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長編版
9 殿下視点
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通された部屋には俺と満面に笑みを浮かべるリシュフィ嬢の二人きりだった。
「先のお約束の件で、とのことですが、もうお手続きが完了いたしましたの?」
などということを、これ以上ないほどの笑顔と共に言われた。
内心泣きそうになったが、同い年の女の子の前で泣くわけにいかない。必死に堪えて、心を落ち着かせた。
「その件だが……破棄というのは、出来ない」
リシュフィ嬢から笑顔が消え、藍色の瞳が大きく見開かれた。
「どうしてですの? だって殿下が破棄してくださるって……」
「俺達の婚約は陛下がお決めになられたことだ。……お、俺が言って、簡単になかったことにしてくださるとは思えない」
必死に説明しながら、心はまるで抉られるようだった。
破棄すると言った時の笑顔とは対象的に、破棄できないと言った時に浮かべた困惑の表情が、なによりもリシュフィ嬢の気持ちを表していた。
俺との婚約が、それほど嫌だったのかと。
「……陛下にはまだ、お話になられていないのですか?」
話せるわけがなかった。話してしまえば、父はやはりリシュフィ嬢は許してくれていなかったのだと判断して、本当に婚約をなかったことにしてしまうかもしれない。
リシュフィ嬢は、俺の沈黙を肯定と取ったらしい。
丸く柔らかな頰が赤く上気する。猫のような目はあの謝罪の日のように鋭くなって、困惑が、怒りへと変わったのがわかった。
「先日は任せろと仰ったではありませんか! ……わたくしを揶揄いましたのね。殿下の嘘付き!」
リシュフィ嬢の叫びに、話し合いをという自らの決意は砕け散った。
そんなに、それほどまでに俺との婚約は嫌か、という胸の底から湧き上がる激しい怒気に、訳もわからず叫び返していた。
「うるさい! お前の望み通りに破棄になど、絶対してやるものか! ──デブ女だったくせに生意気を言うな!」
「っもうデブじゃありませんもの! 殿下こそ、自分の言葉に責任も持てないお子様王子ではありませんか!」
言い争いを始めた俺達の声を聞いた公爵家の侍女が慌てて駆けつけてきて、リシュフィ嬢を連れ出していった。
去り際のリシュフィ嬢の怒りの表情は、十年たった今でも忘れられない。
これが、俺とリシュフィ嬢の婚約破棄における攻防の始まりだ。
……嫌われていない根拠など、欠片もない。
「俺のことを好いていないから、婚約を嫌がっているのだろう」
うわ言のように繰り返せば、またしてもアシュレイが目を泳がせた。
俺がよほど気落ちして見えるらしい。取り繕うような笑みを浮かべた。
「……しかし、すでにお披露目も済んだ婚約を破棄したいなどと仰るのは、リシュフィ嬢も些か無責任というもので──」
「アシュレイ」
友人の言葉を遮る声は意識せず固くなり、決して狭くはない部屋に響いた。
「私の婚約者を悪くは申すな」
真っ直ぐに見つめれば、アシュレイは即座に口を閉じて、笑みを消した。
ソファから立ち上がり、俺の前に歩み寄ってくる。
胸に手を添えて、深く頭を下げた。
「言葉が過ぎました。殿下。無礼をお許しください」
俺がすぐに「許す」と言うと、アシュレイはゆるりと頭を上げて再度一礼した。
「俺を励ますために言ってくれたのだとは分かっている。だがな、これだけは間違えるな。リシュフィ嬢に非はない。初めから嫌がっていた婚約に十年も付き合わせたのは、俺のわがままだ」
俺が手でソファを示せば、アシュレイは先ほどと同じように腰を下ろした。
「昨今では自由恋愛の気運も高まって、貴族だからと言って、まして王族が相手であっても、嫌ならば断れない事もない。あれはレストリド公爵家の娘なのだから尚更だ。叔父上は娘が嫌だと言えば即座に解消へと動くぞ……」
「……では、まさか殿下は、リシュフィ嬢を諦めてしまわれるおつもりなのですか」
アシュレイの顔色が変わる。その色に非難が混じるのは、俺の婚約がこの友人にとっても他人事ではないからだ。
俺は友人を安心させる意味も込めて「まさか」と一蹴した。
ここ数年で俺とリシュフィ嬢の関係は変わり映えしなかったが、変わった事もある。
先ほども、そうだ。
──笑ってくれるようになった。
「諦めるなど有り得ない」
父の言葉が頭の中を反芻する。
特別な笑顔を向けてもらえるような男になれと言った父の言葉が。
俺はまだ、そこに立てていない。
