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長編版
29 エレシア視点
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「先日は失礼しました」
申し訳なさそうに体を縮こませて頭を下げた娘の肩口から一束、亜麻色の髪が垂れた。
見覚えのある娘だった。
アンリエッタ・ビストア男爵令嬢。
殿下の、あらぬ噂のお相手の令嬢だ。
「剣術大会ではとても無礼な振る舞いをしてしまって、ずっと謝罪させていただきたいと思っていたのです」
……謝罪の相手が違うのでは?
さすがにそれを口にするのは憚られて「わかってくれたなら良いのよ」と答えるに留める。
わたくしの内心など知りえないアンリエッタさんは、謝罪を受け入れられた安堵に頬を緩ませて微笑んだ。
素直な人なのか、それとも──謝罪すれば許されるに決まっているとでも思っているのか。あまり関わり合いになりたくない娘だった。
殿下とこの娘の噂が出始めた頃、こっそりとこの娘を見に行ったことがある。
運よくアンリエッタさんは噂について友人に尋ねられていたところで、とんでもない、あり得ない、と首が外れるのではと思うほど全身で否定していた。
その様子に非常識な人ではないと判断して、噂などすぐに消え去るだろうと思っていた。念のためにアシュレイ様の耳には入れておいたけれど。
しかしそんなわたくしの判断を嘲笑うように、この娘は東屋でリシュフィにぶつかり、剣術大会においては殿下が手を御振りになったのは自分であると、口では否定しても染まった頬はその本心を雄弁に語っていた。
この娘は噂を利用して殿下に近付くつもりなのだ。今なら確信を持って言える。
それがどうしてわたくしの元に『謝罪』になど来たのかは、皆目見当も付かないけれど。
「用事はそれだけかしら」
本来であればどれだけ下位の貴族家の娘であっても、こんな物言いをするべきではない。しかしこの娘に丁寧に接する必要は欠片もないうえに、今はとても疲れている。早く部屋に入って体を休めたかった。
「いえ、その……実はエレシア様に相談したいことがあるんです」
「……相談?」
よりにもよって、なぜ今なの。
この状況でため息を付かなかったことは、素直に自らを褒めてしまいたくなった。
わたくしの元へは、身分もあって女生徒から相談が持ち込まれることが多い。中には恋愛の相談もあって、経験もないくせに訳知り顔で答える羽目になって辟易したものもある。
だからこの娘から相談があると言われれば、聞いてあげるべきなのだろうけれど、今はとにかく休みたかった。
「明日にしてくださる? 休むところだったから」
「先延ばしにするのが怖いんです! お話だけでも聞いていただけませんか……?」
拳を握り締めて胸に押し当てて訴える姿は何かに怯えているようで、断るのは気が引けた。
「わかりました。手短にお願いできる?」
目の前はわたくしの部屋なのだから中で聞いて差し上げるべきなのだろうけれど、それは少し躊躇した。この娘と密室で二人きりになるのは、なんだか不気味だ。
しかし彼女は廊下でも構わなかったらしい。眉尻を下げていた顔は頬が喜びで色付き、大げさに礼を言って話し始めた。
「エレシア様はリシュフィ様と親しくていらっしゃいますよね……?」
「そうね。幼い頃からパーティーなどで顔を合わせていたから」
ダイエット仲間よ、とは言えない。
わたくしの返答に、アンリエッタさんは目を伏せて口ごもり「それなら、エレシア様はショックを受けられるかもしれませんが……」と言葉を濁しながらもはっきりとした口調で続けた。
「私、リシュフィ様に嫌がらせを受けているんです!」
まるで氷をそのまま飲み込んだように、心が冷えた。
「──あなたは良いわね」
「え?」
考えていた返事と違ったからだろう。目の前の娘は目を瞬いて首を傾けた。
「あなたは良いわねと言ったのよ。ご家族のことも他の誰のことも考えず自分のことばかり考えて行動出来て、良いわね」
するすると口から放たれていく言葉達は、紛れもないわたくしの本心なのだろう。
「頭の中を空にして、何も考えずに動けることは幸せなことね。わたくしには、あなたのその頭の悪さが羨ましいわ」
もしもわたくしがこの子のようだったなら、何のしがらみもなく求めてくださった方の手を取ることが出来たのに。
「リシュフィがどうしてあなたに嫌がらせをする必要があるの。あの子は誰にでも優しい、素晴らしい人よ」
それは、わたくしのような女にも。
どうしてこの娘はこんな愚かな話をわたくしにしてきたのか。冷静になって考えて、わたくしとリシュフィの仲違いが狙いなのではと思い至った。
殿下の婚約者の地位を得るため、リシュフィを蹴落とすために。
そうか、この娘は──わたくしからリシュフィを奪うつもりなのか。
