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長編版
45 もう一つの攻防戦の決着②
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お母さまが療養されているのは公爵家領地の湖の畔にあるラドレイクハウスと名付けられた別荘だ。暖かな季節でも涼しく、寒い季節でも木造の建物のお陰で温かく過ごすことが出来る築数百年にも及ぶ歴史ある屋敷だった。
幼い頃に見たきりの屋敷が遠目に見えて、自然と体が硬くなった。お母様と顔を合わせるのはいつぶりかと考えれば、当然お母様が屋敷を出ていかれて以来ということになる。……もはやお母様はわたくしのことなど、名乗らねば分からないかもしれない。
いつの間にか握りしめていた拳が温かく解かれて、優しい目が側に居ると告げてくれる。すっかり緩くなってしまった涙腺からまた涙が零れ落ちそうだった。
屋敷に訪れた立派な車にも、初めて会う年嵩の使用人は狼狽えることなく丁寧に出迎えてくれた。
「ご無沙汰しております。お嬢様。おかえりなさいませ」
「……ごめんなさい。あなたのことを覚えていないわ。会ったことがあったかしら」
アシュレイ様への歓待の挨拶を終えたのちに、使用人はわたくしのことを知っているふうな挨拶をした。情けなく思いながらも正直に尋ねる。しかし使用人は微笑しながら「お嬢様が三つにもなっておられないほどの頃にお会いしただけですので」と答えてくれて、内心ほっとする。
しかしその後に続いた言葉に、またしても体が緊張でこわばった。
「奥様がお待ちでございますよ。早くお顔を見せて差し上げてくださいませ」
「……ええ」
案内してもらわないと、わたくしにはどこが客間なのかすらわからない。
笑顔を見せる使用人に付いていき、わたくしの緊張など知らない使用人はさっさと扉を開けてしまった。
扉をくぐってすぐ目に入った正面の大きな窓からは、暖かな陽射しが室内に差し込んでいる。
きっとお母様の趣味なのだろう、客間は花柄の目立つ可愛らしい装飾で彩られていた。橙色の壁紙に掛けられた小さな壁掛けの花瓶には瑞々しい花が生けられて、柔らかそうなソファには丁寧に編まれたレースが掛けられている。
どこか素朴な雰囲気に、少し緊張が和らいだ。
ソファに腰かけ別の使用人がお茶を運んできたところで、扉がガチャリと音を立てて開いた。
アシュレイ様とほぼ同時に立ち上がり、騒ぐ心臓を抑えて振り返る。
そこに立っていたのは、記憶よりも少しシワの刻まれた美しい女性だ。
幼い頃の記憶では物静かで父の言うことに微笑みとともに頷く姿しか見たことがない母は、艶やかな髪を丁寧にまとめて質素ながらも落ち着いたドレス姿でわたくし達を出迎えた。
少し日焼けしていらっしゃるのが健康的で、わたくしと同じ赤い瞳が真っ直ぐにわたくしを映している。
「……お母様」
いつぶりだろうか、そう呼んだ相手に言わなければならないことがたくさんある。
お体の具合はいかがでしょうか。
学園を無事に卒業いたしました。
……あの日の無礼な言葉を、謝罪しにまいりました。
そう。これを真っ先に伝えなければならない。許していただけるとは思っていないけれど、ずっとずっと、わたくしはあの日のことを、お母様に謝罪したかっ──。
「まぁ……まぁまぁまぁっ!! なんて可愛らしいレディにお成りなんでしょうねぇ!」
病気で療養中の、そのはずの母は、固まるわたくしの目の前で、まるで先日まで近くにいたはしゃぐ女生徒のように目を輝かせて弾む声を張り上げたのだった。
