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長編版
27 エレシア視点
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二人きりで! と婚約者に叫んだあの子は、阿呆だ。
長年の付き合いでわかりきったことだが、それでもここまでとは思っていなかった。
殿下とわたくしを衆目の中二人きりにするのは倫理的に問題あるのは確かだけれど、どうしてわたくしとこの方を二人きりにしようと考えたのか。なんとなく察しがついて、心の中で罵っておく。
「エレシアはどこか行きたいところはある?」
当然のように名前を呼び捨てる人を視界に入れないよう気を付ける。しかし相手は公爵家嫡男。過度な無礼は許されない面倒な相手だった。……何を言っても怒らない方なのは知っているけれど。
「ございません。リシュフィ様が外されたならここにいる理由はありませんから、わたくしは帰らせていただきます」
「そう。なら行こうか」
あっけらかんと言って立ち上がり、目の前の男性は私の背後へと回った。
椅子を引いてくださるつもりだろう。自分から帰ると言った手前、無視はできない。大人しく立ち上がった。
この方は殿下に申し上げられた通りわたくしを送るつもりらしい。断ることは出来そうにないわねと内心で嘆いていると、先ほどの女性給仕が小走りに駆けてきて、慣れた手つきでアシュレイ様の腕を取った。
「ねぇねぇ、このあと時間ある? お兄さんとまたお喋りしたいなーと思ってたのよ。来てくれるのをずっと待ってたんだから」
甘えた口調で男性にしなだれ掛かる姿のなんと可愛らしいことだろう。女性の目はアシュレイ様からわたくしへと移った。
「ね、お兄さんを借りてもいいかな?」
どうしてこの人はわたくしに断りを入れるのだろうかと考えて、先ほどの台詞のせいだと思い至った。
妹と思われているからだ。
この方が下町で働く女性を相手にするとは思わなかったが、男性には一度きりや遊びの相手が必要なこともあるらしい。わたくしには分かり得ない感覚だけれど、それならば好都合だった。
「構いません。わたくしは一人で帰れますから。どうぞ、ごゆっくり」
女性だけを見つめ、淡々と告げて身を翻す。
数歩進んだのち──背中から聞こえてきた声に、肌がぞわりと粟立った。
「離してくれる?」
優しい語調に忍ぶ、聞いたことがないほどの冷たさに足が止まる。
言われたのはわたくしではないはずなのに心臓の脈打つのが痛いほど激しくなり、身が竦んで動けなくなった。
「エレシア、一緒に帰ろう。一人ではダメだよ」
背中に温かい手が添えられて初めて、呼吸が止まっていたのを知った。
「……は、い」
息と共に吐き出した声まで震えて、ひどく吐き気がした。
「……ごめん。どこかで休んだほうがいいね。そのまま車に乗ったら、余計に気分が悪くなるよ」
今の謝罪の意味を尋ねることも寄り道を断ることも出来ず、頷く。
そっと見上げたお顔が浮かべる表情から、この方が心からわたくしの体調を心配してくださっているのだと分かってしまい、胃に重りを入れられたようだった。
いっそ、下心があっての言葉であれば良かったのに。この方はいつもいつも優しくて、優しすぎて、わたくしには──毒だ。
アシュレイ様が連れてきてくださったのは、静かな雰囲気のカフェだった。ようやく一息つけたような気分になる。
正直先ほどのような店は苦手だった。騒がしいわけではなかったが、目の前で女性が男性にしがみ付く光景を見るなんて、なんだかとても悪いことをしたような気になってしまう。
「何か、食べられそう? 無理そうならお茶だけにしておこう」
メニューらしきものを手に、優しく問いかけられた。
実のところ、先ほどの食事も口には全く合わなかった。しかし殿下からのお誘いだ。残すわけにいかず、殆ど無理矢理飲み込んだ。それに気付かれているらしい。
無言で頷けば、先ほどの店とは違う淡々と仕事をこなす給仕にアシュレイ様がお茶を頼み、それらはすぐに運ばれてきた。
慣れた香りに騒ぐ心が和らいで、一口含み、ホッと息を吐いた。
「今日はごめんね」
唐突に謝られた。先程もだ。何に対する謝罪なのか、わからない。
いつもの柔らかな笑みを浮かべた顔の眉はやや下がっているようで、先ほどの冷たさは消えている。それを確認してようやく、唇が開いた。
「何に対する謝罪をいただいているのか、分かりかねます」
