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第54話 幻覚との戦い
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東の森。
その名は、アッシュフォード村の周辺地域では、最近、不吉な響きを伴って語られるようになっていた。
原因不明の濃霧。
そして、その霧に踏み入った者を襲うという、奇妙な幻覚。
アルトは今、その「惑わしの森」の只中にいた。
森の入り口付近は、他の森と何ら変わりない、穏やかな木々の緑が広がっていた。
しかし、奥へ進むにつれて、風景は一変する。
まるで意思を持っているかのように、白い霧が木々の間から湧き出し、あっという間に周囲を乳白色の帳(とばり)で覆い隠してしまった。
視界は、数メートル先も見通せないほど悪化する。
音も妙に吸収され、風の音すら聞こえない。
自分の立てる足音だけが、やけに大きく響く、不気味な静寂が辺りを支配していた。
ランタンに火を灯し、揺らめくオレンジ色の光で足元を照らす。
腰のポーチから取り出したコンパスの針は、かろうじて北を指し示している。
これを頼りに、アルトは慎重に、一歩、また一歩と霧の中を進んでいく。
霧は、まるで生き物のように体にまとわりつき、冷たく湿った感触が肌を撫でる。
それは、ただ視界を遮るだけでなく、確実に方向感覚をも狂わせようとしていた。
どれくらい歩いただろうか。
奇妙な感覚に、アルトは足を止めた。
コンパスの針が、まるで意思を失ったかのように、くるくると頼りなく回転し始めたのだ。
そして、周囲の景色。
何度か、同じような形をした、ねじくれた奇妙な大木の前を通り過ぎているような気がする。
「まずい……方向感覚が狂わされてる……!」
背筋に冷たいものが走る。
アルトはすぐにポーチから、リナが調合してくれた気付け薬を取り出し、その強い匂いを嗅いだ。
スーッとするハーブの刺激が鼻腔を抜け、少しだけ鈍っていた意識がはっきりとする。
しかし、周囲を取り巻く濃霧は、依然として晴れる気配を見せない。
言いようのない不安感が、じわじわと心を蝕んでいく。
さらに霧の奥深くへと足を踏み入れた、その時だった。
ついに、それは現れた。
霧の中に、ぼんやりと、しかしはっきりと、見慣れた風景が浮かび上がったのだ。
アッシュフォード村の、自分の家の庭。
薪割りをしている父の姿。
洗濯物を干している母の姿。
懐かしい、穏やかな光景。
(……違う!)
アルトは、強く頭を振った。
これは幻だ。
こんな森の奥深くに、自分の家があるはずがない。
そう自分に言い聞かせた瞬間、村の風景は掻き消え、代わりに、あの忌まわしいホブゴブリンの巨大な影が、戦斧を振りかぶってアルトに襲いかかってくる幻影が現れた!
「くっ……!」
咄嗟にショートソードを構えそうになる。
だが、アルトはバルガスの言葉を思い出し、必死にその衝動を抑え込んだ。
「落ち着け……これも幻覚だ……実体はない……!」
恐怖に震えそうになるのを、奥歯を噛み締めて耐える。
幻覚は、視覚だけではなかった。
「アルト、危ない!逃げて!」
すぐ耳元で、リナの必死な声が聞こえた気がした。
しかし、振り返っても、そこには濃い霧が広がっているだけだ。
「役立たず」「落ちこぼれ」――かつて自分に向けられた嘲笑う声が、どこからともなく聞こえてくる。
助けを求める悲鳴、不気味な囁き声……。
様々な幻聴が、アルトの精神を直接揺さぶり、混乱させようとしてくる。
「惑わされるな……!惑わされるもんか……!」
アルトは、自分自身に強く、強く言い聞かせた。
目に見えるもの、耳に聞こえるもの、その全てを疑え。
信じられるのは、ランタンの灯りが照らし出す、現実の足元と、手に握る剣の感触だけだ。
アルトは、ただひたすらに、精神力を総動員して幻覚と戦い続けた。
幻影の魔物が襲いかかってきても、剣は振るわない。
ただ冷静にそれを見据え、それが実体のない、霧が生み出した虚像であることを確認する。
これは、剣や盾を使う物理的な戦闘とは全く違う。
心の強さ、精神の靭やかさが試される、孤独な戦いだった。
少しでも気を抜き、恐怖や不安に囚われれば、この惑わしの森で永遠に道を見失うことになるだろう。
(この霧を、どうにかできないか…?)
アルトは、ギフトの応用を試みることにした。
「衝撃波(仮)」!
