鈍色の空と四十肩

いろは

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83 ー2人の暮らしー

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 なにかと行事に追われてばたばたとしていた初夏から夏にかけての日々が過ぎ去り、淡々とした日常の中で、依子と譲治はそんな平穏な毎日の幸せを噛み締めながら過ごしていた。
 平日はそれぞれ在宅ワークに励む。
 依子は時々、カルチャーやイベントなどで留守にすることも多い。週末はアルバイト。
 譲治は週末は1人で休日になるので、相変わらず動画制作に勤しんだり、依子と行きたい近場の穴場スポットなどをリサーチしたり。
 普通にしていると、2人の休日は永遠に合わないので、譲治が月に一回くらい有給をとって平日休みにしてくれたりする。
 依子はそれを申し訳ない、といつも言っているのだが、冷静に考えて依子は休日というものを設けていないので、譲治の有給を口実に強制的に休ませている、という格好である。

 そして、一番大事なのは、平日は早めに仕事を終えて、2人で一緒に買い出しに行って、おしゃべりしながら夕飯を摂ること。
 あるいは、夕飯をすっ飛ばして2人でベッドに籠ること。そうでもしないと依子はいつまでも仕事をしてしまうから、これも譲治が監視している、というのが実際のところである。
 それでも、依子は夜中に起き出して何やら制作に没頭することがある。
 最近は、依子が日曜のバイトをやめさせてもらうか、と考えているようだ。
そもそも欧米は、観光客向け以外は、日曜に店舗営業しない習慣があるから、それでも大丈夫かもしれない、と言っている。
 
 などと言っていたら、これである。

「ねえねえ! 譲治くん聞いて聞いて! 愛ちゃんね、赤ちゃんできたんだって!」
 依子は、日曜のバイトから帰るなり、興奮した口調でそう報告した。
 その日は、2人でワインを飲みながら、愛とコルムの幸せを祈った。

ーーー

「素敵ね。無事に産まれるといいね。」
 依子がにこにこしながら言う。
 依子と譲治は、月曜の夕方、気の早い落ち葉を踏みしめながら散歩をしていた。

 季節は9月も下旬。
 朝晩はすっかり寒くなり暖房を入れる日が増えてきた。
 高い木の上の方がわずかに色づき始めている。
 今日も天気はいいが空気が冷たく、依子の鼻の頭が赤くなっている。譲治は依子の手が冷たくならないように、ぎゅっと握り合って、歩いていた。
「あの人たち体格いいから、でかい赤ちゃん産まれそうですね。」
「ほんとね! あ、でもめんどくさがって先延ばしにしてた引越し、いよいよ待ったなしみたいよ。愛ちゃんに頼まれてるのよ。私がんばって手伝わなきゃ。」

 依子と譲治の引越しも、愛とコルムのおかげでずいぶん助けられたので、今度は恩返しする番である。
 どうやら契約自体や諸手続きはもう済んでいるらしいので、あとは決行するのみとのこと。
「いつでしたっけ? 来月? あれ、僕たちの式と近くなって大変じゃないかな。」

 そう、この淡々とした日々の中、依子と譲治も少しずつ小さな結婚式の準備を進めていたのだ。
 イメージしていたバラニイワイナリーでのパーティーも、バラニイ氏が快く引き受けてくれて、段取りが着々と進んでいる。
 ワイナリーの今年の新酒を披露する聖マルトンの日の翌週、11月15日を予定している。

「愛ちゃんたちはいつでもいいみたいよ。もうできるなら来週やっちゃおう、って。譲治くん大丈夫?」
 そんじゃ、来週早々手伝いに行きますか、と言って、愛とコルムに打ち合わせして、引越し手伝いをすることにした。

 2人はお馴染みの散歩コース、鎖橋を通って、王宮の丘へ登ってきた。
 秋の夕方は暮れるのが早く、さっきまでオレンジ色の夕焼け空だったが、今はもう見上げる空はピンクから薄紫へ変化を遂げ、紺色に移り変わっていこうとしている。
 急激に冷気がふわっと押し寄せてきて、枯葉の香りの混じった夜の空気と入れ替わる。2人の吐く息がうっすら白くなってきた。