「女の子ってまぁなんてことでしょうね、たった数年会わぬだけでまぁ……愛らしい頭の良い娘になったとは聞いていましたがこんなにもとはお母様はちっとも聞いていませんよ! あらあらまぁそれにしたって少し細すぎではないの? きちんと食事はしているのでしょうね。これじゃあわたくしの娘時代のドレスはちっとも合わないわ。ドレスを詰める令嬢なんて聞いたことありませんわよねぇ。恥ずかしいこと。全部縫い直してしまわないと! ……まぁ大変! わたくしったらお客様を立たせたままで! さぁさぁお座りなさいな。スコット卿もようこそおいでくださいました。遠いところをこのような田舎まで来てくださって嬉しいですわ。それも……娘を連れて、でございましょう!? ああもうわたくし昨日から楽しみで楽しみでちっとも眠れなくって……!!」
「……ご機嫌麗しゅう……公爵夫人。お初にお目にかかれて大変、うれしく思います」
アシュレイ様の言う『公爵夫人』にはやや力が入っているように聞こえた。これは本当に『公爵夫人』なのかと思われていることは明らかだった。
それはわたくしも同じ気持ちだがあいにく姿だけは記憶通りのお母様だ。
元通りソファに腰を下ろしたものの、放っておけばいつまででも喋り続けそうな有様の母の声を遮り、最も気になっていることを尋ねた。
「ご病気のほうは、いかがですか……? お体の具合は……」
「病気というほどのこともありませんけどね、このところとても良くて庭の手入れなども自分でしていますのよ。見てくださった? ほらあそこ! あそこの一角はお母様が植えたお野菜の畑なんですのよ」
「公爵家の別荘の庭に畑をお作りになったのですか!?」
慌てて覗き込んだ大きな窓から見えるのはあろうことか屋敷の正面にある庭だ。一応は通り道から外れた一角ではあるが、そこには畝がいくつもある立派すぎる畑がはっきりと見える。
「なんということを……! あそこでは屋敷の窓から丸見えではありませんか!!」
「ええ、ですからお越しになられた方には驚かれる前にお話ししていますよ」
「自白なさっているのですか!!?」
せめて鮮やかな花々にしてくださればと訴えても母は「ええ、ええ。食用の花も育てていますよ。あとで出してあげましょうねぇ」と明後日の方向の答えを返してくる。
「エレシア。念のために聞くけど、公爵夫人に会うのが初めてってわけじゃないよね……?」
「そのようなはずがありますか! 幼い頃は同じ屋敷に住んでいましたのに!」
耳元でささやかれた疑問に大声で返事をしてしまった。まずいと母を仰ぎ見る。
しかししっかりとアシュレイ様の疑問も聞こえていたらしい母は、にこやかな笑みと共にあっけらかんと答えたのだ。
「嫁いだ当時はそれはもう身の縮こまる思いでしたけれどね、追い出されてからはもう弾けたような気持ちで色々なものに挑戦していますのよ」
母にそのようなつもりはないことは、浮かべられた笑顔を見れば明らかだった。この人は追い出されたことを、今では悲しまれていないのだと分かる。
それでも負い目のあるわたくしにとっては、何よりも痛いところを突かれた思いで言葉に詰まった。
「……どうしたの、エレシア。随分と顔色が悪いようだけれど……少し横になったほうが良いのではない?」
眉根を下げて心から心配してくださっているのだと分かる言葉をかけてくださるお母様は、もしかすると幼いわたくしの言葉などお忘れなのかもしれない。
──だからと言って、このまま言わずにいては、何のためにアシュレイ様と共にここに来たのか。
立ち上がり、頭を下げた。
「……お母様。本日わたくしは……謝罪をしにまいりました。幼い頃の愚かな娘の言葉を」
「何の話をしているの。あなたのどこが愚かなものですか」
やはりお母様はお忘れのようだった。わたくしとアシュレイ様を交互に見つめて困惑しているのがよく分かる。
「……お許しいただこうなどと甘い考えは持っておりません。これはすべてわたくしの自己満足でしかない謝罪です。申し訳ございません。わたくしは本当に……産んでいただいた恩に報いることのできない愚かな娘です」
「……もしかして、わたくしが王都の屋敷を出た日のことを言っているのかしら?」
