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その夜、修道院は深い静寂に包まれていた。
祈りを終えた修道女たちが寝所に下がったあと、私は一人、蝋燭の明かりだけを頼りに回廊を歩いた。
フェルナン神官の書斎は、修道院の最も奥まった塔にある。
扉をノックすると、すぐに控えめな声が返ってきた。
「どうぞ。鍵は開いています」
中は思った以上に簡素だった。書棚と机、窓際の椅子。
書きかけの手記が、開いたまま置かれている。
「遅い時間にすみません」
「いいえ。あなたにこそ、語るべき時を待っていました」
フェルナン神官はゆっくりと椅子を勧めた。
そして机の引き出しから、一冊の帳面を取り出す。
「これは、神殿の内部で記録されている“聖女候補登録帳”。正式なものではありませんが、実務者の間で共有されている控えです」
差し出された帳面を開き、私はすぐに異変に気づいた。
「……リリー=シャルマン。生年、出自、神殿初登録地……すべてが空欄?」
「そうです。通常であれば、候補者には幼少期からの信仰教育の記録が残されているものですが……彼女の欄だけ、まるで白紙のように扱われている」
「それでは、どこで、誰によって、どのように“候補”とされたかも……」
「まったく不明。だがこの書には、“王妃の直接推薦により記録作成免除”という走り書きがある。異例中の異例です」
──ユリアナ王妃。
すべてが繋がっていく。
王妃が推した平民の少女。神殿が与えた“奇跡”。王太子の“正義”としての断罪劇。
「彼女は“聖女になれる資質”があったのではなく、“聖女にしなければならない事情”があったのですね」
「そうでしょう。そしてその“事情”の中に、あなたという存在がいた。だからこそ、排除された」
静かな口調の中に、怒りに近い色が宿っていた。
フェルナン神官は、何もかもを見てきたのだ。
欺瞞と沈黙の中で、信仰を損なわぬために、ただ“正気を保つ”ことだけを選び続けて。
「……あなたに頼んでもよろしいでしょうか」
「何を?」
「この書を、神殿外へ。正しい人々のもとに届けてほしい。私はもう“証人”にはなれない。立場を失えば、今度こそ……」
言葉を途中で止めた彼の声は、少しだけ震えていた。
「わかりました。私が引き受けます。これは──あなたの信仰の証そのものですから」
帳面を手に取り、私は静かに立ち上がる。
目を伏せる神官に、私は深く頭を下げた。
「ありがとう。あなたがいてくれたおかげで、私はこの手で、真実を持ち帰ることができます」
そしてこの夜、
私は“悪役令嬢”としてではなく、
一人の名もなき証人として、静かな戦いに足を踏み入れた。
祈りを終えた修道女たちが寝所に下がったあと、私は一人、蝋燭の明かりだけを頼りに回廊を歩いた。
フェルナン神官の書斎は、修道院の最も奥まった塔にある。
扉をノックすると、すぐに控えめな声が返ってきた。
「どうぞ。鍵は開いています」
中は思った以上に簡素だった。書棚と机、窓際の椅子。
書きかけの手記が、開いたまま置かれている。
「遅い時間にすみません」
「いいえ。あなたにこそ、語るべき時を待っていました」
フェルナン神官はゆっくりと椅子を勧めた。
そして机の引き出しから、一冊の帳面を取り出す。
「これは、神殿の内部で記録されている“聖女候補登録帳”。正式なものではありませんが、実務者の間で共有されている控えです」
差し出された帳面を開き、私はすぐに異変に気づいた。
「……リリー=シャルマン。生年、出自、神殿初登録地……すべてが空欄?」
「そうです。通常であれば、候補者には幼少期からの信仰教育の記録が残されているものですが……彼女の欄だけ、まるで白紙のように扱われている」
「それでは、どこで、誰によって、どのように“候補”とされたかも……」
「まったく不明。だがこの書には、“王妃の直接推薦により記録作成免除”という走り書きがある。異例中の異例です」
──ユリアナ王妃。
すべてが繋がっていく。
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「彼女は“聖女になれる資質”があったのではなく、“聖女にしなければならない事情”があったのですね」
「そうでしょう。そしてその“事情”の中に、あなたという存在がいた。だからこそ、排除された」
静かな口調の中に、怒りに近い色が宿っていた。
フェルナン神官は、何もかもを見てきたのだ。
欺瞞と沈黙の中で、信仰を損なわぬために、ただ“正気を保つ”ことだけを選び続けて。
「……あなたに頼んでもよろしいでしょうか」
「何を?」
「この書を、神殿外へ。正しい人々のもとに届けてほしい。私はもう“証人”にはなれない。立場を失えば、今度こそ……」
言葉を途中で止めた彼の声は、少しだけ震えていた。
「わかりました。私が引き受けます。これは──あなたの信仰の証そのものですから」
帳面を手に取り、私は静かに立ち上がる。
目を伏せる神官に、私は深く頭を下げた。
「ありがとう。あなたがいてくれたおかげで、私はこの手で、真実を持ち帰ることができます」
そしてこの夜、
私は“悪役令嬢”としてではなく、
一人の名もなき証人として、静かな戦いに足を踏み入れた。
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