「依子さん、あの...依子さんは子供欲しい?
 もし依子さんが欲しいなら、僕できること全部しますよ。 
 僕たち歳いっちゃってるけど、まだ不妊治療もできる範囲だし。
 どうしてもダメなら養子とか、やれることたくさんあります。」
 譲治がおずおずと、依子の心情を心配するように、顔を覗き込んできた。
 
 依子はちょっとびっくりしたように目を見開いて譲治を見つめる。
 そしてにっこりした後、譲治の胸に顔を埋めた。
「...譲治くんてほんとに優しいのね。ありがとう。
 私こんなに優しくしてもらっていいのかしら。」
 そう言うと、顔を上げて譲治の顎にキスをした。
 譲治は、ここが戸外で周囲にはまだ観光客らしき人もちらほらいるのでドギマギしてしまった。

 再び歩き出して、いつもの眺めがいいテラスに寄りかかる。
「子供はね、自然妊娠で授かればもちろんうれしいけど、そうでなければ無理しなくてもいいかな。まあ、どちらにしろもう可能性はほぼないと思うけど。 
 元々小さい人がちょっと苦手なところあるし。
 嫌い、ってわけじゃないの。
 小さい頃の自分とか友達とかがフラッシュバックしちゃって共感しすぎちゃって、辛くなったりするのよね。
 譲治くんは?」
「僕もそうだなあ。同じです。
 興味深い対象ではあるけど、溺愛したい、って感情が湧かないですね。できればそれなりに湧くんだろうけど。」

 夜の帳が下りてきた眼下のブダペストの街の、そこここに煌めく灯火がキラキラと輝き始めた。
 その瞬きを見ながら依子がつぶやく。
「譲治くんと感覚が近くて良かった。デリケートな問題だもんね。
 私みたいな特に執着のない人間でも、辛い時あったもの。
 周りの友人知人がさ、どんどん妊娠出産していくわけ。
 それ自体はただただおめでたくて、自分のことのように嬉しくて。
 でも、自分はと言うと、子作りもできない、スタートラインにさえ立てなかったの。それが悔しくてね。
 
 言ったっけ?
 私の元夫ね、EDだったのよ。
 結婚前は普通だったんだけど、結婚したその日からできなくなったの。
 でも、子供は欲しいっていうのよ? 
 私はどっちでも良かったの。でも彼は欲しいって言うでしょ、でも、子作りはしないの。病院にも行こうとしない。
 私は彼を追い詰めないように、何も言わずに、自分だけ病院に行って体調を整えることだけしといた。

 何年経っても、子作りはできない、でも子供は欲しいと言う、そして私に手を上げる、私のする家事にダメ出しをする、もう耐えられないと私が言うと彼は泣いて謝る。どうすれば良かったのかしらね。
 私にはどうしようもなかったわ。
 一番子作りに適した数年間を、私は何もできずただただ過ぎていくのを見てるしかなかったの。
 そうしてるうちに、もう自然には難しい歳になっちゃった。」

 譲治は、子供についての依子の過去の話は初めて聞いた気がした。
 依子もそういう過去があったから、話しづらかったのだろう。
 そう言えば、8年以上も結婚していて、子供についてはどうだったのか聞いてなかったな、と思った。
 
 譲治は、依子の体に腕を回してぎゅっと抱きしめた。
「ごめん。辛いこと話させて。
 僕も今聞いて気づいた。もっと早めにちゃんと聞いとくべきだった。
 依子さん、前の結婚で子供の話はしなかったから、単純にできなかっただけだと思ってた。」
「ううん。私こそごめんね。またどろどろした話聞かせちゃって。
 譲治くんなら聞いてくれるかな、っていつも甘えてばかりで。」
 
