19 / 32
19
アデルハイド館の窓外には、鋭利な氷柱が軒を飾り、北方の冬が着実にその足音を響かせていた。
しかし、館の内部に満ちているのは、寒冷な気候とは裏腹の、熾烈なまでの熱気である。それは暖炉の火によるものではなく、一人の令嬢が放つ、截然とした意志の放射によるものであった。
ディアナ・グラナードは、羊皮紙の海に囲まれながら、指先一つ動かさずに盤面を俯瞰する将帥のような面持ちで座っていた。
「……北部の街道、第三区画の荷馬車の停滞。原因は橋の老朽化ではなく、検問所における書類の複写回数の無駄ですわ。三枚も書かせる必要がどこにありますの? 一枚にまとめなさい。それだけで、物流の血流は二割改善いたします」
彼女の吐き出す言葉は、淀みなく、かつ一切の慈悲を排している。
傍らに控える役人たちは、もはや彼女を「王国から来た亡命者」とは見ていなかった。彼らの目には、ディアナこそがこの停滞した領地に息を吹き込む、唯一無二の心臓に見えていたのである。
「は、はい! 直ちにそのように手配いたします。……しかし、ディアナ様。そのように簡略化して、不正が起きる心配はございませんか?」
「不正? ……ふふ、笑わせないで。不正とは、手続きが複雑であればあるほど、その隙間に寄生するものですわ。透明な水に魚は隠れられません。数字を単純化することこそが、最大の防御なのです」
ディアナは、冷めた紅茶に一口だけ唇を湿らせた。
彼女がアデルハイドに来てから、まだ十日も経っていない。しかし、その短い期間に、領内の物流網は劇的な変貌を遂げていた。
山積していた未処理の嘆願書は、彼女の峻烈な手腕によって「即決」「保留」「廃棄」の三色に分けられ、それぞれの運命を辿った。不明瞭だった徴税システムは、彼女が考案した新帳簿によって、一ギル単位の狂いもなく|白日の下に晒されている。
「……実に、美しい。混沌の中から秩序が萌芽する瞬間というのは、何度見ても飽きないものだ」
シルヴァン・エデルシュタインは、部屋の隅で書物を広げながら、独り言のように呟いた。
彼は、ディアナに「仕事」を強制しないと誓った。だが、彼女が自らの潔癖な知性に突き動かされ、自発的に混沌を蹂躙するのを止めるつもりもなかった。
「殿下、あちらの書棚にある『帝国道路公債の推移』に関する資料、三頁目の計算が間違っておりますわよ。……おそらく、十五年前の担当者が、利息の複利計算を失念したのでしょう。帝国の損失は、現在の価値で金貨五百枚分に相当いたしますわ」
ディアナは、前を向いたまま、あたかも昨日の夕食の献立を思い出すかのような気軽さで、帝国の重大な失策を指摘した。
「……十五年前の計算ミスを、背中越しに見抜くのか。貴女の目は、背後にも付いているらしいな」
「いえ、数字の歪さは、空間の調和を乱しますもの。私の耳には、その間違いが不協和音のように響いて聞こえるのです」
ディアナは、ついにペンを置いた。
彼女の整理した新制度により、アデルハイドの市場には活気が戻り、商兵たちはかつてない速度で領内を駆け巡っていた。冬を前にして、領民たちの顔には希望の光が宿り始めている。
一方で、彼女は時折、遠い南の空を眺めることがあった。
そこには、彼女を「悪役」として追放した王国がある。彼女がいなくなったことで、あの国の細い毛細血管が、どれほど速やかに壊死を始めているか。それを想像することは、今の彼女にとって唯一の、毒を含んだ娯楽であった。
「……さて、殿下。領内の大掃除は、概ね片付きましたわ。次は、貴方のその杜撰な蔵書の整理に取り掛かりましょうか。……ああ、誤解しないでください。これは仕事ではなく、私の『休暇』を彩るための、ささやかな暇つぶしに過ぎませんから」
ディアナの唇に、朦朧とした月光のような、妖しくも美しい笑みが浮かんだ。
