悪役令嬢の休暇は婚約破棄から始まります

有栖川灯里

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アデルハイド館の窓外には、鋭利えいりな氷柱が軒を飾り、北方の冬が着実にその足音を響かせていた。

 しかし、館の内部に満ちているのは、寒冷な気候とは裏腹の、熾烈しれつなまでの熱気である。それは暖炉の火によるものではなく、一人の令嬢が放つ、截然せつぜんとした意志の放射によるものであった。

 ディアナ・グラナードは、羊皮紙の海に囲まれながら、指先一つ動かさずに盤面ばんめんを俯瞰する将帥のような面持ちで座っていた。

「……北部の街道、第三区画の荷馬車の停滞。原因は橋の老朽化ではなく、検問所における書類の複写ふくしゃ回数の無駄ですわ。三枚も書かせる必要がどこにありますの? 一枚にまとめなさい。それだけで、物流の血流は二割改善いたします」

 彼女の吐き出す言葉は、淀みなく、かつ一切の慈悲を排している。

 傍らに控える役人たちは、もはや彼女を「王国から来た亡命者」とは見ていなかった。彼らの目には、ディアナこそがこの停滞した領地に息を吹き込む、唯一無二の心臓しんぞうに見えていたのである。

「は、はい! 直ちにそのように手配いたします。……しかし、ディアナ様。そのように簡略化して、不正が起きる心配はございませんか?」

「不正? ……ふふ、笑わせないで。不正とは、手続きが複雑であればあるほど、その隙間すきまに寄生するものですわ。透明な水に魚は隠れられません。数字を単純化することこそが、最大の防御なのです」

 ディアナは、冷めた紅茶に一口だけ唇を湿らせた。

 彼女がアデルハイドに来てから、まだ十日も経っていない。しかし、その短い期間に、領内の物流網は劇的な変貌を遂げていた。

 山積していた未処理の嘆願書は、彼女の峻烈しゅんれつな手腕によって「即決」「保留」「廃棄」の三色に分けられ、それぞれの運命を辿った。不明瞭だった徴税システムは、彼女が考案した新帳簿によって、一ギル単位の狂いもなく|白日の下に晒されている。

「……実に、美しい。混沌の中から秩序が萌芽ほうがする瞬間というのは、何度見ても飽きないものだ」

 シルヴァン・エデルシュタインは、部屋の隅で書物を広げながら、独り言のように呟いた。

 彼は、ディアナに「仕事」を強制しないと誓った。だが、彼女が自らの潔癖けっぺきな知性に突き動かされ、自発的に混沌を蹂躙するのを止めるつもりもなかった。

「殿下、あちらの書棚にある『帝国道路公債の推移』に関する資料、三頁目の計算が間違っておりますわよ。……おそらく、十五年前の担当者が、利息の複利計算を失念しつねんしたのでしょう。帝国の損失は、現在の価値で金貨五百枚分に相当いたしますわ」

 ディアナは、前を向いたまま、あたかも昨日の夕食の献立を思い出すかのような気軽さで、帝国の重大な失策しっさくを指摘した。

「……十五年前の計算ミスを、背中越しに見抜くのか。貴女の目は、背後にも付いているらしいな」

「いえ、数字のいびつさは、空間の調和ちょうわを乱しますもの。私の耳には、その間違いが不協和音のように響いて聞こえるのです」

 ディアナは、ついにペンを置いた。

 彼女の整理した新制度により、アデルハイドの市場には活気が戻り、商兵たちはかつてない速度で領内を駆け巡っていた。冬を前にして、領民たちの顔には希望の光が宿り始めている。

 一方で、彼女は時折、遠い南の空を眺めることがあった。

 そこには、彼女を「悪役」として追放した王国がある。彼女がいなくなったことで、あの国の細い毛細血管もうさいけっかんが、どれほど速やかに壊死えしを始めているか。それを想像することは、今の彼女にとって唯一の、毒を含んだ娯楽であった。

「……さて、殿下。領内の大掃除は、概ね片付きましたわ。次は、貴方のその杜撰ずさんな蔵書の整理に取り掛かりましょうか。……ああ、誤解しないでください。これは仕事ではなく、私の『休暇』を彩るための、ささやかな暇つぶしに過ぎませんから」

 ディアナの唇に、朦朧もうろうとした月光のような、妖しくも美しい笑みが浮かんだ。

 帝国の北で、一人の令嬢が繰り広げる「整理整頓」という名の蹂躙じゅうりん。それは、後に帝国の経済を盤石なものとする、偉大なる飛躍の序曲であった。

 彼女の指先が動くたびに、世界は少しずつ、しかし決定的に作り替えられていく。ディアナ・グラナードは、自由という名の翼を得て、今や自らの知性という大空を、思うままに羽ばたいていたのである。
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