自らの口から発しておいて、嫌になった。わたくしは本当に、なんて可愛げのない女なのだろう。先ほどの女性ならきっと……いいえ。リシュフィならもっと、良い言い回しをするだろうに。
「……無理に君を誘ったから、かな。冷静になれば、君のようなご令嬢をあのような場所に連れて行くべきじゃなかった」
またしてもアシュレイ様は眉を下げたお顔で謝罪を口にして、でも、と続けた。
「どうしても、君とお出掛けがしたくて。身勝手だったって反省してる。次からは他の場所に誘うことにするよ」
次からはと平然と言われて、言葉に詰まった。次などありませんと答えるのはやはり可愛げがなさすぎて、それならむしろ好都合だと思うのに、口から言葉が出ていかない。
「──もしも先ほどの謝罪をリシュフィ様にされたなら、あの方ならなんと答えたと考えられますか」
やっと唇から零れ落ちたのは、これ以上ないほど愚かな問いかけだった。
きっと言葉の意味を問われているのだろう。アシュレイ様の顔が傾いて、静かに見つめられる。
意味など言えるわけがなく、視線から逃げて俯いた。
手元のティーカップに映る自分を見つめ続けること数分。向かいから吹き出すような音がして。
この間、と。アシュレイ様は笑い混じりに口を開いた。
「この間、殿下とリシュフィ嬢が言い争っているところに居合わせたんだけどね。その時、殿下が言い過ぎたと謝罪なさったんだけど、リシュフィ嬢は『ごめんで済めば騎士団は要りませんのよ!』って突っぱねてたんだよね」
この国には王城や王族を守る近衛騎士と自警団の役割を担ういくつもの騎士団がある。
どこかあの子らしい言い回しに口元が緩んだ。
「……仲直りは出来たのでしょうか」
「そこはスイーツの出番だよ。なんだかんだと言ってもあの方は甘い物がお好きだからね」
「ええ。フルーツが乗っていれば罪悪感は薄れるからと、いつも口癖のように仰って……」
言葉尻が下がっていき、それと同時に俯いてしまう。
リシュフィはいつもにこやかに微笑んで優しくて、話せば他のご令嬢方とは違う変わった人だけれど、とても楽しい人だ。
とても、大好きな友人だ。
なのに、わたくしは。
「エレシア?」
心配してくださったのだろう気遣わし気な声音で名前を呼ばれ、わたくしの声はそれに覆いかぶさるように重く響いた。
「──わたくしなどと出掛けたいと、あなた様がどうして思ってくださるのか。わたくしには分かりません」
「……わたしなどと、なんて言い方は止めよう。君は誰と比べても目劣りしない素晴らしい女性だよ」
この方はどこまでも優しい。本当に。
「わたくしは、友人の婚約者を奪おうとしている女ですわ」
だからこそ、優しくしていただくたびに、自らとの違いを思い知らされて、苦しくなる。
アシュレイ様のお顔からは笑顔が消えて、真剣な眼差しはどこかわたくしを非難しているようだった。
「あからさまな誘惑で惑わせたならともかく、心が移ったのならそれは殿下の問題だろう。それに、殿下の婚約者の地位を望んでいるのは公爵閣下だ。君じゃない」
「大切な父の望みです」
「そうしないと君は叱られるからだ」
ああ、やはり。あの時のやりとりを見られていたらしい。
長年の疑惑は確信となって、ひどい羞恥心に苛まれた。
殿下とリシュフィの婚約披露パーティーで、父は激昂していた。
あの頃のわたくしはパーティーがある度に殿下に纏わりついて、そのことを話せば、父はとても褒めてくださっていた。
だからだろう。父は、殿下のお相手にはわたくししかいないと信じていたのだ。
しかし父に届いたのは、殿下の婚約披露パーティーの招待状だった。
それがどれほど父を失望させたか。
けれどわたくしは、それは仕方のないことだったのだと心のどこかで割り切っていた。
殿下ははじめてのお茶会からずっとわたくしに興味を示さず、そんな殿下の婚約者はあの日のおデブなご令嬢だったのだから。
初めから父の計略は実を結ぶわけがなかったのだ。
「そうです。叱られてしまいますもの。……そうすればまたあなた様は、冷たいグラスを持ってきてくださるのでしょうけれど」
無駄な足掻きで殿下に纏わり付く日々の中で、あの日の小さな手が、どれほどわたくしの心の支えとなったか。この優しい人にはきっと分からないだろう。
誰にでも優しいこの人には。
しかし向かいから聞こえてきたのは、まるで突き放すような言葉だった。
「もう持っていかないよ」
「──え?」
どうして、と口にしそうになって、堪えた。この方はわたくしを必ず助けてくださると無意識に信じていた自分を恥じて、しかし目の前の頼もしくも優しい笑顔が自分にだけ向けられていることで胸が騒いだ。