煮えたぎるほどの怒りに頭が支配され、呆然と立ち尽くす目の前の娘を睨みつけた。
わたくしには、あの子だけだ。リシュフィはわたくしが唯一手放さなくてもいい大切な人だ。
婚約披露パーティーで、父はリシュフィと親しくなるのは良いと仰った。
リシュフィだけだ。傍にいて、心から安らげるのは。
父が良いと仰ったから。
「殿下はあなたなど視界にも入れておられないわよ。身の程を弁えなさい」
もはや憚る必要など欠片もなく、厳しい言葉を投げつける。アンリエッタはまるで信じられないとばかりに目を大きく見開いて、わたくしを凝視していた。
「……なんで? エレシアは私の味方になるはずなのに」
そうして言われた言葉はこれ以上ないほどの侮辱だった。
「誰が名を呼び捨てる許しを与えましたか。どれほどの無礼を行えば気が済むのかしら。あなたのお家に正式に抗議しても良いのですよ。──下がりなさい。わたくしが何度も下がれと言っているのが分からないのですか」
暗く燃える感情のままに叱りつければ、アンリエッタは辞去の挨拶もなしに身を翻して走り去っていった。
どこまでも人を馬鹿にしている娘だった。
ようやく部屋に入ることが出来て、着替えることもせずにベッドに倒れ込んだ。
今日は本当にたくさんのことがありすぎて、頭が破裂しそうだった。一秒も意識を保っていることが出来ず、すぐに微睡に吸い寄せられていく。
暗い背景の中、あの方が見知らぬ女性の肩を抱き、こちらを振り返ることもなく立ち去る姿を見守って──安堵した。
翌朝。朝食を食べる気分にならなくて、早くに部屋を出た。
体が重い。休んでしまおうかと思ったが、わたくしは貴族女性の模範たらねばならない立場だ。体調が悪いわけでもないのだから、休むわけにいかない。
寮の入り口は早朝にもかかわらず多くの人がいて、外を窺い見て囁き合う女生徒達はなんだか浮足立っているようだった。
「なにごとです? このようなところで立ち止まって──」
いては、迷惑になりますよ、と。注意しようと外へと目を向けて、心臓が跳ねた。
早朝の柔らかな陽の光に照らされた蜂蜜色の髪も、わたくしを映して嬉しそうに細められた鳶色の瞳も。優しい色合いだけのこの方が、どうしてここに。
「おはよう、エレシア」
いつも通りの──いいえ。いつも以上に優しい声音がかけられて、言葉に詰まった。
だって、この方がここにいるはずも。ましてわたくしにこんなにも優しい声で話しかけるはずもないのに。
声の出ないわたくしの心情を察しているのだろうアシュレイ様は、一足でわたくしの目の前に来て、顔を覗き込んだ。
「そんなに驚くかな?」
優しい声には揶揄うような調子も足されて、アシュレイ様はくすくすと笑った。
「…………どう、して……」
昨日、わたくしはこの方に嫌われたはずなのに。
「どうしてって昨日君が言ったんじゃないか。僕といると──幸せになれるって。なんとも熱烈な、愛の言葉だよね」
愛の言葉だなどと。そんなつもりで言ったのではない……けれど、言葉だけを見ればどう足掻いてもその通りで、今更ながらに羞恥が襲ってくる。
全身が燃えるように熱くなり、汗が噴き出した。そんなわたくしにアシュレイ様は愛おしいものを見ているとしか思えないほど優しい目を向けて「だから僕も伝えなきゃと思って」と言って、膝を折った。
俯くわたくしと、膝を地面に着けたアシュレイ様の目がまっすぐに合わさった。
「エレシア。僕は君を愛している。この気持ちは何をしたって変わることはない。だからどうか、学園を卒業したら僕と、結婚してほしい」
言葉と共に手を差し出され、背後から小さくない歓声が響いた。
「……昨夜の話を聞いていらっしゃったのですか!? 聞いていてどうしてそんな、わたくしなどと……っ」
「あれ? もう一回言ったほうがいいのかな。僕は君を愛している。この気持ちは何をしたって変わることは──」
「二度も仰らなくて良いです!!」
貴族令嬢にあるまじきことだが、叫んでしまった。何度も言われるのはあまりにも恥ずかしい……。
駄目だ。冷静にならないと。
後ろから聞こえてくる囁き声がある以上、今ここでお断りしますなどと言うことは出来ない。
お相手のいないわたくしが衆目の面前でお断りを口にするなど、スコット家嫡男の顔に泥を塗ることになってしまう。
しかしお受けしますと答えることは、もっと出来ない。それはもう、決定事項になってしまう。
「い、一度、父に相談してお返事を……」
きっと叱られてしまうだろうが、こうするしかない。これがわたくしが、貴族令嬢が出来る最大限の返事だと思った。
しかし目の前のこの男性は、わたくしの内心を正確に察しているだろうこの男性は、白々しく宣ったのだ。
「その前に君の気持ちを聞かせて欲しいな。エレシアは、僕との結婚が、嫌?」
な…………なんという策士!!
