奈落の聖女

シマセイ

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第五十九話:山麓の獣、試される光の刃

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あの、緑の谷間で見つけた、束の間の安らぎ。

それは、私に、肉体的にも、精神的にも、大きな回復をもたらしてくれた。

そして、何よりも、私自身の内なる『聖なる力』への、新たな気づきと、かすかな自信を与えてくれたのだ。

私は、その力を胸に、再び、あの三つ又の山を目指し、その麓(ふもと)へと続く、険しい丘陵地帯を登り始めた。

荒野とは違い、ここには、背の低い、しかし、頑健な木々が生い茂り、足元には、鋭い岩や、滑りやすい苔が、行く手を阻む。

空気も、心なしか、ひんやりとして、標高が上がってきていることを感じさせた。

時折、谷間を吹き抜ける風の音に混じって、聞いたことのない、甲高い獣の鳴き声が、遠くから響いてくる。

ここは、今まで私が通ってきたどの場所よりも、さらに、人の手が加わっていない、手つかずの自然が残っているようだった。

私は、常に、周囲への警戒を怠らなかった。

『感覚強化』の練習で鍛えた五感を、最大限に働かせ、道の無い斜面を、慎重に登っていく。

新しいブーツは、不整地でも、しっかりと地面を捉えてくれた。

そんな、緊張感に満ちた登攀(とうはん)が、どれくらい続いただろうか。

少し開けた、岩がちな広場のような場所に出た。

ここで、少しだけ休憩を取ろうか、と、水筒に手を伸ばした、その瞬間だった。

「キシャアアアッ!」

鋭い、鳥の鳴き声にも似た、しかし、もっと、金属的な響きを持つ、威嚇音が、すぐ近くで響いた!

咄嗟に、私は、その場に身を伏せる。

音のした方向を見ると、岩陰から、二匹の、奇妙な姿をした獣が、こちらを睨みつけていた。

体長は、中型の犬くらい。

でも、その体は、トカゲのように、硬質で、鈍い光沢を放つ鱗(うろこ)に覆われている。

手足には、鋭い鉤爪(かぎづめ)があり、岩肌を、まるで、吸い付くように移動していた。

口からは、細く、尖った舌が、チロチロと覗いている。

(……魔物……!?)

今まで遭遇した、野犬や、墓荒らし甲虫とは、明らかに、違う。

もっと、原始的で、凶暴な気配。

おそらく、この山岳地帯に棲む、崖駆け(がけかげ)と呼ばれるような種類の、小型の捕食者なのだろう。

数は、二匹。

彼らは、私を、獲物として、あるいは、縄張りを荒らす侵入者として、認識したようだった。

一匹が、再び、甲高い威嚇音を発すると、岩から岩へと、目にも止まらぬ速さで飛び移り、私に向かって、直線的に突進してきた!

「……っ!」

もう、逃げている暇はない!

私は、咄嗟に、錆びた短剣を抜き放ち、胸の奥の『聖なる力』を、刃に集中させる!

カッ!

短剣が、眩い、金色の光を放つ。

以前よりも、ずっと、強く、安定した光だ。

崖駆けは、その光に、一瞬だけ、怯んだように見えた。

でも、すぐに、その凶暴な本能が、恐怖を上回ったのだろう。

鋭い爪を振りかざし、私の顔面めがけて、飛びかかってきた!

「シールド!」

間一髪、光壁を展開する!

ガンッ!

鋭い爪が、光壁に当たり、激しい音と共に、火花が散る。

シールドが、大きく歪み、私の魔力が、急速に奪われていく。

(……なんて、速さ、そして、力……!)

もう一匹が、その隙を逃さず、別の角度から、私に襲いかかろうとしていた。

私は、咄嗟に、幻惑魔法で、自分のすぐ横に、もう一体の「私」の幻影を作り出す。

一瞬、二匹目の崖駆けの注意が、そちらへ逸れた。

その隙に、私は、最初の崖駆けに向き直り、光る短剣を、力任せに、突き出した!

「はあああっ!」

手応えがあった。

短剣は、崖駆けの硬い鱗を、わずかに貫き、その脇腹へと突き刺さる。

「ギシャアアアアアアッ!」

崖駆けは、今まで聞いたこともないような、甲高い悲鳴を上げた。

そして、その傷口から、まるで、聖なる光に焼かれるように、黒い煙が、薄く立ち上る。

やはり、この力は、魔物に対して、特別な効果があるのかもしれない!

しかし、致命傷には、至らなかったようだ。

崖駆けは、傷を押さえながらも、さらに凶暴な目で、私を睨みつけてくる。

そして、もう一匹も、幻影が消えたことに気づき、再び、私へと向かってきた。

二方向からの、挟み撃ち。

まずい……!

私は、アレンさんの言葉を思い出した。

『力を、一点に集中させろ。矢のように、鋭く、速く……!』

私は、残っている魔力と、『聖なる力』の全てを、右腕に、そして、短剣の先端へと、集束させるイメージを描いた。

そして、向かってくる崖駆けの一匹に狙いを定め、力の限り、短剣を突き出すと同時に、叫んだ!

「衝撃(しょうげき)……光よ!!」

短剣の先端から、金色の光を纏った、目に見えない力の塊が、撃ち出された!

それは、ただの『衝撃』ではない。

『聖なる力』を乗せた、浄化の波動!

ドォンッ!

力の塊は、崖駆けの一匹に直撃し、その体を、数メートル後方へと、吹き飛ばした!

崖駆けは、岩壁に叩きつけられ、ぐったりと、動かなくなる。

もう一匹は、仲間の、あまりのやられっぷりに、明らかに、恐怖の色を見せた。

そして、甲高い悲鳴を一つ残すと、一目散に、岩陰へと逃げていった。

……静寂が、戻る。

私は、肩で、激しく息をしながら、その場に、へたり込んだ。

体中の力が、抜けていくようだ。

魔力も、『聖なる力』も、ほとんど、使い果たしてしまった。

腕や足には、浅いけれど、いくつかの引っ掻き傷ができている。

革の鎧がなければ、もっと、ひどいことになっていただろう。

でも……。

(……勝った……)

私は、自分の力で、魔物を、倒したのだ。

幻惑で惑わせ、聖なる刃で傷を負わせ、そして、最後の力を振り絞って、撃退した。

これが、私の、初めての、本当の意味での「勝利」だった。

私は、震える手で、倒した崖駆けの亡骸に近づいた。

証拠として、その鋭い爪を、一つ、折り取って、布袋に入れる。

ギルドはないけれど、いつか、何かの役に立つかもしれない。

そして、何よりも、これは、私が戦い、生き残った証なのだから。

疲労困憊だったけれど、心の中には、今まで感じたことのないような、熱いものが込み上げていた。

それは、恐怖を乗り越えたことによる、高揚感。

そして、自分の力で、運命を切り開くことができるかもしれないという、確かな手応え。

私は、傷の手当てをし、わずかな水を飲み、そして、再び、立ち上がった。

三つ又の山は、もう、すぐそこに見えている。

その頂きは、雲に隠れ、まだ、全容を見せてはくれない。

あの山の先に、何が待っているのか、わからない。

でも、私は、もう、ただ、逃げるだけの存在ではない。

この手で、道を切り開く。

そう、決意を新たにして、私は、再び、険しい山道へと、足を踏み出したのだった。
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