「その前に公爵閣下のお手を止める。もう僕は、見ているだけの非力な子供じゃないよ」
長年の付き合いでわかりきったことだが、それでもここまでとは思っていなかった。
殿下とわたくしを衆目の中二人きりにするのは倫理的に問題あるのは確かだけれど、どうしてわたくしとこの方を二人きりにしようと考えたのか。なんとなく察しがついて、心の中で罵っておく。
「エレシアはどこか行きたいところはある?」
当然のように名前を呼び捨てる人を視界に入れないよう気を付ける。しかし相手は公爵家嫡男。過度な無礼は許されない面倒な相手だった。……何を言っても怒らない方なのは知っているけれど。
「ございません。リシュフィ様が外されたならここにいる理由はありませんから、わたくしは帰らせていただきます」
「そう。なら行こうか」
あっけらかんと言って立ち上がり、目の前の男性は私の背後へと回った。
椅子を引いてくださるつもりだろう。自分から帰ると言った手前、無視はできない。大人しく立ち上がった。
この方は殿下に申し上げられた通りわたくしを送るつもりらしい。断ることは出来そうにないわねと内心で嘆いていると、先ほどの女性給仕が小走りに駆けてきて、慣れた手つきでアシュレイ様の腕を取った。
「ねぇねぇ、このあと時間ある? お兄さんとまたお喋りしたいなーと思ってたのよ。来てくれるのをずっと待ってたんだから」
甘えた口調で男性にしなだれ掛かる姿のなんと可愛らしいことだろう。女性の目はアシュレイ様からわたくしへと移った。
「ね、お兄さんを借りてもいいかな?」
どうしてこの人はわたくしに断りを入れるのだろうかと考えて、先ほどの台詞のせいだと思い至った。
妹と思われているからだ。
この方が下町で働く女性を相手にするとは思わなかったが、男性には一度きりや遊びの相手が必要なこともあるらしい。わたくしには分かり得ない感覚だけれど、それならば好都合だった。
「構いません。わたくしは一人で帰れますから。どうぞ、ごゆっくり」
女性だけを見つめ、淡々と告げて身を翻す。
数歩進んだのち──背中から聞こえてきた声に、肌がぞわりと粟立った。
「離してくれる?」
優しい語調に忍ぶ、聞いたことがないほどの冷たさに足が止まる。
言われたのはわたくしではないはずなのに心臓の脈打つのが痛いほど激しくなり、身が竦んで動けなくなった。
「エレシア、一緒に帰ろう。一人ではダメだよ」
背中に温かい手が添えられて初めて、呼吸が止まっていたのを知った。
「……は、い」
息と共に吐き出した声まで震えて、ひどく吐き気がした。
「……ごめん。どこかで休んだほうがいいね。そのまま車に乗ったら、余計に気分が悪くなるよ」
今の謝罪の意味を尋ねることも寄り道を断ることも出来ず、頷く。
そっと見上げたお顔が浮かべる表情から、この方が心からわたくしの体調を心配してくださっているのだと分かってしまい、胃に重りを入れられたようだった。
いっそ、下心があっての言葉であれば良かったのに。この方はいつもいつも優しくて、優しすぎて、わたくしには──毒だ。
アシュレイ様が連れてきてくださったのは、静かな雰囲気のカフェだった。ようやく一息つけたような気分になる。
正直先ほどのような店は苦手だった。騒がしいわけではなかったが、目の前で女性が男性にしがみ付く光景を見るなんて、なんだかとても悪いことをしたような気になってしまう。
「何か、食べられそう? 無理そうならお茶だけにしておこう」
メニューらしきものを手に、優しく問いかけられた。
実のところ、先ほどの食事も口には全く合わなかった。しかし殿下からのお誘いだ。残すわけにいかず、殆ど無理矢理飲み込んだ。それに気付かれているらしい。
無言で頷けば、先ほどの店とは違う淡々と仕事をこなす給仕にアシュレイ様がお茶を頼み、それらはすぐに運ばれてきた。
慣れた香りに騒ぐ心が和らいで、一口含み、ホッと息を吐いた。
「今日はごめんね」
唐突に謝られた。先程もだ。何に対する謝罪なのか、わからない。
いつもの柔らかな笑みを浮かべた顔の眉はやや下がっているようで、先ほどの冷たさは消えている。それを確認してようやく、唇が開いた。
「何に対する謝罪をいただいているのか、分かりかねます」
自らの口から発しておいて、嫌になった。わたくしは本当に、なんて可愛げのない女なのだろう。先ほどの女性ならきっと……いいえ。リシュフィならもっと、良い言い回しをするだろうに。
「……無理に君を誘ったから、かな。冷静になれば、君のようなご令嬢をあのような場所に連れて行くべきじゃなかった」