帝国の北で、一人の令嬢が繰り広げる「整理整頓」という名の蹂躙。それは、後に帝国の経済を盤石なものとする、偉大なる飛躍の序曲であった。
彼女の指先が動くたびに、世界は少しずつ、しかし決定的に作り替えられていく。ディアナ・グラナードは、自由という名の翼を得て、今や自らの知性という大空を、思うままに羽ばたいていたのである。
しかし、館の内部に満ちているのは、寒冷な気候とは裏腹の、熾烈なまでの熱気である。それは暖炉の火によるものではなく、一人の令嬢が放つ、截然とした意志の放射によるものであった。
ディアナ・グラナードは、羊皮紙の海に囲まれながら、指先一つ動かさずに盤面を俯瞰する将帥のような面持ちで座っていた。
「……北部の街道、第三区画の荷馬車の停滞。原因は橋の老朽化ではなく、検問所における書類の複写回数の無駄ですわ。三枚も書かせる必要がどこにありますの? 一枚にまとめなさい。それだけで、物流の血流は二割改善いたします」
彼女の吐き出す言葉は、淀みなく、かつ一切の慈悲を排している。
傍らに控える役人たちは、もはや彼女を「王国から来た亡命者」とは見ていなかった。彼らの目には、ディアナこそがこの停滞した領地に息を吹き込む、唯一無二の心臓に見えていたのである。
「は、はい! 直ちにそのように手配いたします。……しかし、ディアナ様。そのように簡略化して、不正が起きる心配はございませんか?」
「不正? ……ふふ、笑わせないで。不正とは、手続きが複雑であればあるほど、その隙間に寄生するものですわ。透明な水に魚は隠れられません。数字を単純化することこそが、最大の防御なのです」
ディアナは、冷めた紅茶に一口だけ唇を湿らせた。
彼女がアデルハイドに来てから、まだ十日も経っていない。しかし、その短い期間に、領内の物流網は劇的な変貌を遂げていた。
山積していた未処理の嘆願書は、彼女の峻烈な手腕によって「即決」「保留」「廃棄」の三色に分けられ、それぞれの運命を辿った。不明瞭だった徴税システムは、彼女が考案した新帳簿によって、一ギル単位の狂いもなく|白日の下に晒されている。
「……実に、美しい。混沌の中から秩序が萌芽する瞬間というのは、何度見ても飽きないものだ」
シルヴァン・エデルシュタインは、部屋の隅で書物を広げながら、独り言のように呟いた。
彼は、ディアナに「仕事」を強制しないと誓った。だが、彼女が自らの潔癖な知性に突き動かされ、自発的に混沌を蹂躙するのを止めるつもりもなかった。
「殿下、あちらの書棚にある『帝国道路公債の推移』に関する資料、三頁目の計算が間違っておりますわよ。……おそらく、十五年前の担当者が、利息の複利計算を失念したのでしょう。帝国の損失は、現在の価値で金貨五百枚分に相当いたしますわ」
ディアナは、前を向いたまま、あたかも昨日の夕食の献立を思い出すかのような気軽さで、帝国の重大な失策を指摘した。
「……十五年前の計算ミスを、背中越しに見抜くのか。貴女の目は、背後にも付いているらしいな」
「いえ、数字の歪さは、空間の調和を乱しますもの。私の耳には、その間違いが不協和音のように響いて聞こえるのです」
ディアナは、ついにペンを置いた。
彼女の整理した新制度により、アデルハイドの市場には活気が戻り、商兵たちはかつてない速度で領内を駆け巡っていた。冬を前にして、領民たちの顔には希望の光が宿り始めている。
一方で、彼女は時折、遠い南の空を眺めることがあった。
そこには、彼女を「悪役」として追放した王国がある。彼女がいなくなったことで、あの国の細い毛細血管が、どれほど速やかに壊死を始めているか。それを想像することは、今の彼女にとって唯一の、毒を含んだ娯楽であった。
「……さて、殿下。領内の大掃除は、概ね片付きましたわ。次は、貴方のその杜撰な蔵書の整理に取り掛かりましょうか。……ああ、誤解しないでください。これは仕事ではなく、私の『休暇』を彩るための、ささやかな暇つぶしに過ぎませんから」
