奈落の聖女

シマセイ

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第四十三話:川面の誘惑、試される夜

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霧隠の里を後にしてから、私は、ただひたすらに、灰色の川に沿って歩き続けた。

エララさんの警告が、常に、頭の片隅にあったから。

『日が暮れる前に、できるだけ遠くへ。そして、夜は、決して、川に近づいてはいけない』

その言葉に突き動かされるように、私は、ほとんど休憩も取らず、足を前に進めた。

新しいブーツは、確かに歩きやすかったけれど、それでも、慣れない道なき道を行くのは、体力を激しく消耗する。

時折、アレンさんの本で見た、食べられる木の実を口にし、水筒の水を飲み、そして、胸の奥の『聖なる力』を、ほんの少しだけ引き出して、疲労を誤魔化す。

それが、私の、精一杯だった。

昼間の川は、ただ、雄大で、どこか物憂げな灰色の水を、黙々と流しているだけに見える。

でも、注意深く観察していると、時折、風もないのに、川面の一部が、奇妙な模様を描いて揺らめいたり、川岸の茂みが、不自然に、ざわざわと音を立てたりするような気がした。

気のせいかもしれない。

エララさんの話を聞いて、私が、過敏になっているだけかもしれない。

それでも、その度に、私の心臓は、小さく、嫌な音を立てた。

太陽が、西の空を、赤く染め始める。

まずい、夜が来る。

私は、焦って、川から離れた、少し小高い場所を探し始めた。

エララさんの言いつけ通り、川岸から、できるだけ距離を取らなければ。

幸い、大きな岩がいくつも重なり合った、ちょうど良い窪地を見つけることができた。

ここなら、雨風も、多少はしのげるだろうし、川からも、直接は見えないはずだ。

私は、落ちていた乾いた枝をできるだけ集めた。

エララさんは、火を焚けと言っていた。

火は、獣除けにもなるし、暖も取れる。

でも……。

火を焚けば、逆に、何かを、呼び寄せてしまうのではないか?

迷った末に、私は、すぐには火を点けず、いつでも点けられるように、準備だけしておくことにした。

そして、エララさんにもらった、清めの塩。

これを、自分の周りに、ぐるりと、薄く撒いておく。

気休めにしかならないかもしれないけれど、やらないよりはマシだと思った。

ボリンにもらった、最後の干し肉を、ゆっくりと噛みしめる。

これが、最後の食料だ。

明日、水車の町に着けなければ、私は、本格的に飢えることになるだろう。

やがて、空から、完全に光が失われ、深い、深い闇が、森を包み込んだ。

眼下に広がるはずの灰色の川も、今は、ただ、黒い帯のように見えるだけ。

しん、と静まり返った森に、私の、荒い呼吸の音だけが響く。

その時だった。

最初は、気のせいかと思った。

川の方から、微かに……本当に微かに、何か、光が見えるような……。

目を凝らす。

間違いじゃない。

川面の上、少し下流の方に、蛍火のような、青白い光が、いくつか、ふわり、ふわりと、漂っている。

それは、まるで、誰かが、提灯でも持って、歩いているかのようだ。

でも、こんな時間に、川辺を歩く者など……。

そして、光だけではなかった。

耳を澄ますと、風に乗って、何か、囁くような声が、聞こえてくる気がする。

それは、言葉にはなっていない。

ただ、くすくす、と笑うような……あるいは、すすり泣くような……。

心を、ざわつかせる、奇妙な音。

(……これが、『水影』……?)

エララさんの警告が、現実のものとなって、目の前に現れた。

全身の毛が、総毛立つ。

恐怖で、体が、動かせない。

光は、ゆっくりと、こちらへ近づいてくる……ような気がする。

囁き声も、だんだんと、はっきりと、私を呼んでいるように、聞こえてくる……。

『……おいで……』
『……こっちへ……』
『……さびしいよ……』

甘く、物悲しいような、誘惑の声。

思わず、そちらへ、歩き出してしまいそうになる。

水辺へ行けば、この孤独から、解放されるのかもしれない……。

そんな、危険な考えが、頭をよぎる。

(ダメだ!!!)

私は、心の中で、絶叫した。

エララさんの言葉を、思い出す。

『決して、応えたり、近づいたりしてはいけない』

私は、岩陰に、さらに深く身を隠し、両手で、強く耳を塞いだ。

短剣を、胸元に、きつく抱きしめる。

そして、意識を、胸の奥の『聖なる力』に集中させた。

温かい、金色の光を、心の中で、強く、強く、イメージする。

お願い、私を守って……!

光よ……!

不思議なことに、聖なる光を意識すると、耳元で囁いていたような、不気味な声が、少しだけ、遠のいたような気がした。

幻惑魔法で、自分の周りの気配を、できるだけ、消す。

ここに、私はいない。

ただの、岩と、闇だけ……。

どれくらいの時間が、経っただろうか。

誘惑の声と、妖しい光は、夜明けが近づくまで、何度も、私を試すかのように、現れては、消え、また、現れた。

その度に、私は、ただ、じっと耐え続けた。

恐怖と戦いながら。

聖なる光と、幻惑魔法を、頼りにしながら。

そして……。

東の空が、ほんのりと、明るみ始めた時。

まるで、嘘のように、川辺の怪しい気配は、すっと消え去った。

夜の闇と共に、『水影』もまた、姿を消したのだ。

私は、全身の力が抜けるのを感じながら、その場に、へたり込んだ。

生きた心地がしなかった……。

夜明けの光の中で、灰色の川は、また、昨日と同じ、ただの、物憂げな川の姿に戻っている。

でも、私は、知ってしまった。

この川が、夜には、恐ろしい顔を見せることを。

私は、生き延びた。

エララさんの警告と、そして、私の、わずかな力が、私を守ってくれた。

でも、水車の町までは、まだ、道のりは遠い。

もう一度、あの、恐ろしい夜を、越えなければならないかもしれない。

私は、疲労困憊の体に鞭打って、立ち上がった。

朝日が、昇りきる前に、少しでも、先へ進まなければ。

夜が、再び、訪れる前に。
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