腕を突き出し、前方に力を放つ。
ブォン、と空気が震えるような感覚と共に、周囲の霧が一瞬だけ、わずかに薄くなった。
視界が開けるのはほんの一瞬に過ぎない。
しかし、その一瞬で、進むべき方向や、足元の安全を確認するには十分だった。
(原因は、やっぱり鱗粉か何かかもしれない…)
アルトは、幻覚を見せる原因が、霧の中に漂う微細な粒子――例えば、フォギーモスの鱗粉――である可能性を考えた。
衝撃波で、それらを吹き飛ばすことはできないだろうか?
アルトは、定期的に周囲に向かって衝撃波を放ちながら、進むことにした。
効果のほどは定かではない。
だが、何もしないよりはましだ。
精神的な防御壁をイメージして、反射の「硬くなる感覚」を応用しようとも試みたが、こちらは残念ながら、幻覚に対して目立った効果は感じられなかった。
幻覚との戦い。
方向感覚の喪失との格闘。
それでも、アルトは諦めなかった。
コンパスが異常な動きを示す方向。
霧がひときわ濃く淀んでいる場所。
そして、先ほどから、どこからか漂ってくる、甘く、しかしどこか人工的で不気味な、花の蜜のような匂い。
それらを頼りに、アルトはこの異常現象の根源が存在するであろう、森の核心部へと、一歩、また一歩と近づいていった。
そして、ついに。
アルトは、霧が渦を巻くようにひときわ濃く、あの甘ったるい匂いが充満している、小さな円形の開けた場所へとたどり着いた。
ランタンの灯りが、揺らめく霧の中に、巨大な、そしてこの世のものとは思えないほど奇妙な影を映し出した。
それは、巨大な蛾のようだった。
しかし、その羽は、まるでステンドグラスのように色とりどりの模様で彩られ、動くたびに、キラキラと輝く鱗粉を周囲に撒き散らしている。
羽の大きさは、アルトの身長を優に超えているだろう。
その巨大な蛾が、複数、霧の中でゆっくりと、しかし優雅に舞っていた。
(あれが……フォギーモス……!?)
間違いない。
あれが、この惑わしの森を生み出している元凶だ。
精神的に大きく消耗しながらも、アルトはようやく原因へとたどり着いたのだ。
視界を奪い、精神を蝕む幻覚の鱗粉を撒き散らす、厄介極まりない敵。
アルトは、この未知なる魔物に、どう立ち向かうのか。
霧の奥で、色とりどりの巨大な羽が、不気味に揺らめいていた。
その名は、アッシュフォード村の周辺地域では、最近、不吉な響きを伴って語られるようになっていた。
原因不明の濃霧。
そして、その霧に踏み入った者を襲うという、奇妙な幻覚。
アルトは今、その「惑わしの森」の只中にいた。
森の入り口付近は、他の森と何ら変わりない、穏やかな木々の緑が広がっていた。
しかし、奥へ進むにつれて、風景は一変する。
まるで意思を持っているかのように、白い霧が木々の間から湧き出し、あっという間に周囲を乳白色の帳(とばり)で覆い隠してしまった。
視界は、数メートル先も見通せないほど悪化する。
音も妙に吸収され、風の音すら聞こえない。
自分の立てる足音だけが、やけに大きく響く、不気味な静寂が辺りを支配していた。
ランタンに火を灯し、揺らめくオレンジ色の光で足元を照らす。
腰のポーチから取り出したコンパスの針は、かろうじて北を指し示している。
これを頼りに、アルトは慎重に、一歩、また一歩と霧の中を進んでいく。
霧は、まるで生き物のように体にまとわりつき、冷たく湿った感触が肌を撫でる。
それは、ただ視界を遮るだけでなく、確実に方向感覚をも狂わせようとしていた。
どれくらい歩いただろうか。
奇妙な感覚に、アルトは足を止めた。
コンパスの針が、まるで意思を失ったかのように、くるくると頼りなく回転し始めたのだ。
そして、周囲の景色。
何度か、同じような形をした、ねじくれた奇妙な大木の前を通り過ぎているような気がする。
「まずい……方向感覚が狂わされてる……!」
背筋に冷たいものが走る。
アルトはすぐにポーチから、リナが調合してくれた気付け薬を取り出し、その強い匂いを嗅いだ。
スーッとするハーブの刺激が鼻腔を抜け、少しだけ鈍っていた意識がはっきりとする。
しかし、周囲を取り巻く濃霧は、依然として晴れる気配を見せない。
言いようのない不安感が、じわじわと心を蝕んでいく。
さらに霧の奥深くへと足を踏み入れた、その時だった。
ついに、それは現れた。
霧の中に、ぼんやりと、しかしはっきりと、見慣れた風景が浮かび上がったのだ。
アッシュフォード村の、自分の家の庭。
薪割りをしている父の姿。
洗濯物を干している母の姿。
懐かしい、穏やかな光景。
(……違う!)