衆目の前でわたくしに気持ちを聞くことにより、返事をしなければならない状況を作られてしまった……っ!!
優しい瞳にはわたくしへの紛れもない愛情があるにはあるのだろうが、妖しく細められたそれは、鼠を甚振る猫のような悪戯めいた光を放っている。
歯噛みする思いとはこのことか。先手を取られてしまった。
わたくしの前方には誰もおらず、遠慮なく睨みつけるも、見上げたままのアシュレイ様の口からは、それはそれは小さな声で「断られたら僕は卒業まで笑い者だなぁ。悲しいなぁ」と脅しの言葉が流れ出ていた。
──受け入れるのも癪というやつだった。
「ほ……」
「ほ?」
目を瞬いて、恐らくは「ほ」から始まる愛の言葉を思い浮かべたのだろう憎き男性を睨む。そんな言葉があるものか。
「保留でお願い致します!!」
人生で初めてだろう、公爵家の娘として相応しくない振る舞いだった。
伸ばした手で口元を押さえたアシュレイ様は「保留だなんて、とんでもない進歩だな」と意地悪な笑みと共に囁いた。
申し訳なさそうに体を縮こませて頭を下げた娘の肩口から一束、亜麻色の髪が垂れた。
見覚えのある娘だった。
アンリエッタ・ビストア男爵令嬢。
殿下の、あらぬ噂のお相手の令嬢だ。
「剣術大会ではとても無礼な振る舞いをしてしまって、ずっと謝罪させていただきたいと思っていたのです」
……謝罪の相手が違うのでは?
さすがにそれを口にするのは憚られて「わかってくれたなら良いのよ」と答えるに留める。
わたくしの内心など知りえないアンリエッタさんは、謝罪を受け入れられた安堵に頬を緩ませて微笑んだ。
素直な人なのか、それとも──謝罪すれば許されるに決まっているとでも思っているのか。あまり関わり合いになりたくない娘だった。
殿下とこの娘の噂が出始めた頃、こっそりとこの娘を見に行ったことがある。
運よくアンリエッタさんは噂について友人に尋ねられていたところで、とんでもない、あり得ない、と首が外れるのではと思うほど全身で否定していた。
その様子に非常識な人ではないと判断して、噂などすぐに消え去るだろうと思っていた。念のためにアシュレイ様の耳には入れておいたけれど。
しかしそんなわたくしの判断を嘲笑うように、この娘は東屋でリシュフィにぶつかり、剣術大会においては殿下が手を御振りになったのは自分であると、口では否定しても染まった頬はその本心を雄弁に語っていた。
この娘は噂を利用して殿下に近付くつもりなのだ。今なら確信を持って言える。
それがどうしてわたくしの元に『謝罪』になど来たのかは、皆目見当も付かないけれど。
「用事はそれだけかしら」
本来であればどれだけ下位の貴族家の娘であっても、こんな物言いをするべきではない。しかしこの娘に丁寧に接する必要は欠片もないうえに、今はとても疲れている。早く部屋に入って体を休めたかった。
「いえ、その……実はエレシア様に相談したいことがあるんです」
「……相談?」
よりにもよって、なぜ今なの。
この状況でため息を付かなかったことは、素直に自らを褒めてしまいたくなった。
わたくしの元へは、身分もあって女生徒から相談が持ち込まれることが多い。中には恋愛の相談もあって、経験もないくせに訳知り顔で答える羽目になって辟易したものもある。
だからこの娘から相談があると言われれば、聞いてあげるべきなのだろうけれど、今はとにかく休みたかった。
「明日にしてくださる? 休むところだったから」
「先延ばしにするのが怖いんです! お話だけでも聞いていただけませんか……?」
拳を握り締めて胸に押し当てて訴える姿は何かに怯えているようで、断るのは気が引けた。
「わかりました。手短にお願いできる?」
目の前はわたくしの部屋なのだから中で聞いて差し上げるべきなのだろうけれど、それは少し躊躇した。この娘と密室で二人きりになるのは、なんだか不気味だ。