「覚えていてくださいましたか」
「ええ、もちろんですよ。あなたとの日々を忘れるわけがありませんでしょう。あの時はなんともまぁ旦那様によく似たこと、と──微笑ましく思ったものですよ」
ぶつけた内容にそぐわぬ感想に、困惑するのはこちらの番になった。
「ど、どこが微笑ましいのですか。わたくしは病気のお母様に対して……とても酷い、暴言を……」
わたくしは、父に捨てられた母に「お母様のようにはならない」と吐き捨てたのだ。幼いなんて、言い訳にもならない。
「あれのどこが暴言なものですか」
いつの間にか母は立ち上がって目の前まで歩み寄っていて、肩を優しく撫でられた。
「娘が幸せになると言ってくれたというのに。嬉しく思わない親はおりませんよ」
優しい声音。優しい手の温もり。わたくしと同じ色だと言うのに、これでもかと優しい光を称える赤い瞳は柔らかく細められている。
お母様は本当に、心からわたくしを怒ってなどいなかったのだと教えてくださる笑みが向けられて、視界が滲み、まるで子供の頃に戻ったように嗚咽を堪えず泣きじゃくった。
「……ごめ、なさ……おかあさま……本当に、ごめんなさい……っ」
温かい胸に抱き寄せられて、久しぶりに嗅いだ母からは心地良い土の匂いがした。
「それにしても、本当に王太子殿下とのことは残念でしたねぇ。さぞ落胆しているだろうととても心配なさっていたから、わたくしも一度あなたに会いに王都へ出向こうと思っていたところでしたのよ」
いくらか涙も落ち着いたのを見計らったように母はそう切り出した。
しかしどこか面白そうな目がわたくしから、室内にいる、心配そうにこちらを見つめている人へと向かう。
「ですけど心配なかったかしらねぇ。まさかあの可愛らしかったエレシアが殿方と共に来てくれるだなんて! もちろんこれはご挨拶というものでしょう!?」
私を胸に閉じ込めたまま、母はきゃあきゃあとはしゃぐ。顔から火が出たようだった。
「ち、違います!! ア、アシュレイ様、とはそんな……そんな関係、では……っ」
「ええ。その通りです公爵夫人」
わたくしの否定を覆い隠すようにアシュレイ様が大きな声を張った。
「公爵閣下からは了承を得られませんでしたが、お嬢様はご両親に私との婚姻を認めていただきたいと考える優しい方ですから、本日こちらにご挨拶に参りました。もちろん夫人から了承を得たことを盾に閣下に許可を迫るつもりはありませんのでご安心ください。ただ私は──お嬢様の肩の荷が少しでも軽くなればと思い、参ったのです。……公爵夫人。私達の婚姻を認めていただけないでしょうか?」
ずっと、アシュレイ様はわたくしが母に謝罪する勇気が出るようついてきてくださったのだとばかり思っていた。
なのにいつもの人好きのする笑みを消したアシュレイ様は、母に真摯な態度を持ってわたくしとの婚姻への許しを懇願した。
まさか、この方は本当にわたくしと婚姻なさるつもりなの? 父は駄目だと仰って、わたくしは断るつもりだったのに。この方だけが諦めていない。いいえ、本当はわたくしだって……。
「旦那様は認めなかったと?」
「はい。公爵閣下は……父の息子である私に大切なお嬢様を嫁がせるわけにいかない、と仰せで」
母は困ったとの表情を隠さず頰を手に添えて首を傾けた。
「まさかあの人。まだ根に持っているのかしらねぇ……」
「それはどういう……」
ノックの音がして、先ほどわたくしを案内してくれた使用人が現れた。しかし使用人が何か言う前に母は慌てて手を打った。
「あらまぁもういらしたの? 相変わらずせっかちだこと」
せっかち、と言われれば誰かが約束の時間よりも早く訪れたと言うことだろう。
退出するべきか否か、母に尋ねようとして──母は小走りで部屋の隅に置かれた衝立の奥へとわたくしとアシュレイ様を押し込んだ。
日除けのための衝立はアシュレイ様の背よりも高く、室内からわたくし達をうまく隠してしまった。