 依子は譲治の方を向いて抱きつき顔を埋める。譲治は依子を腕の中にすっぽりとくるみ抱きしめた。
「いつも言ってるじゃないですか。あなたの辛いことも悲しいことも共有させてくださいって。」
 譲治は依子の頭の上でそっと呟く。
「たまにこうやって私が毒吐いちゃう時、嫌になったりしない?
めんどくせえ女だな、って思わない?」
 少し震えた声でか細く依子が聞く。

 くす、っと譲治が笑って言う。
「ぜーんぜん。僕けっこうテキトーだから、さらっと受け流せますよ。任しといて。」
 依子も笑って譲治を見上げた。
「私ね、譲治くんのそういう気にしないところ大好きよ。」

「ねえねえ、愛ちゃんのお祝い何がいいかなあ? 
 無事に産まれたら早速手配しなきゃね!」
 依子はうれしそうな顔に戻って言う。
「予定日いつでしたっけ? あれっ? 産休は? 
 というか『さくら』のほうどうするんですか?」

「あっ! そうだ。忘れてた~。」
 依子は頭を抱えている。
「そうなのよ。斉藤さんに泣きつかれたんだった。
 私もシフト減らしてもらおう、とか言ってたけど、それどころか増やさないといけないかもなんだわ。」

「依子さんが嫌じゃなくて、体に無理がないんだったらいいと思いますけど、どうなんだろ。」
 譲治も心配そうだ。
「うーん。ちょっと考えてたんだけどね。本業の方でこれ以上収入増やすのって、やっぱりすごく難しいのよ。これは日本にいてもそうなんだけどね。
 確実に固定的収入を得るには、販売先を増やすか、生徒を増やすしかないんだけど、これは確証がないからね。
 であるならば、無駄になるかもしれない営業活動はすっぱり諦めて、バイトで確実に収入得るのは、楽と言えば楽なんだわ。
 今のうちに貯めとけば、またバイト減らした時も安心だし。
 私は、作りたいものを自由に作れれば満足なんでね。」

「そんならいいんじゃないですか? 
 斉藤さんへ恩返ししたい、っていうのもあるんでしょ?」
 譲治は依子のことをよくわかっている。
「まあ、一応アーティストの端くれとしては、バイトで生計を立てるってのは邪道かな~という世間様の目が気になるような、ならないような?」
 笑いながら依子が言う。
「それこそ、ほっとけ、って話じゃないですか? 
 依子さんらしく生きられればいいんであって。」
「そうね。おっしゃる通り。
 副業でなんとかしてるアーティストなんてごまんといるしね。 
 私もね、ちょっと前まで、アートだけで身を立てなきゃ嘘だ、みたいなプライドがあったんだけど、正直あんま気にならないのよ、最近。
 歳とっていいところは、そういうこだわりを捨ててみっともなくても生きていけるってとこだわ。」

 テラスに吹き付ける夜風がいよいよ冷たくなってきて、2人はその場を離れ帰り道を辿る。
「そう言えば、僕たちの結婚式、山形のお父さんたち来れそうですか? 
 うちの家族は大丈夫だって。さっき連絡きました。」
「ほんと? 良かった! 両親たちに見てもらうのが主目的だものね。
 うちも大丈夫だって。楽しみにしてるみたいよ。久しぶりだなあ、って父は特に。」

「僕は依子さんのドレス姿が楽しみです。」
 譲治もうれしそうだ。式の後にそのドレスを脱がすのも楽しみ、とは言わないでおく。
 いくつかの回廊を通り抜けると、バイオリンの音が聞こえてきた。
 2人は手を繋いだまま、その街灯に照らし出された、孤独な、でも凛としたハンチング帽のバイオリン弾きをじっと見つめ、その音色に耳を傾ける。

「あなたと、この音色をこうやって聞きに来るのが、一つの夢でした。」
 譲治は依子の手を握った手に力を込める。その手を持ち上げて指にキスをした。
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