しかし彼女は廊下でも構わなかったらしい。眉尻を下げていた顔は頬が喜びで色付き、大げさに礼を言って話し始めた。
「エレシア様はリシュフィ様と親しくていらっしゃいますよね……?」
「そうね。幼い頃からパーティーなどで顔を合わせていたから」
ダイエット仲間よ、とは言えない。
わたくしの返答に、アンリエッタさんは目を伏せて口ごもり「それなら、エレシア様はショックを受けられるかもしれませんが……」と言葉を濁しながらもはっきりとした口調で続けた。
「私、リシュフィ様に嫌がらせを受けているんです!」
まるで氷をそのまま飲み込んだように、心が冷えた。
「──あなたは良いわね」
「え?」
考えていた返事と違ったからだろう。目の前の娘は目を瞬いて首を傾けた。
「あなたは良いわねと言ったのよ。ご家族のことも他の誰のことも考えず自分のことばかり考えて行動出来て、良いわね」
するすると口から放たれていく言葉達は、紛れもないわたくしの本心なのだろう。
「頭の中を空にして、何も考えずに動けることは幸せなことね。わたくしには、あなたのその頭の悪さが羨ましいわ」
もしもわたくしがこの子のようだったなら、何のしがらみもなく求めてくださった方の手を取ることが出来たのに。
「リシュフィがどうしてあなたに嫌がらせをする必要があるの。あの子は誰にでも優しい、素晴らしい人よ」
それは、わたくしのような女にも。
どうしてこの娘はこんな愚かな話をわたくしにしてきたのか。冷静になって考えて、わたくしとリシュフィの仲違いが狙いなのではと思い至った。
殿下の婚約者の地位を得るため、リシュフィを蹴落とすために。
そうか、この娘は──わたくしからリシュフィを奪うつもりなのか。
煮えたぎるほどの怒りに頭が支配され、呆然と立ち尽くす目の前の娘を睨みつけた。
わたくしには、あの子だけだ。リシュフィはわたくしが唯一手放さなくてもいい大切な人だ。
婚約披露パーティーで、父はリシュフィと親しくなるのは良いと仰った。
リシュフィだけだ。傍にいて、心から安らげるのは。
父が良いと仰ったから。
「殿下はあなたなど視界にも入れておられないわよ。身の程を弁えなさい」
もはや憚る必要など欠片もなく、厳しい言葉を投げつける。アンリエッタはまるで信じられないとばかりに目を大きく見開いて、わたくしを凝視していた。
「……なんで? エレシアは私の味方になるはずなのに」
そうして言われた言葉はこれ以上ないほどの侮辱だった。
「誰が名を呼び捨てる許しを与えましたか。どれほどの無礼を行えば気が済むのかしら。あなたのお家に正式に抗議しても良いのですよ。──下がりなさい。わたくしが何度も下がれと言っているのが分からないのですか」
暗く燃える感情のままに叱りつければ、アンリエッタは辞去の挨拶もなしに身を翻して走り去っていった。
どこまでも人を馬鹿にしている娘だった。
ようやく部屋に入ることが出来て、着替えることもせずにベッドに倒れ込んだ。
今日は本当にたくさんのことがありすぎて、頭が破裂しそうだった。一秒も意識を保っていることが出来ず、すぐに微睡に吸い寄せられていく。
暗い背景の中、あの方が見知らぬ女性の肩を抱き、こちらを振り返ることもなく立ち去る姿を見守って──安堵した。
翌朝。朝食を食べる気分にならなくて、早くに部屋を出た。
体が重い。休んでしまおうかと思ったが、わたくしは貴族女性の模範たらねばならない立場だ。体調が悪いわけでもないのだから、休むわけにいかない。
寮の入り口は早朝にもかかわらず多くの人がいて、外を窺い見て囁き合う女生徒達はなんだか浮足立っているようだった。
「なにごとです? このようなところで立ち止まって──」
いては、迷惑になりますよ、と。注意しようと外へと目を向けて、心臓が跳ねた。