ディアナの唇に、朦朧とした月光のような、妖しくも美しい笑みが浮かんだ。
帝国の北で、一人の令嬢が繰り広げる「整理整頓」という名の蹂躙。それは、後に帝国の経済を盤石なものとする、偉大なる飛躍の序曲であった。
彼女の指先が動くたびに、世界は少しずつ、しかし決定的に作り替えられていく。ディアナ・グラナードは、自由という名の翼を得て、今や自らの知性という大空を、思うままに羽ばたいていたのである。
あなたにおすすめの小説
愛すべきマリア
志波 連
恋愛
幼い頃に婚約し、定期的な交流は続けていたものの、互いにこの結婚の意味をよく理解していたため、つかず離れずの穏やかな関係を築いていた。
学園を卒業し、第一王子妃教育も終えたマリアが留学から戻った兄と一緒に参加した夜会で、令嬢たちに囲まれた。
家柄も美貌も優秀さも全て揃っているマリアに嫉妬したレイラに指示された女たちは、彼女に嫌味の礫を投げつける。
早めに帰ろうという兄が呼んでいると知らせを受けたマリアが発見されたのは、王族の居住区に近い階段の下だった。
頭から血を流し、意識を失っている状態のマリアはすぐさま医務室に運ばれるが、意識が戻ることは無かった。
その日から十日、やっと目を覚ましたマリアは精神年齢が大幅に退行し、言葉遣いも仕草も全て三歳児と同レベルになっていたのだ。
体は16歳で心は3歳となってしまったマリアのためにと、兄が婚約の辞退を申し出た。
しかし、初めから結婚に重きを置いていなかった皇太子が「面倒だからこのまま結婚する」と言いだし、予定通りマリアは婚姻式に臨むことになった。
他サイトでも掲載しています。
表紙は写真ACより転載しました。
元侯爵令嬢は冷遇を満喫する
cyaru
恋愛
第三王子の不貞による婚約解消で王様に拝み倒され、渋々嫁いだ侯爵令嬢のエレイン。
しかし教会で結婚式を挙げた後、夫の口から開口一番に出た言葉は
「王命だから君を娶っただけだ。愛してもらえるとは思わないでくれ」
夫となったパトリックの側には長年の恋人であるリリシア。
自分もだけど、向こうだってわたくしの事は見たくも無いはず!っと早々の別居宣言。
お互いで交わす契約書にほっとするパトリックとエレイン。ほくそ笑む愛人リリシア。
本宅からは屋根すら見えない別邸に引きこもりお1人様生活を満喫する予定が・・。
※専門用語は出来るだけ注釈をつけますが、作者が専門用語だと思ってない専門用語がある場合があります
※作者都合のご都合主義です。
※リアルで似たようなものが出てくると思いますが気のせいです。
※架空のお話です。現実世界の話ではありません。
※爵位や言葉使いなど現実世界、他の作者さんの作品とは異なります(似てるモノ、同じものもあります)
※誤字脱字結構多い作者です(ごめんなさい)コメント欄より教えて頂けると非常に助かります。
【完結】「俺は2番目に好きな女と結婚するんだ」と言っていた婚約者と婚約破棄したいだけだったのに、なぜか契約聖女になってしまいました
As-me.com
恋愛
完結しました。
番外編(編集済み)と、外伝(新作)アップしました。
とある日、偶然にも婚約者が「俺は2番目に好きな女と結婚するんだ」とお友達に楽しそうに宣言するのを聞いてしまいました。
例え2番目でもちゃんと愛しているから結婚にはなんの問題も無いとおっしゃっていますが……そんな婚約者様がとんでもない問題児だと発覚します。
なんてことでしょう。愛も無い、信頼も無い、領地にメリットも無い。そんな無い無い尽くしの婚約者様と結婚しても幸せになれる気がしません。
ねぇ、婚約者様。私はあなたと結婚なんてしたくありませんわ。絶対婚約破棄しますから!