「ちょうど良いからそこにいてくださいな。静かにね」
人差し指を立てて悪戯っ子のように楽しげに母が微笑む。しかしわたくしはむしろ絶望的な思いでその笑顔を見返していた。
「こ……ここにいてはお客様との会話がすべて聞こえてしまいますが……」
「ええ。せっかくですから盗み聞きなさい。面白いものを見せてあげられますからねぇ」
「なにを……っ」
仰いますか、と。抗議する間もなく母はソファへと戻り、それと同時に扉がやや乱雑に開けられた。
「……なんだね、突然呼びつけて」
聞き覚えしかない声。今朝も聞いた低く響く声が不機嫌さも露わに投げつけられた。
「おかえりなさいませ、旦那様。お忙しいところをこんなに早くお越しくださってとても嬉しいですわ」
「ああ、わしはとても忙しいぞ。今日もエレシアと夕食を共にすることになっている」
「それはよろしいですこと。その席にはわたくしが座る椅子もご用意くださっているのかしら?」
「……好きにしろ」
どうして母は父を呼びつけたのか。震える体を支えてくださったアシュレイ様の目を真っ直ぐに見つめる。もしもアシュレイ様と婚姻の許可をいただくために母の元を訪れたと父に知られたら──どれほど叱られてしまうか。
見つめるアシュレイ様の唇が動いた。
『大丈夫』
優しい笑みも向けられて、強張る体から力が抜ける。
昨日は一人でお父様の元へと出向いたことがとても恐ろしかった。けれど今はこの方がそばにいて下さる。それのなんと心強いことか。
体を支えて下さる大きな手に、手を重ねた。
今のわたくしには唇すら動かすことは許されていない。ただ目で伝えることくらいは──許されるだろうか。
『アシュレイ様』
『好きです』
『大好きです』
『本当は、あなた様と──』
アシュレイ様の唇が優しく弧を描く。衝立の向こうに恐ろしい父がいると言うのに、吸い寄せられた温かい胸に縋りついた。
「それで。先ほどの質問に答えんか。なんだって急に呼びつけたのだね」
憮然とした父の声に、母はまた楽しそうに声を弾ませた。
そうして衝立の向こうからした母の声は、とてつもない爆弾を備えていたのだった。
「旦那様に一つご報告がありますのよ。実はわたくし──妊娠いたしました」
幼い頃に見たきりの屋敷が遠目に見えて、自然と体が硬くなった。お母様と顔を合わせるのはいつぶりかと考えれば、当然お母様が屋敷を出ていかれて以来ということになる。……もはやお母様はわたくしのことなど、名乗らねば分からないかもしれない。
いつの間にか握りしめていた拳が温かく解かれて、優しい目が側に居ると告げてくれる。すっかり緩くなってしまった涙腺からまた涙が零れ落ちそうだった。
屋敷に訪れた立派な車にも、初めて会う年嵩の使用人は狼狽えることなく丁寧に出迎えてくれた。
「ご無沙汰しております。お嬢様。おかえりなさいませ」
「……ごめんなさい。あなたのことを覚えていないわ。会ったことがあったかしら」
アシュレイ様への歓待の挨拶を終えたのちに、使用人はわたくしのことを知っているふうな挨拶をした。情けなく思いながらも正直に尋ねる。しかし使用人は微笑しながら「お嬢様が三つにもなっておられないほどの頃にお会いしただけですので」と答えてくれて、内心ほっとする。
しかしその後に続いた言葉に、またしても体が緊張でこわばった。
「奥様がお待ちでございますよ。早くお顔を見せて差し上げてくださいませ」
「……ええ」
案内してもらわないと、わたくしにはどこが客間なのかすらわからない。
笑顔を見せる使用人に付いていき、わたくしの緊張など知らない使用人はさっさと扉を開けてしまった。
扉をくぐってすぐ目に入った正面の大きな窓からは、暖かな陽射しが室内に差し込んでいる。
きっとお母様の趣味なのだろう、客間は花柄の目立つ可愛らしい装飾で彩られていた。橙色の壁紙に掛けられた小さな壁掛けの花瓶には瑞々しい花が生けられて、柔らかそうなソファには丁寧に編まれたレースが掛けられている。
