか。良かった。あんまり深い話だから話せる人がいなくて。
 依子さんもそうなんだ。安心した。
 そういう世界って、お話の中だけだと思ってたから。」
 愛は、ホッとしたように言う。
「失楽○とか、愛の流○地とかね。
 若い時はこんなのファンタジーだろ、と思ってたけど、あるんだなあ。
 心と体、生と死、愛と憎、全部表裏一体なのよね。」
 依子は昔読んで衝撃を受けた本を思い出した。

「私も愛ちゃんの話聞けて良かった。
 私も同志がいなくて、ちょっとどうかしてんじゃないか、と思うことがままあったから。」
 依子がグラスを掲げる。
「悪魔の酒に乾杯。
 よし。アブサンで我々の魔性をさらに解放しちゃいましょう。」
 愛が、依子のグラスにカチン、と打ち付けた。
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