【長編版】デブ呼ばわりするなら婚約破棄してくださいな

深川ねず

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長編版

44 もう一つの攻防戦の決着①

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 学園を卒業したのちも王太子殿下とその婚約者は仲睦まじく、ほとんど毎日両家を行き来しているらしい。──というのが、現在社交界での一番の話題だ。
 当然、父も耳にしていることだろう。

 数年ぶりに戻った屋敷は様変わりしていた。

 見知った使用人達はほとんどが職を辞したらしく、戻ったときには年老いた家令だけが玄関でわたくしを出迎えた。

 慣れ親しんだ侍女達がいなくなってしまったことが寂しく、また仕事を失って生活に困っているのではと心配にもなって、つい友人にするように手紙を出してしまったが、ほとんどが結婚していたり他家に仕えていると返事があって安心した。

 家令が嫁ぎ先や次の職を世話してくれたらしい。本当に爺やには感謝してもしきれない。


 返ってきた手紙にはわたくしが嫁げばまた近くで仕えたいと言ってくれている者達もいた。それはとても嬉しいと返事を出さなくては。親しい彼女達がそばにいてくれるなら、どこに嫁いでもやっていけるだろう。

 うるさく騒ぐ心臓を抑えて、震える足を一歩ずつ前に進ませていく。

 幼い頃にはたくさんの絵画や美術品が立ち並ぶ、我が家自慢の廊下にはもう一切の装飾が取り払われていて、なんだか別の屋敷に来たかのようだ。それでも、変わらないこともある。

 記憶の通りの場所にある、父の書斎の扉を叩く。中から入室を促す声がした。

 アシュレイ様は例の件を話す場には必ず同席するから一人で行かないようにと何度も念を押してくださったが、父があの方に声を張り上げるなど耐えられない。これはわたくしが一人で片付けるべきことだ。
 そう自分に言い聞かせて、息を整えて扉に手をかけた。

「──お忙しいところ申し訳ございません。お父様。エレシアでございます」

 中に入って膝を折れば、机にかじりついていた父は顔を上げた。

「おお、エレシア。何年ぶりだろうな。やっとお前が帰ってきたというのになかなか会う時間が取れなくてすまないな」

「いいえ。とんでもございません。それよりもお時間をいただきましてお仕事の邪魔をいたしますこと、お詫び申し上げます」

 屋敷に戻り出迎えた爺やにわたくしは『父にお話ししたいことがあるから、時間をいただきたいと伝えて』とお願いしていた。父はどうせ夜会やらパーティーやらに忙しいだろうと思ったが、予想に反して父に会えたのは戻ってきてから翌日のことだった。

「構わんよ。何やらわしに話があると言っておったが一体なにが……ああ、それにしても娘というものは数年会わぬだけで驚くほど美しくなるものだな。昔からお前はそれはもう愛らしい娘であったが、今なら国一番の美姫であろうなぁ」

 記憶にないほど父はわたくしに笑顔を向けて和やかに話しているが、反面わたくしは顔に恐ろしく力を込めて笑顔を作っていた。
 この国一美しいというのは王妃殿下のことであるし、若い娘で言われるなら真っ先にリシュフィを上げねばならないからだ。非公式の場で娘を褒めること自体に問題はないだろうが、父が言うからにはこの次に続く言葉は予想できる。

「まったく王太子殿下も見る目がない。容姿教養どれを取っても我が家のエレシアに匹敵する令嬢などどこにもおらんだろうに」

 父は予想とほぼ同じ言葉をため息と共に吐き出した。

「まぁレストリドも古くからある家柄ではあるが、しかし我がエドワーズ家は建国以来王家に仕える家柄だぞ。それをなんだって陛下はわしに相談もなしに王太子殿下の婚約者を決めてしまわれたのか。大方レストリドが娘を売り込んだのだろう。まったく嘆かわしいことだ。わしの娘は誰よりも優れた才媛に育ったというのに。今頃はきっと陛下も惜しく思われておることだろうよ」

 それは違う、と思っても口には出さない。王太子殿下はリシュフィがもしも侯爵家や伯爵家に生まれていようともきっと彼女を婚約者にしただろうが、それを父に言っても仕方のないことだ。

 しかし父の言葉ぶりにはどことなく王家や王太子殿下を非難する言葉に乗せて、わたくしに対する慰めのようなものも含まれているように感じた。
 その疑惑を裏付けるように、父はわたくしに憐れむような目を向けた。

「残念なことではあったが、もはや王太子殿下の婚約は揺るがんだろう。お前も王太子殿下とはご縁がなかったと諦めてしまいなさい。娘が見る目のない男に嫁がずに済んでいっそ良かったというものだ」

「はい……? ええ、わたくしはそのように心得ております……」

 殿下とリシュフィの婚約が盤石なものとなったことに、さぞ怒り心頭でいるだろうと怯えていたが、父はむしろわたくしを慰めねばと考えているらしい。これは好機かもしれないと思った。

