鈍色の空と四十肩

いろは

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71 ー家族の訪問ー

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「お邪魔しまーす」
 母の加奈子は相変わらず元気いっぱいで、譲治と依子のアパートへやってきた。その後からぞろぞろと父と妹が続く。
 週末のバラトン湖旅行からブダペストへ戻った田中家一行は、今日はのんびりしたい、ということで譲治のアパート見学をしにきたのである。

「ようこそ。いらっしゃいませ。
 片付いていないところもあって申し訳ないんですけれど、ごゆっくりされてください。」
 依子は出迎えながら、お茶の準備にキッチンへ引っ込む。
「コーヒー、紅茶、緑茶どれがいいですか?」
「コーヒーかな」
「緑茶!」
「紅茶がいいです」
 3人が同時にバラバラなことを言う。
「あんたたちホント...」
 譲治がため息をつく。

「じゃ、全部淹れましょうね。譲治くんは?」
「ほんとすみません。じゃコーヒーで。」
 依子はニコニコしながら3種類を同時に準備し始めた。

「へえ~、きれいにしてんのねえ! 
 あんたの住んでるとこいっつも何にもなかったからさあ、こんなにちゃんとした住まいになって。見違えたわ。」
 母がリビングのさりげないインテリアや、家具の配置を見て感心している。
「依子さんのおかげでしょ?」
 美智子が兄を見やって言う。
「おっしゃるとおりです。」
 譲治は潔く認める。

「おにいはミニマリストっていうか、生活に関してほぼ“無”だもんね。
 依子さんのおかげでやっと人間らしくなったね。
 なんかいいにおいもする~。」
 美智子は開け放してあった依子の部屋も首だけ入れて覗いていた。
「依子さんは、お香とかラベンダーとか香りのいいものが好きなんだよ。」
 へえ~、と美智子は感心している。
「ははあ、なるほど。お前の部屋は前と同じ、何もないな。」
 父親はズイズイと譲治の仕事部屋に入っていく。
「見ても面白いものなんてないでしょ。」
 譲治が後についていって言う。

 隆が譲治のデスク周りを見て、端の方に飾ってあった小さな額絵を見つけた。
 一目見て譲治を描いたスケッチだとわかった。罫線のあるメモ帳に急いで描いたようだった。
「依子さんが描いたのか。」
 隆がぼそっと言う。
「そうだよ。」
 父と息子の会話などシンプル極まりないものである。
 加えてお互い感情が外に出ないタチでもある。
 それでも、そのスケッチを見て、父には、息子と歳上の彼女がお互いをとても大事にしているのがわかった。
 息子にもまた、父が少し微笑んでいるのがわかったのである。

「お茶入りましたよ~。」
 依子の声が聞こえたので、皆でリビングに集まる。
 ソファの周りに椅子を持ってきて、ローテーブルを囲った。
 週末に行ったバラトン湖観光の話などを聞いて、盛り上がるのだった。

ーーー

「それじゃ、私たちは行ってきますね。
 お父さんお母さんはどうぞごゆっくりしていてくださいね。
 冷蔵庫とかキッチンとかお風呂とか、もうなんでも使っていただいて構いませんから。」
 依子が声をかける。
「それじゃ行ってきまーす。」
 美智子も言って、2人は出かけて行った。

 今日は譲治がどうしてもやらねばならない仕事がある、ということで、最初依子が一行を引率することにしていたのだが、両親も少々疲れが溜まってきてる、ということで、譲治が在宅勤務する間、アパートで昼寝なり、のんびりすることになった。
 依子は、美智子と女同士で、セーチェニ温泉と、中央市場へ買い物をしに行くことにした。
 水着着用の温泉は、年配の日本人にはちょっと抵抗がある、ということらしい。

「私たちのことは気にしないでいいから、お前は仕事しなさい。」
 隆が譲治に言う。
「そう? 好きにしてていいから。外に行きたくなったら言って。」
 そう言って譲治は、両親にYouTubeやネットなどを見られるようにiPadを置いて仕事部屋に引っ込んだ。