早朝の柔らかな陽の光に照らされた蜂蜜色の髪も、わたくしを映して嬉しそうに細められた鳶色の瞳も。優しい色合いだけのこの方が、どうしてここに。
「おはよう、エレシア」
いつも通りの──いいえ。いつも以上に優しい声音がかけられて、言葉に詰まった。
だって、この方がここにいるはずも。ましてわたくしにこんなにも優しい声で話しかけるはずもないのに。
声の出ないわたくしの心情を察しているのだろうアシュレイ様は、一足でわたくしの目の前に来て、顔を覗き込んだ。
「そんなに驚くかな?」
優しい声には揶揄うような調子も足されて、アシュレイ様はくすくすと笑った。
「…………どう、して……」
昨日、わたくしはこの方に嫌われたはずなのに。
「どうしてって昨日君が言ったんじゃないか。僕といると──幸せになれるって。なんとも熱烈な、愛の言葉だよね」
愛の言葉だなどと。そんなつもりで言ったのではない……けれど、言葉だけを見ればどう足掻いてもその通りで、今更ながらに羞恥が襲ってくる。
全身が燃えるように熱くなり、汗が噴き出した。そんなわたくしにアシュレイ様は愛おしいものを見ているとしか思えないほど優しい目を向けて「だから僕も伝えなきゃと思って」と言って、膝を折った。
俯くわたくしと、膝を地面に着けたアシュレイ様の目がまっすぐに合わさった。
「エレシア。僕は君を愛している。この気持ちは何をしたって変わることはない。だからどうか、学園を卒業したら僕と、結婚してほしい」
言葉と共に手を差し出され、背後から小さくない歓声が響いた。
「……昨夜の話を聞いていらっしゃったのですか!? 聞いていてどうしてそんな、わたくしなどと……っ」
「あれ? もう一回言ったほうがいいのかな。僕は君を愛している。この気持ちは何をしたって変わることは──」
「二度も仰らなくて良いです!!」
貴族令嬢にあるまじきことだが、叫んでしまった。何度も言われるのはあまりにも恥ずかしい……。
駄目だ。冷静にならないと。
後ろから聞こえてくる囁き声がある以上、今ここでお断りしますなどと言うことは出来ない。
お相手のいないわたくしが衆目の面前でお断りを口にするなど、スコット家嫡男の顔に泥を塗ることになってしまう。
しかしお受けしますと答えることは、もっと出来ない。それはもう、決定事項になってしまう。
「い、一度、父に相談してお返事を……」
きっと叱られてしまうだろうが、こうするしかない。これがわたくしが、貴族令嬢が出来る最大限の返事だと思った。
しかし目の前のこの男性は、わたくしの内心を正確に察しているだろうこの男性は、白々しく宣ったのだ。
「その前に君の気持ちを聞かせて欲しいな。エレシアは、僕との結婚が、嫌?」
な…………なんという策士!!
衆目の前でわたくしに気持ちを聞くことにより、返事をしなければならない状況を作られてしまった……っ!!
優しい瞳にはわたくしへの紛れもない愛情があるにはあるのだろうが、妖しく細められたそれは、鼠を甚振る猫のような悪戯めいた光を放っている。
歯噛みする思いとはこのことか。先手を取られてしまった。
わたくしの前方には誰もおらず、遠慮なく睨みつけるも、見上げたままのアシュレイ様の口からは、それはそれは小さな声で「断られたら僕は卒業まで笑い者だなぁ。悲しいなぁ」と脅しの言葉が流れ出ていた。
──受け入れるのも癪というやつだった。
「ほ……」
「ほ?」
目を瞬いて、恐らくは「ほ」から始まる愛の言葉を思い浮かべたのだろう憎き男性を睨む。そんな言葉があるものか。
「保留でお願い致します!!」
人生で初めてだろう、公爵家の娘として相応しくない振る舞いだった。
伸ばした手で口元を押さえたアシュレイ様は「保留だなんて、とんでもない進歩だな」と意地悪な笑みと共に囁いた。
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