 父は身分で人を見るような人だから、わたくしを殿下に嫁がせようと考えた。しかしその殿下の婚約が調ってしまった以上、わたくしには別の相手を選ばねばならない。

 そして殿下の次に、リシュフィの言葉を借りれば『お買い得なお相手』といえば──大公爵スコット家の嫡男、アシュレイ様に他ならない。

 今の機嫌の良い父にアシュレイ様から婚姻の申し出を頂いたことを伝えれば父はなんと仰るだろう。

「お父様、あの……お話というのは──」

 声が震えたのは恐怖でも何でもなく、沸き上がる期待によるものだ。もしもお父様が『でかしたぞ』とでも仰ってくださればわたくしはあの方の──妻になれるのだろうか。

「スコットの息子がお前に……求婚した……だとっ!!? ならんぞ!! あのような男の息子に大事な娘を嫁がせるわけがなかろうが!!」

 甘く抱いた期待は即座に打ち捨てられて、遠くで父の怒鳴り声がいつまでもこだましていた。



「王女殿下をたぶらかした男の息子だけあって、よもやエレシアに目を付けるとは! さぞ不届きな男になったのだろうよ! 良いか、エレシア。あの男の息子にはわしから正式に断りを入れておいてやる。お前にはもっと相応しい男をわしが見繕ってやろう。しかし殿下の側近連中は軒並み婚約者がおるからな……ああ、伯爵家のアラン殿はまだ未婚か。いやしかしあれはどこぞの令嬢やら未亡人やらとの噂が絶えん軽薄な男だからな。お前には相応しくなかろう。……ああ、安心しなさい。お父様がかならず良い相手を見つけてきてやるからな」

 はいときちんと口から言葉が出ただろうか。辞去の挨拶はご自分の考えに思考が沈む父の耳に届いただろうか。
 何もわからずに足を進め、自室に戻った時にふと思った。

 父が断りを入れてくださるそうだが、保留にしたのはわたくしだ。わたくしからもお手紙をお出しするべきではないか、と。

 椅子を引き、座る。引き出しからレターセットを取り出して、ペンを手に取り、先にインクを付けた。

 以前に頂いたお話は、正式にお断り申し上げます。と、一番頭に書き記す。

「……わたくしが申しました話は、全てお忘れください」

 たった二行の手紙。これ以上に何を書けばいいのか。わたくしには分からない。

 丁寧に封をして、息を吐いた。

 早速、出すかと思って気が付いた。すでに太陽は沈み、部屋は真っ暗になっている。
 ……いつの間に。手紙を出すのは明日にした方が良さそうだ。

 そう自分に言い聞かせて、食堂で父と夕食を共にし、その夜は早々にベッドに入った。

 明日、手紙を出して。それで──この件は、終わり。



 翌日、朝食を食べてすぐに父は出かけて行った。

 手紙を手に玄関へと向かう。本来なら侍女に頼むべきものだが、今は少数で仕事を回している皆に仕事を増やしたくはない。このくらいは自分でするべきだろう。

「お嬢様、郵便はどこに出すのかご存じなのですか?」

「……いくらなんでもそのくらいわかります。いつまでも幼子と同じ扱いは止めてちょうだい」

 過保護な扱いに抗議して、心配そうについてきた爺やの元へ、あわただしく従僕が駆けてきた。
 耳打ちされた爺やは顔色を変えて、わたくしへと目を移す。

「お嬢様に……お客様、だそうですが……」

 わたくしに?

「どなたかしら。それならば普段通り客間にお通ししてちょうだい。着替えてまいりますから」

 今のわたくしはやや質素な外出着姿だった。さすがにお客様にお会いできる姿ではないと思ったが、爺やは困った顔を隠さず首を振った。

「お客様が、外出着のまま玄関までお越しいただきたいと仰せだそうで……」

 困り果てた様子の爺やにそのようなことが許されるはずがないと言い張っていると、背中に笑い混じりの声がかけられた。

「こんにちは、エレシア嬢」

 優しい声。ほんの昨日、独り占めすることへの期待を抱いたその声がわたくしの名を呼んだ。

 聞き間違いや幻ではないかと疑って、振り返る速度は自然と緩やかになった。

 しかし聞き間違いでも幻でもない。朝の柔らかな陽光に照らされた蜂蜜色の髪をした人がゆっくりとこちらに歩いてきている。目があった瞬間、その方は安堵したようにお顔を綻ばせた。

「……アシュレイ、様……」

「ごめんね。突然約束もなく押しかけて。どこかに出かける用でもあったのかな?」

 にこやかに話しかけられて、爺やと従僕が下がるのが視界の端に見えた。それでも爺やはすぐそばにいることが気配で分かる。仕える家のお嬢様と殿方を二人きりにするような爺やではないのだ。