アルトは、強く頭を振った。
これは幻だ。
こんな森の奥深くに、自分の家があるはずがない。
そう自分に言い聞かせた瞬間、村の風景は掻き消え、代わりに、あの忌まわしいホブゴブリンの巨大な影が、戦斧を振りかぶってアルトに襲いかかってくる幻影が現れた!
「くっ……!」
咄嗟にショートソードを構えそうになる。
だが、アルトはバルガスの言葉を思い出し、必死にその衝動を抑え込んだ。
「落ち着け……これも幻覚だ……実体はない……!」
恐怖に震えそうになるのを、奥歯を噛み締めて耐える。
幻覚は、視覚だけではなかった。
「アルト、危ない!逃げて!」
すぐ耳元で、リナの必死な声が聞こえた気がした。
しかし、振り返っても、そこには濃い霧が広がっているだけだ。
「役立たず」「落ちこぼれ」――かつて自分に向けられた嘲笑う声が、どこからともなく聞こえてくる。
助けを求める悲鳴、不気味な囁き声……。
様々な幻聴が、アルトの精神を直接揺さぶり、混乱させようとしてくる。
「惑わされるな……!惑わされるもんか……!」
アルトは、自分自身に強く、強く言い聞かせた。
目に見えるもの、耳に聞こえるもの、その全てを疑え。
信じられるのは、ランタンの灯りが照らし出す、現実の足元と、手に握る剣の感触だけだ。
アルトは、ただひたすらに、精神力を総動員して幻覚と戦い続けた。
幻影の魔物が襲いかかってきても、剣は振るわない。
ただ冷静にそれを見据え、それが実体のない、霧が生み出した虚像であることを確認する。
これは、剣や盾を使う物理的な戦闘とは全く違う。
心の強さ、精神の靭やかさが試される、孤独な戦いだった。
少しでも気を抜き、恐怖や不安に囚われれば、この惑わしの森で永遠に道を見失うことになるだろう。
(この霧を、どうにかできないか…?)
アルトは、ギフトの応用を試みることにした。
「衝撃波(仮)」!
腕を突き出し、前方に力を放つ。
ブォン、と空気が震えるような感覚と共に、周囲の霧が一瞬だけ、わずかに薄くなった。
視界が開けるのはほんの一瞬に過ぎない。
しかし、その一瞬で、進むべき方向や、足元の安全を確認するには十分だった。
(原因は、やっぱり鱗粉か何かかもしれない…)
アルトは、幻覚を見せる原因が、霧の中に漂う微細な粒子――例えば、フォギーモスの鱗粉――である可能性を考えた。
衝撃波で、それらを吹き飛ばすことはできないだろうか?
アルトは、定期的に周囲に向かって衝撃波を放ちながら、進むことにした。
効果のほどは定かではない。
だが、何もしないよりはましだ。
精神的な防御壁をイメージして、反射の「硬くなる感覚」を応用しようとも試みたが、こちらは残念ながら、幻覚に対して目立った効果は感じられなかった。
幻覚との戦い。
方向感覚の喪失との格闘。
それでも、アルトは諦めなかった。
コンパスが異常な動きを示す方向。
霧がひときわ濃く淀んでいる場所。
そして、先ほどから、どこからか漂ってくる、甘く、しかしどこか人工的で不気味な、花の蜜のような匂い。
それらを頼りに、アルトはこの異常現象の根源が存在するであろう、森の核心部へと、一歩、また一歩と近づいていった。
そして、ついに。
アルトは、霧が渦を巻くようにひときわ濃く、あの甘ったるい匂いが充満している、小さな円形の開けた場所へとたどり着いた。
ランタンの灯りが、揺らめく霧の中に、巨大な、そしてこの世のものとは思えないほど奇妙な影を映し出した。
それは、巨大な蛾のようだった。
しかし、その羽は、まるでステンドグラスのように色とりどりの模様で彩られ、動くたびに、キラキラと輝く鱗粉を周囲に撒き散らしている。
羽の大きさは、アルトの身長を優に超えているだろう。
その巨大な蛾が、複数、霧の中でゆっくりと、しかし優雅に舞っていた。
(あれが……フォギーモス……!?)
間違いない。
あれが、この惑わしの森を生み出している元凶だ。
精神的に大きく消耗しながらも、アルトはようやく原因へとたどり着いたのだ。
視界を奪い、精神を蝕む幻覚の鱗粉を撒き散らす、厄介極まりない敵。
アルトは、この未知なる魔物に、どう立ち向かうのか。
霧の奥で、色とりどりの巨大な羽が、不気味に揺らめいていた。
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