どこか素朴な雰囲気に、少し緊張が和らいだ。
ソファに腰かけ別の使用人がお茶を運んできたところで、扉がガチャリと音を立てて開いた。
アシュレイ様とほぼ同時に立ち上がり、騒ぐ心臓を抑えて振り返る。
そこに立っていたのは、記憶よりも少しシワの刻まれた美しい女性だ。
幼い頃の記憶では物静かで父の言うことに微笑みとともに頷く姿しか見たことがない母は、艶やかな髪を丁寧にまとめて質素ながらも落ち着いたドレス姿でわたくし達を出迎えた。
少し日焼けしていらっしゃるのが健康的で、わたくしと同じ赤い瞳が真っ直ぐにわたくしを映している。
「……お母様」
いつぶりだろうか、そう呼んだ相手に言わなければならないことがたくさんある。
お体の具合はいかがでしょうか。
学園を無事に卒業いたしました。
……あの日の無礼な言葉を、謝罪しにまいりました。
そう。これを真っ先に伝えなければならない。許していただけるとは思っていないけれど、ずっとずっと、わたくしはあの日のことを、お母様に謝罪したかっ──。
「まぁ……まぁまぁまぁっ!! なんて可愛らしいレディにお成りなんでしょうねぇ!」
病気で療養中の、そのはずの母は、固まるわたくしの目の前で、まるで先日まで近くにいたはしゃぐ女生徒のように目を輝かせて弾む声を張り上げたのだった。
「女の子ってまぁなんてことでしょうね、たった数年会わぬだけでまぁ……愛らしい頭の良い娘になったとは聞いていましたがこんなにもとはお母様はちっとも聞いていませんよ! あらあらまぁそれにしたって少し細すぎではないの? きちんと食事はしているのでしょうね。これじゃあわたくしの娘時代のドレスはちっとも合わないわ。ドレスを詰める令嬢なんて聞いたことありませんわよねぇ。恥ずかしいこと。全部縫い直してしまわないと! ……まぁ大変! わたくしったらお客様を立たせたままで! さぁさぁお座りなさいな。スコット卿もようこそおいでくださいました。遠いところをこのような田舎まで来てくださって嬉しいですわ。それも……娘を連れて、でございましょう!? ああもうわたくし昨日から楽しみで楽しみでちっとも眠れなくって……!!」
「……ご機嫌麗しゅう……公爵夫人。お初にお目にかかれて大変、うれしく思います」
アシュレイ様の言う『公爵夫人』にはやや力が入っているように聞こえた。これは本当に『公爵夫人』なのかと思われていることは明らかだった。
それはわたくしも同じ気持ちだがあいにく姿だけは記憶通りのお母様だ。
元通りソファに腰を下ろしたものの、放っておけばいつまででも喋り続けそうな有様の母の声を遮り、最も気になっていることを尋ねた。
「ご病気のほうは、いかがですか……? お体の具合は……」
「病気というほどのこともありませんけどね、このところとても良くて庭の手入れなども自分でしていますのよ。見てくださった? ほらあそこ! あそこの一角はお母様が植えたお野菜の畑なんですのよ」
「公爵家の別荘の庭に畑をお作りになったのですか!?」
慌てて覗き込んだ大きな窓から見えるのはあろうことか屋敷の正面にある庭だ。一応は通り道から外れた一角ではあるが、そこには畝がいくつもある立派すぎる畑がはっきりと見える。
「なんということを……! あそこでは屋敷の窓から丸見えではありませんか!!」
「ええ、ですからお越しになられた方には驚かれる前にお話ししていますよ」
「自白なさっているのですか!!?」
せめて鮮やかな花々にしてくださればと訴えても母は「ええ、ええ。食用の花も育てていますよ。あとで出してあげましょうねぇ」と明後日の方向の答えを返してくる。
「エレシア。念のために聞くけど、公爵夫人に会うのが初めてってわけじゃないよね……?」
「そのようなはずがありますか! 幼い頃は同じ屋敷に住んでいましたのに!」