先ほどの笑顔は違う。あれはアシュレイにだって向けられるものだ。
この十年の長い時間の中で、俺の婚約者への想いにも変化があった。
いつからか、可愛い。俺にだけ笑いかけて欲しい。から、愛される唯一になりたい、となっていたのだ。
「俺はリシュフィ・レストリドを愛している。決して、諦めたりなどするものか」
「殿下……」
決意を口にして、目を合わせれば友人の表情からは非難が消え去り、安堵するような笑みが向けられていた。
その笑みを保ったまま、友人は口を開いた。
「それをご本人に伝えられれば全てがすぐに解決しますよと何度も申し上げたはずですが、それがどうしてお出来にならないのでしょうね」
「──うるさい!! こ、このようなことっ……本人に言えるものか!!」
「本人以外に言われましてもねぇ……」
何を言われようと、伝えられるわけがない。
もしも伝えたとして、もしもだ。
『はぁ……お気持ちは有り難いのですが、お断り申し上げます。はっ! と、いうことは婚約は不成立ということでございますわね!? たった今言質は取りましたわよ!』などと言われてみろ。その場で地に伏したきり、二度と立ち上がれなくなるわ。
「極めて不遜な物言いを致しますが、僕の目的のためにも殿下にはリシュフィ嬢と必ず結ばれていただかねばなりませんので、いつかはお伝えいただければと願っておりますよ」
「……分かっている。い、いつかはな……」
「来ない『いつか』では困りますよ、殿下」
意識せず、逃げるように目を逸らした。
心配しなくともいつかはきちんと伝えるつもりだ。……それが婚姻の後になる可能性はゼロではないが。
アシュレイのいう『目的』には俺とリシュフィ嬢の婚姻が絶対条件だ。
だからこそ、これに関してアシュレイは最も信頼のおける相手であると言える。
「お前のためというわけではないが、必ずリシュフィ嬢に婚約を納得してもらえるよう努力する。これからも助力を頼んだぞ」
「もちろん、できうる限りのご助力をさせていただきます、殿下。しかし一つだけ申し上げてもよろしいですか」
「なんだ?」
首を傾げて問い返せば、頼れる友人はこれ以上ないほど優しい笑みを浮かべた。
「僕の私室は殿下のためのリシュフィ嬢相談窓口ではございません」
こうも連日押しかけられては王太子殿下のお成りの有り難さも半減いたしますと追い出された。
アシュレイは頼りになる協力者ではあるが、些か俺に対する敬意が不足している。
「先のお約束の件で、とのことですが、もうお手続きが完了いたしましたの?」
などということを、これ以上ないほどの笑顔と共に言われた。
内心泣きそうになったが、同い年の女の子の前で泣くわけにいかない。必死に堪えて、心を落ち着かせた。
「その件だが……破棄というのは、出来ない」
リシュフィ嬢から笑顔が消え、藍色の瞳が大きく見開かれた。
「どうしてですの? だって殿下が破棄してくださるって……」
「俺達の婚約は陛下がお決めになられたことだ。……お、俺が言って、簡単になかったことにしてくださるとは思えない」
必死に説明しながら、心はまるで抉られるようだった。
破棄すると言った時の笑顔とは対象的に、破棄できないと言った時に浮かべた困惑の表情が、なによりもリシュフィ嬢の気持ちを表していた。
俺との婚約が、それほど嫌だったのかと。
「……陛下にはまだ、お話になられていないのですか?」
話せるわけがなかった。話してしまえば、父はやはりリシュフィ嬢は許してくれていなかったのだと判断して、本当に婚約をなかったことにしてしまうかもしれない。
リシュフィ嬢は、俺の沈黙を肯定と取ったらしい。
丸く柔らかな頰が赤く上気する。猫のような目はあの謝罪の日のように鋭くなって、困惑が、怒りへと変わったのがわかった。
「先日は任せろと仰ったではありませんか! ……わたくしを揶揄いましたのね。殿下の嘘付き!」
リシュフィ嬢の叫びに、話し合いをという自らの決意は砕け散った。
そんなに、それほどまでに俺との婚約は嫌か、という胸の底から湧き上がる激しい怒気に、訳もわからず叫び返していた。
「うるさい! お前の望み通りに破棄になど、絶対してやるものか! ──デブ女だったくせに生意気を言うな!」
「っもうデブじゃありませんもの! 殿下こそ、自分の言葉に責任も持てないお子様王子ではありませんか!」
言い争いを始めた俺達の声を聞いた公爵家の侍女が慌てて駆けつけてきて、リシュフィ嬢を連れ出していった。
去り際のリシュフィ嬢の怒りの表情は、十年たった今でも忘れられない。