 加奈子は、ぶらぶらとキッチンを物色したり、洗面所を眺めたりして、日本との違いを見つけては面白がったりしている。
 隆は棚の上に積んであった数冊の本から、気に入ったものを見つけて取り出した。
「万葉集」。
 譲治はこんなもの読まないはずだから、ここに並んでいるのは依子さんのものか。なかなか良い趣味だ。

 加奈子は自分で、キッチンのツールを楽しみながら使って、お茶のおかわりを淹れて、ソファに陣取る。
 この数日の疲れが出たのか、間もなく横になって昼寝をし始めた。
 隆も本を持ってソファに移動する。
 横に並んでいた加奈子の足を持ち上げて座り、自分の膝の上に加奈子の足を戻して、読書を始めた。
 うららかな午後の春の日差しがリビングに差し込んで、あたたく満たされた空気がこの空間を満たしているようで、いつしか瞼が落ちていた。

ーーー

 ぐいーっと背もたれにもたれて、伸びをする。
 しばらく集中して仕事をしていた譲治は、一区切りついて気づけば夕方になっていた。
 やけに静かだが両親は生きてんのか、とふと心配になって、仕事部屋を出る。
 見ると両親は2人でソファでぐうぐうといびきをかいて寝ていた。
 母親の足は、父親の膝に乗っている。
 父親は背もたれに体を預けて口を開けて寝ていた。

 仲良いねしかし、と譲治は思わず笑いが漏れた。連日観光じゃ疲れるわな。
 今日は依子さんが若い美智子を連れ出してくれて助かった。
 後でまたちゃんとお礼を言わなきゃ。譲治は思った。

「おふたり、夕方ですよ。」
 譲治が声をかける。
「んあっ...はあ~寝てた~...」
 むにゃむにゃ言いながら母が起き上がる。
「おお、寝てしまったな。いやあいい気持ちだった。」
 隆も目をしぱしぱしている。
「顔でも洗ってきたら。タオルは洗面所に積んであるやつ使っていいから。」

 両親が洗面所を使って出てきたところに、譲治が声をかける。
「夕飯どうする? なんか買ってこようか?」
「いやあ、今日はなんかすっかりのんびりしちゃったからさ、私もうなんか作っちゃおうか? 
 さっきキッチン見たら、けっこういろいろ食材あったから。
 依子さんに聞いてみてくれる?使っていいか、って。
 あたし、外国のキッチン使ってみたい~。」
 母は楽しそうだ。

 そんなわけで、譲治がLINEで依子に確認すると、どうぞどうぞ、とすぐ返事が来た。
 美智子も今、中央市場で買い物を済ませたところなのでじきに戻る、とのことだった。
 そんじゃ、5人分作っちゃお~、と言って母が張り切ってキッチンをいじり始めた。

 譲治は、父親にはアルコールを勧めてみた。
「なんか飲む? 安いワインとビールがあるよ。」
 ビールを、というので、2人で先に瓶ビールを開ける。
 父は、母と違って寡黙な男なので、特にぺちゃくちゃしゃべるでもない。
 2人静かにビールを飲む。

 ふと、隆が口を開いた。
「依子さんとは...結婚はしないのか?」
 突然言われたので、少しびっくりしたが、だいたい父親は唐突に発言するので、すぐに気を取り直す。
「僕はしたいと思ってるよ。でも、彼女の心情を考えるとね。
 彼女バツイチなんだけど、元旦那の暴力で、って言ったっけ?
 結婚という契約を恐怖に感じてるんじゃないか、と思うんだよね。」

「母さんから聞いた。」
 隆は静かに譲治の様子を見ている。
「それに、やっぱり歳の差があることをすごく気にしていて、結婚して僕を縛りつけることを避けようとしてるんだよね。
 いつでも簡単に僕が自由になれるように、って逃げ道を作ってくれてるみたいなんだ。」
 譲治は少し悔しそうだ。