耳元でささやかれた疑問に大声で返事をしてしまった。まずいと母を仰ぎ見る。
しかししっかりとアシュレイ様の疑問も聞こえていたらしい母は、にこやかな笑みと共にあっけらかんと答えたのだ。
「嫁いだ当時はそれはもう身の縮こまる思いでしたけれどね、追い出されてからはもう弾けたような気持ちで色々なものに挑戦していますのよ」
母にそのようなつもりはないことは、浮かべられた笑顔を見れば明らかだった。この人は追い出されたことを、今では悲しまれていないのだと分かる。
それでも負い目のあるわたくしにとっては、何よりも痛いところを突かれた思いで言葉に詰まった。
「……どうしたの、エレシア。随分と顔色が悪いようだけれど……少し横になったほうが良いのではない?」
眉根を下げて心から心配してくださっているのだと分かる言葉をかけてくださるお母様は、もしかすると幼いわたくしの言葉などお忘れなのかもしれない。
──だからと言って、このまま言わずにいては、何のためにアシュレイ様と共にここに来たのか。
立ち上がり、頭を下げた。
「……お母様。本日わたくしは……謝罪をしにまいりました。幼い頃の愚かな娘の言葉を」
「何の話をしているの。あなたのどこが愚かなものですか」
やはりお母様はお忘れのようだった。わたくしとアシュレイ様を交互に見つめて困惑しているのがよく分かる。
「……お許しいただこうなどと甘い考えは持っておりません。これはすべてわたくしの自己満足でしかない謝罪です。申し訳ございません。わたくしは本当に……産んでいただいた恩に報いることのできない愚かな娘です」
「……もしかして、わたくしが王都の屋敷を出た日のことを言っているのかしら?」
「覚えていてくださいましたか」
「ええ、もちろんですよ。あなたとの日々を忘れるわけがありませんでしょう。あの時はなんともまぁ旦那様によく似たこと、と──微笑ましく思ったものですよ」
ぶつけた内容にそぐわぬ感想に、困惑するのはこちらの番になった。
「ど、どこが微笑ましいのですか。わたくしは病気のお母様に対して……とても酷い、暴言を……」
わたくしは、父に捨てられた母に「お母様のようにはならない」と吐き捨てたのだ。幼いなんて、言い訳にもならない。
「あれのどこが暴言なものですか」
いつの間にか母は立ち上がって目の前まで歩み寄っていて、肩を優しく撫でられた。
「娘が幸せになると言ってくれたというのに。嬉しく思わない親はおりませんよ」
優しい声音。優しい手の温もり。わたくしと同じ色だと言うのに、これでもかと優しい光を称える赤い瞳は柔らかく細められている。
お母様は本当に、心からわたくしを怒ってなどいなかったのだと教えてくださる笑みが向けられて、視界が滲み、まるで子供の頃に戻ったように嗚咽を堪えず泣きじゃくった。
「……ごめ、なさ……おかあさま……本当に、ごめんなさい……っ」
温かい胸に抱き寄せられて、久しぶりに嗅いだ母からは心地良い土の匂いがした。
「それにしても、本当に王太子殿下とのことは残念でしたねぇ。さぞ落胆しているだろうととても心配なさっていたから、わたくしも一度あなたに会いに王都へ出向こうと思っていたところでしたのよ」
いくらか涙も落ち着いたのを見計らったように母はそう切り出した。
しかしどこか面白そうな目がわたくしから、室内にいる、心配そうにこちらを見つめている人へと向かう。
「ですけど心配なかったかしらねぇ。まさかあの可愛らしかったエレシアが殿方と共に来てくれるだなんて! もちろんこれはご挨拶というものでしょう!?」
私を胸に閉じ込めたまま、母はきゃあきゃあとはしゃぐ。顔から火が出たようだった。
「ち、違います!! ア、アシュレイ様、とはそんな……そんな関係、では……っ」
「ええ。その通りです公爵夫人」
わたくしの否定を覆い隠すようにアシュレイ様が大きな声を張った。