またしてもアシュレイ様は眉を下げたお顔で謝罪を口にして、でも、と続けた。
「どうしても、君とお出掛けがしたくて。身勝手だったって反省してる。次からは他の場所に誘うことにするよ」
次からはと平然と言われて、言葉に詰まった。次などありませんと答えるのはやはり可愛げがなさすぎて、それならむしろ好都合だと思うのに、口から言葉が出ていかない。
「──もしも先ほどの謝罪をリシュフィ様にされたなら、あの方ならなんと答えたと考えられますか」
やっと唇から零れ落ちたのは、これ以上ないほど愚かな問いかけだった。
きっと言葉の意味を問われているのだろう。アシュレイ様の顔が傾いて、静かに見つめられる。
意味など言えるわけがなく、視線から逃げて俯いた。
手元のティーカップに映る自分を見つめ続けること数分。向かいから吹き出すような音がして。
この間、と。アシュレイ様は笑い混じりに口を開いた。
「この間、殿下とリシュフィ嬢が言い争っているところに居合わせたんだけどね。その時、殿下が言い過ぎたと謝罪なさったんだけど、リシュフィ嬢は『ごめんで済めば騎士団は要りませんのよ!』って突っぱねてたんだよね」
この国には王城や王族を守る近衛騎士と自警団の役割を担ういくつもの騎士団がある。
どこかあの子らしい言い回しに口元が緩んだ。
「……仲直りは出来たのでしょうか」
「そこはスイーツの出番だよ。なんだかんだと言ってもあの方は甘い物がお好きだからね」
「ええ。フルーツが乗っていれば罪悪感は薄れるからと、いつも口癖のように仰って……」
言葉尻が下がっていき、それと同時に俯いてしまう。
リシュフィはいつもにこやかに微笑んで優しくて、話せば他のご令嬢方とは違う変わった人だけれど、とても楽しい人だ。
とても、大好きな友人だ。
なのに、わたくしは。
「エレシア?」
心配してくださったのだろう気遣わし気な声音で名前を呼ばれ、わたくしの声はそれに覆いかぶさるように重く響いた。
「──わたくしなどと出掛けたいと、あなた様がどうして思ってくださるのか。わたくしには分かりません」
「……わたしなどと、なんて言い方は止めよう。君は誰と比べても目劣りしない素晴らしい女性だよ」
この方はどこまでも優しい。本当に。
「わたくしは、友人の婚約者を奪おうとしている女ですわ」
だからこそ、優しくしていただくたびに、自らとの違いを思い知らされて、苦しくなる。
アシュレイ様のお顔からは笑顔が消えて、真剣な眼差しはどこかわたくしを非難しているようだった。
「あからさまな誘惑で惑わせたならともかく、心が移ったのならそれは殿下の問題だろう。それに、殿下の婚約者の地位を望んでいるのは公爵閣下だ。君じゃない」
「大切な父の望みです」
「そうしないと君は叱られるからだ」
ああ、やはり。あの時のやりとりを見られていたらしい。
長年の疑惑は確信となって、ひどい羞恥心に苛まれた。
殿下とリシュフィの婚約披露パーティーで、父は激昂していた。
あの頃のわたくしはパーティーがある度に殿下に纏わりついて、そのことを話せば、父はとても褒めてくださっていた。
だからだろう。父は、殿下のお相手にはわたくししかいないと信じていたのだ。
しかし父に届いたのは、殿下の婚約披露パーティーの招待状だった。
それがどれほど父を失望させたか。
けれどわたくしは、それは仕方のないことだったのだと心のどこかで割り切っていた。
殿下ははじめてのお茶会からずっとわたくしに興味を示さず、そんな殿下の婚約者はあの日のおデブなご令嬢だったのだから。
初めから父の計略は実を結ぶわけがなかったのだ。
「そうです。叱られてしまいますもの。……そうすればまたあなた様は、冷たいグラスを持ってきてくださるのでしょうけれど」
無駄な足掻きで殿下に纏わり付く日々の中で、あの日の小さな手が、どれほどわたくしの心の支えとなったか。この優しい人にはきっと分からないだろう。
誰にでも優しいこの人には。
しかし向かいから聞こえてきたのは、まるで突き放すような言葉だった。
「もう持っていかないよ」
「──え?」
どうして、と口にしそうになって、堪えた。この方はわたくしを必ず助けてくださると無意識に信じていた自分を恥じて、しかし目の前の頼もしくも優しい笑顔が自分にだけ向けられていることで胸が騒いだ。
「その前に公爵閣下のお手を止める。もう僕は、見ているだけの非力な子供じゃないよ」
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