「暴力ね...それは辛いよな。
 でも一度それで懲りてるのに、今お前とは一緒に住んでるってことは、一応大丈夫だと判断してのことだろ? 
 お前が暴力なんか振るう人間じゃない、ってわかってくれてるんじゃないか?」
「そりゃ、まあね。僕もかなり説得して、やっとわかってもらったから。」
「歳の差のこともね、私は思うんだが。
 このまま宙ぶらりんで、どっちにも転べる状態の方が、彼女に悪いんじゃないか? 
 いつお前が自分の元を離れてもいいように、って思わせておくのはかわいそうなんじゃないだろうか。
 お前がしっかりして、責任もって今後の人生を共にする、と約束してけじめをつけた時に初めて、彼女の、今までの辛い過去も含めて、苦しみが癒えるんじゃないか?」
 隆が滔々と譲治に話す。
 いつも長々と話し込んだりしない父親にしてはとても珍しく、熱い気持ちが伝わってくる。

「そう...そうだね。 そう言ってみようかな。」
 譲治は今父が言った言葉を頭に刻む。
「それにしてもずいぶん依子さんを気に入ったんだね? 
 まだ少ししか会ってないのに。」
 ちょっと微笑んで譲治が言う。

「お前を見てればわかるよ。この部屋も。 
 母さんも、美智子も同じように言ってる。
 お前は見違えるように表情豊かになって、生命力が溢れてるようだ。
 お前を見れば、依子さんがどんなにお前にいい影響を与えてくれてるかわかる。」

「私も賛成よ。」
 いつのまにかそばに来ていた母が横から口を出す。
 手早く作った野菜の浅漬けとフォークをテーブルに並べる。
 おつまみに、ということらしい。
「でも、母さんが、そんな歳上の人、って言ったんじゃないか。」
 譲治はちょっと口を尖らせて言う。

「そりゃ、親としては心配するでしょうよ。最初は。会ってもいないんだから。
 でも、お父さんが言ったみたいに、このお部屋見ればわかるわ。
 あんたが依子さんにどんなに快適な住まいを作ってもらってるか。
 あんた、肉付き良くなったし。表情も明るくなった。
 前なんかガリッガリだったもんね。美智子が死んだ魚の目だった、って言ってたわよ。
 でも、今はちょっとイケメンになったって。あはは!」
 高らかに笑いながら、加奈子はまたキッチンに戻っていった。

 譲治は、空いた瓶を流しに持って行って、新しいものを冷蔵庫から出す。
 そして、料理をしている母に話しかける。
「でも、もう、孫は見られないと思うよ。僕たちの年齢だと。」
 譲治はやっぱりその点は申し訳ないと思っているのだった。
「何言ってんのよ。あんたに彼女ができるのさえ諦めてたんだから。
 依子さんに拾ってもらって、こんなにうれしいことないわ。神様仏様依子様って感じ。
 親はね、孫の存在は割と二の次で、自分らが死んだ後に我が子がひとりぼっちになることがまず切ないのよ。
 だから一緒に添い遂げてくれるパートナーがいてくれることこそが、まずうれしいの。」

 そう言って加奈子は明るい満面の笑みを譲治に投げかけた。
「だから、孫なんて気にしなくていいのよ。
 そこらへん依子さんにもわかってもらってね。」
 譲治は思わずちょっと目頭が熱くなって、顔を伏せる。
「うん、わかった...」
 そして急いで追加のビールを父に持っていくのだった。


 それから間もなく、依子と美智子が帰ってくる。
 美智子は、異国の温泉と、珍しいものがたくさんあった中央市場に大興奮で、早速事細かにレポートしてくれる。
 加奈子が要領よくあり物で作ってくれた夕飯と、美智子が市場で買ってきた、ハムやチーズなどを広げて、わいわいと楽しい春の宵が過ぎていった。
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