「公爵閣下からは了承を得られませんでしたが、お嬢様はご両親に私との婚姻を認めていただきたいと考える優しい方ですから、本日こちらにご挨拶に参りました。もちろん夫人から了承を得たことを盾に閣下に許可を迫るつもりはありませんのでご安心ください。ただ私は──お嬢様の肩の荷が少しでも軽くなればと思い、参ったのです。……公爵夫人。私達の婚姻を認めていただけないでしょうか?」
ずっと、アシュレイ様はわたくしが母に謝罪する勇気が出るようついてきてくださったのだとばかり思っていた。
なのにいつもの人好きのする笑みを消したアシュレイ様は、母に真摯な態度を持ってわたくしとの婚姻への許しを懇願した。
まさか、この方は本当にわたくしと婚姻なさるつもりなの? 父は駄目だと仰って、わたくしは断るつもりだったのに。この方だけが諦めていない。いいえ、本当はわたくしだって……。
「旦那様は認めなかったと?」
「はい。公爵閣下は……父の息子である私に大切なお嬢様を嫁がせるわけにいかない、と仰せで」
母は困ったとの表情を隠さず頰を手に添えて首を傾けた。
「まさかあの人。まだ根に持っているのかしらねぇ……」
「それはどういう……」
ノックの音がして、先ほどわたくしを案内してくれた使用人が現れた。しかし使用人が何か言う前に母は慌てて手を打った。
「あらまぁもういらしたの? 相変わらずせっかちだこと」
せっかち、と言われれば誰かが約束の時間よりも早く訪れたと言うことだろう。
退出するべきか否か、母に尋ねようとして──母は小走りで部屋の隅に置かれた衝立の奥へとわたくしとアシュレイ様を押し込んだ。
日除けのための衝立はアシュレイ様の背よりも高く、室内からわたくし達をうまく隠してしまった。
「ちょうど良いからそこにいてくださいな。静かにね」
人差し指を立てて悪戯っ子のように楽しげに母が微笑む。しかしわたくしはむしろ絶望的な思いでその笑顔を見返していた。
「こ……ここにいてはお客様との会話がすべて聞こえてしまいますが……」
「ええ。せっかくですから盗み聞きなさい。面白いものを見せてあげられますからねぇ」
「なにを……っ」
仰いますか、と。抗議する間もなく母はソファへと戻り、それと同時に扉がやや乱雑に開けられた。
「……なんだね、突然呼びつけて」
聞き覚えしかない声。今朝も聞いた低く響く声が不機嫌さも露わに投げつけられた。
「おかえりなさいませ、旦那様。お忙しいところをこんなに早くお越しくださってとても嬉しいですわ」
「ああ、わしはとても忙しいぞ。今日もエレシアと夕食を共にすることになっている」
「それはよろしいですこと。その席にはわたくしが座る椅子もご用意くださっているのかしら?」
「……好きにしろ」
どうして母は父を呼びつけたのか。震える体を支えてくださったアシュレイ様の目を真っ直ぐに見つめる。もしもアシュレイ様と婚姻の許可をいただくために母の元を訪れたと父に知られたら──どれほど叱られてしまうか。
見つめるアシュレイ様の唇が動いた。
『大丈夫』
優しい笑みも向けられて、強張る体から力が抜ける。
昨日は一人でお父様の元へと出向いたことがとても恐ろしかった。けれど今はこの方がそばにいて下さる。それのなんと心強いことか。
体を支えて下さる大きな手に、手を重ねた。
今のわたくしには唇すら動かすことは許されていない。ただ目で伝えることくらいは──許されるだろうか。
『アシュレイ様』
『好きです』
『大好きです』
『本当は、あなた様と──』
アシュレイ様の唇が優しく弧を描く。衝立の向こうに恐ろしい父がいると言うのに、吸い寄せられた温かい胸に縋りついた。
「それで。先ほどの質問に答えんか。なんだって急に呼びつけたのだね」
憮然とした父の声に、母はまた楽しそうに声を弾ませた。
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