「郵便を出しに、行こうかと……」

 その必要がまったくなくなってしまったことに、言ってから気が付いた。しかし直接お断りしますと言うには何ともタイミングが掴めない。

「そう。ならそのあとの時間は僕にくれないかな。君と出かけたいところがあるんだ」

 お出かけのお誘いに、これを口実に婚約の申し出もお断りしてしまおうと思ったが、しかしどうしても言葉が出ない。

 そんなわたくしの様子に、後ろから爺やが進み出てきた。

「スコット卿。恐れながら、エレシアお嬢様は本日──」

「いいえ、参ります。支度してきますから、お待ち下さい」

 爺やの言葉にかぶせるように声を上げた。
 あのまま放っておけば爺やは断りを伝えてしまうだろう。そのつもりだったらしい爺やは視界の端で慌てていたが、無視して自室へと足早に戻った。



 車は乗り込むときは奥へと詰める。
 当然のようにアシュレイ様は、わたくしの隣に腰を下ろした。

「郵便を出しに、行く?」

「……いいえ」

 あのたった二行の手紙は置いてきた。お会いできたのにわざわざ手紙で返事をすることもないだろう。
 それにまだ返事を待ってくださっているこの方と出掛けるというのに、断りもせずに付いていくわけにはいかない。

「あの……お話が……」

 膝の上で握りしめた手にぽたりと何かが落ちた。

「あ……」

 それは私の目から零れ落ちたものだ。それを自覚して、止まらなくなった。
 早く、早く止めないと。そして早く、お断りをお伝えしないといけないのに。

「も、申し訳、ございませ……っ」

 混乱して目元を拭う手が取られた。目から離されて、代わりに柔らかいハンカチが押し当てられる。
 顔を上げれば痛ましい表情を浮かべるアシュレイ様と真正面から目が合わさり、堪えきれずにその胸に飛び込んだ。

 父はアシュレイ様との婚姻を許さないと仰った。わたくしとこの方は夫婦にはなれない。だからこのような振る舞いは決して許されない。それは分かっているのに。期待など抱かなければ──悲しく思わずに済んだのに。

 アシュレイ様はほんの一瞬体を硬直させて、すぐに腕をわたくしの背中へと回して強く抱きしめてくださった。

「……今朝、閣下から書簡が届いてね」

 片手が頭へと移動して、優しく撫でられる。それと同時に耳元で優しい声がした。

「絶対に一人で行かないようにって言っただろう? いや、君の性格を考えれば予想できたことだね。僕が悪かった」

 わずかに体が離されて、未だに涙に濡れる顔を覗き込まれる。

「叩かれてはいないね。本当に良かった。怖い思いはしなかった?」

 優しく問われてまた涙が溢れてくる。きっと誤解したのだろうアシュレイ様は眉を寄せてしまった。
 幸いにして父は機嫌がよかったのか、終始殿下に振られたわたくしを慰める形を取っていた。だからいつもの大きな声でも怖くはなかった。
 けれど、一人で廊下を歩き、父の書斎を目指していた時はとても──。

「一人で向かう時はとても怖くて、心細くて、後悔しました……ご一緒していただけばよかったと、何度も……」

 思わず吐いてしまった弱音を自覚して、歯を食いしばる。わたくしはこの方の妻にはならないのだから、これ以上甘えるわけにはいかない。

「ア、アシュレイ様……先日いただいた、お話は……」

 お断りさせていただきます。そう続けようとして、優しい声に止められた。

「……ねぇ、エレシア。このまま、駆け落ちしてしまおうか」

「え……っ!?」

 驚き、体を離す。本当に驚きすぎて、涙が止まっていた。

「本当は今日、書簡なんて関係なく君を訪ねるつもりでいたんだ。連れていきたいところがあって。けど……さすがに君が泣くとは思っていなくてね。少し、堪えてる。今日連れて行くところは、君をまた泣かせてしまうかもしれないから」

 優しく目元を拭いながらアシュレイ様は言い、止まったことに安堵の笑みを見せた。

「エレシア。僕はそばに居て必ず君を守るつもりでいるけど、君はまた泣くかもしれない。僕はそれが少し怖い。だからすべて捨ててしまって一緒に逃げようか。どちらを選んでも覚悟の必要な選択だと思う。それが怖ければ……その続きを話して。そうすればすぐに君の屋敷に戻るよ」

 どうすると問われて、混乱する頭が疑問を持った。

「わたくしが泣くかもしれない選択とは、なんでしょう……?」

 目を瞬いたアシュレイ様は「しまった。言ってなかったね」と照れたように頬を撫でた。

 この方でもそのような手抜かりをなさるのか。いや、それほど動揺なされたのかもしれない。わたくしが泣いた、ただそれだけのことで。

 そして再び鳶色の目がわたくしを映す。どのような表情の変化も見逃さないというように。

「君の母上に会いに行こう。エレシア」

 面会の約束はもう取り付けてあると抜け目のないこの方は仰った。それで今日、会いに来てくださるつもりでいらっしゃったのか。

 母に会うか、駆け落ちか。──この方を諦めてしまうか。

 答えはただ一つだ。

「……母に、会います」

 情けなくも声は震えてしまったというのに、アシュレイ様は目元を和らげて頷いてくださった。
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