あなたはあなたで、1番好きな人と結婚してくださいな。
※この作品は『「俺は2番目に好きな女と結婚するんだ」と婚約者が言っていたので、1番好きな女性と結婚させてあげることにしました。 』を書き直しています。内容はほぼ一緒ですが、細かい設定や登場人物の性格などを書き直す予定です。
侯爵家の婚約者
やまだごんた
恋愛
侯爵家の嫡男カインは、自分を見向きもしない母に、なんとか認められようと努力を続ける。
7歳の誕生日を王宮で祝ってもらっていたが、自分以外の子供を可愛がる母の姿をみて、魔力を暴走させる。
その場の全員が死を覚悟したその時、1人の少女ジルダがカインの魔力を吸収して救ってくれた。
カインが魔力を暴走させないよう、王はカインとジルダを婚約させ、定期的な魔力吸収を命じる。
家族から冷たくされていたジルダに、カインは母から愛されない自分の寂しさを重ね、よき婚約者になろうと努力する。
だが、母が死に際に枕元にジルダを呼んだのを知り、ジルダもまた自分を裏切ったのだと絶望する。
17歳になった2人は、翌年の結婚を控えていたが、関係は歪なままだった。
そんな中、カインは仕事中に魔獣に攻撃され、死にかけていたところを救ってくれたイレリアという美しい少女と出会い、心を通わせていく。
全86話+番外編の予定
いくら政略結婚だからって、そこまで嫌わなくてもいいんじゃないですか?いい加減、腹が立ってきたんですけど!
夢呼
恋愛
伯爵令嬢のローゼは大好きな婚約者アーサー・レイモンド侯爵令息との結婚式を今か今かと待ち望んでいた。
しかし、結婚式の僅か10日前、その大好きなアーサーから「私から愛されたいという思いがあったら捨ててくれ。それに応えることは出来ない」と告げられる。
ローゼはその言葉にショックを受け、熱を出し寝込んでしまう。数日間うなされ続け、やっと目を覚ました。前世の記憶と共に・・・。
愛されることは無いと分かっていても、覆すことが出来ないのが貴族間の政略結婚。日本で生きたアラサー女子の「私」が八割心を占めているローゼが、この政略結婚に臨むことになる。
いくら政略結婚といえども、親に孫を見せてあげて親孝行をしたいという願いを持つローゼは、何とかアーサーに振り向いてもらおうと頑張るが、鉄壁のアーサーには敵わず。それどころか益々嫌われる始末。
一体私の何が気に入らないんだか。そこまで嫌わなくてもいいんじゃないんですかね!いい加減腹立つわっ!
世界観はゆるいです!
カクヨム様にも投稿しております。
※10万文字を超えたので長編に変更しました。
【完結】彼の瞳に映るのは
たろ
恋愛
今夜も彼はわたしをエスコートして夜会へと参加する。
優しく見つめる彼の瞳にはわたしが映っているのに、何故かわたしの心は何も感じない。
そしてファーストダンスを踊ると彼はそっとわたしのそばからいなくなる。
わたしはまた一人で佇む。彼は守るべき存在の元へと行ってしまう。
★ 短編から長編へ変更しました。
病めるときも健やかなるときも、お前だけは絶対許さないからなマジで
あだち
恋愛
ペルラ伯爵家の跡取り娘・フェリータの婚約者が、王女様に横取りされた。どうやら、伯爵家の天敵たるカヴァリエリ家の当主にして王女の側近・ロレンツィオが、裏で糸を引いたという。
怒り狂うフェリータは、大事な婚約者を取り返したい一心で、祝祭の日に捨て身の行動に出た。
……それが結果的に、にっくきロレンツィオ本人と結婚することに結びつくとも知らず。
***
『……いやホントに許せん。今更言えるか、実は前から好きだったなんて』
(完結)あなたの愛は諦めました (全5話)
青空一夏
恋愛
私はライラ・エト伯爵夫人と呼ばれるようになって3年経つ。子供は女の子が一人いる。子育てをナニーに任せっきりにする貴族も多いけれど、私は違う。はじめての子育ては夫と協力してしたかった。けれど、夫のエト伯爵は私の相談には全く乗ってくれない。彼は他人の相談に乗るので忙しいからよ。
これは自分の家庭を顧みず、他人にいい顔だけをしようとする男の末路を描いた作品です。
ショートショートの予定。
ゆるふわ設定。ご都合主義です。タグが増えるかもしれません。