これが、俺とリシュフィ嬢の婚約破棄における攻防の始まりだ。
……嫌われていない根拠など、欠片もない。
「俺のことを好いていないから、婚約を嫌がっているのだろう」
うわ言のように繰り返せば、またしてもアシュレイが目を泳がせた。
俺がよほど気落ちして見えるらしい。取り繕うような笑みを浮かべた。
「……しかし、すでにお披露目も済んだ婚約を破棄したいなどと仰るのは、リシュフィ嬢も些か無責任というもので──」
「アシュレイ」
友人の言葉を遮る声は意識せず固くなり、決して狭くはない部屋に響いた。
「私の婚約者を悪くは申すな」
真っ直ぐに見つめれば、アシュレイは即座に口を閉じて、笑みを消した。
ソファから立ち上がり、俺の前に歩み寄ってくる。
胸に手を添えて、深く頭を下げた。
「言葉が過ぎました。殿下。無礼をお許しください」
俺がすぐに「許す」と言うと、アシュレイはゆるりと頭を上げて再度一礼した。
「俺を励ますために言ってくれたのだとは分かっている。だがな、これだけは間違えるな。リシュフィ嬢に非はない。初めから嫌がっていた婚約に十年も付き合わせたのは、俺のわがままだ」
俺が手でソファを示せば、アシュレイは先ほどと同じように腰を下ろした。
「昨今では自由恋愛の気運も高まって、貴族だからと言って、まして王族が相手であっても、嫌ならば断れない事もない。あれはレストリド公爵家の娘なのだから尚更だ。叔父上は娘が嫌だと言えば即座に解消へと動くぞ……」
「……では、まさか殿下は、リシュフィ嬢を諦めてしまわれるおつもりなのですか」
アシュレイの顔色が変わる。その色に非難が混じるのは、俺の婚約がこの友人にとっても他人事ではないからだ。
俺は友人を安心させる意味も込めて「まさか」と一蹴した。
ここ数年で俺とリシュフィ嬢の関係は変わり映えしなかったが、変わった事もある。
先ほども、そうだ。
──笑ってくれるようになった。
「諦めるなど有り得ない」
父の言葉が頭の中を反芻する。
特別な笑顔を向けてもらえるような男になれと言った父の言葉が。
俺はまだ、そこに立てていない。
先ほどの笑顔は違う。あれはアシュレイにだって向けられるものだ。
この十年の長い時間の中で、俺の婚約者への想いにも変化があった。
いつからか、可愛い。俺にだけ笑いかけて欲しい。から、愛される唯一になりたい、となっていたのだ。
「俺はリシュフィ・レストリドを愛している。決して、諦めたりなどするものか」
「殿下……」
決意を口にして、目を合わせれば友人の表情からは非難が消え去り、安堵するような笑みが向けられていた。
その笑みを保ったまま、友人は口を開いた。
「それをご本人に伝えられれば全てがすぐに解決しますよと何度も申し上げたはずですが、それがどうしてお出来にならないのでしょうね」
「──うるさい!! こ、このようなことっ……本人に言えるものか!!」
「本人以外に言われましてもねぇ……」
何を言われようと、伝えられるわけがない。
もしも伝えたとして、もしもだ。
『はぁ……お気持ちは有り難いのですが、お断り申し上げます。はっ! と、いうことは婚約は不成立ということでございますわね!? たった今言質は取りましたわよ!』などと言われてみろ。その場で地に伏したきり、二度と立ち上がれなくなるわ。
「極めて不遜な物言いを致しますが、僕の目的のためにも殿下にはリシュフィ嬢と必ず結ばれていただかねばなりませんので、いつかはお伝えいただければと願っておりますよ」
「……分かっている。い、いつかはな……」
「来ない『いつか』では困りますよ、殿下」
意識せず、逃げるように目を逸らした。
心配しなくともいつかはきちんと伝えるつもりだ。……それが婚姻の後になる可能性はゼロではないが。
アシュレイのいう『目的』には俺とリシュフィ嬢の婚姻が絶対条件だ。
だからこそ、これに関してアシュレイは最も信頼のおける相手であると言える。
「お前のためというわけではないが、必ずリシュフィ嬢に婚約を納得してもらえるよう努力する。これからも助力を頼んだぞ」
「もちろん、できうる限りのご助力をさせていただきます、殿下。しかし一つだけ申し上げてもよろしいですか」
「なんだ?」
首を傾げて問い返せば、頼れる友人はこれ以上ないほど優しい笑みを浮かべた。
「僕の私室は殿下のためのリシュフィ嬢相談窓口ではございません」
こうも連日押しかけられては王太子殿下のお成りの有り難さも半減いたしますと追い出された。
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