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長編版
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大通りにある公園では今日も多くの人達が遊んだり食事をしたりと思い思いの時間を過ごしている。天気がいいから木陰が人気らしいが、遅い時間だったからか丁度良く場所を確保することが出来た。
芝生に持参したラグを広げて、腰を下ろすと風が通り抜けて心地よい。一息ついてから、大きなバスケットをドスンと殿下の前に置いた。
「消し炭かどうか、ご自分の目で確かめて見てくださいませ!」
「だから悪かったと何度も……お前の作ったものが消し炭なわけがないだろう。そういう料理なのだ。黒い……岩のような……」
「違うと言っていますのに!!」
必死に言い返せば殿下は口元に手を当てて顔を逸らした。……肩が震えている。
「結構です。殿下には一口もあげませんから!」
「待て待て。それは困る。これはすべて俺のものだ」
未だに口元をひくつかせながらもバスケットを奪われてしまった。
殿下は腕の中にバスケットを抱え込んだまま蓋を開いて、中を覗き込んで固まった。
目を丸く、口は大きく開かれたそのお顔はまさに──驚愕というにふさわしい顔だった。
「黒くない……これは……サンドイッチか……!? キッシュもあるではないか!!」
料理の体をなしていると困惑する殿下は私へと目を移して、びくりとその体が跳ねた。
「あ、いや、と、とても美味しそうな料理で驚いた。これは……食べてもよいのかな……?」
「……よいと言うと思いますか!!」
暖かな公園に似合わぬ怒鳴り声をぶつけてバスケットを取り上げた。
背中に隠す。ふんと顔をそむけてしまうと慌てた殿下が両手を合わせて情けなく哀願してきた。
「すまなかった。本当に美味しそうで驚いただけだ」
「……殿下のために作りましたのよ」
「光栄なことだ。レストリド家の姫君の手料理を食べられる幸せ者は世界で俺だけだろう」
「アラン様にも今度差し入れしておきますわ」
「駄目だ。俺以外に食べさせることは許さんぞ」
じわじわと声が近付いてくる。横目で見た殿下はすぐそばまでにじり寄ってきていた。
「お前の手料理が食べられるなど幸せすぎてつい悪ふざけをしてしまったのだ。せめて一口だけでも食べさせてくれないか。これを逃したら後悔してもしきれん」
必死に懇願する口から吐く息が頬にかかる。……この人、料理しか見えていないのか。この距離にいて一切赤面せずにいる殿下は初めて見るかもしれない。
「……仕方ありませんわね。お裾分けして差し上げますわよ」
「! そうか!」
背中から取り出したバスケットはすぐさま殿下に奪い取られた。嬉しそうにどれを食べるか吟味する姿はなんだか子供みたいで可笑しくなる。
「心配しなくともすべて殿下のものですったら。お好きなものをお好きなだけどうぞ」
私が用意したのはポテトサラダとハム、海老とアボカドのカンパーニュサンドの二種類とほうれん草と鶏肉、キノコとベーコンの二種類のキッシュ、それにドライフルーツのパウンドケーキだ。
目を年甲斐もなく輝かせた殿下は海老とアボカドのサンドイッチに手を伸ばす。そのお顔のまま一口食べて、また驚愕の表情を浮かべた。
「……本当に美味しいじゃないか!」
「一口でよろしいんでしたっけ?」
「あ、だ、駄目だぞ! すべて俺のものと言ったのはリシュフィだろう!」
「なら黙って食べなさいませ。口を開けば失礼なことばかり仰るんだから……」
一言苦情を伝えつつ、真鍮の水筒に入ったアイスティーをグラスに淹れて差し出す。
グラスを受け取った殿下は気まずそうに私の顔を覗き込んだ。
「疑って悪かった。まさか公爵家の娘がこれほど料理上手だと思わなくて、ついな」
殿下の言っていることは確かに分かる。公爵家に生まれた娘に料理の腕など不要だ。これはまさしく、前世の知識に他ならない。
「これでもお料理やお掃除は得意なんです。部屋もいつも綺麗にしていましたでしょう?」
殿下は「一度しか見ていないが確かに綺麗に片付いていたな」とやや赤面しつつ頷いた。
料理だって掃除だって、練習しなければ上手くなるはずがない。練習したのだ。何度も、何度も。前世の私にはそれしかなかったから。
しかしそれも公爵家に転生してしまった私には──。
「すべて無駄なものでしたけれど」
にっこり笑ってそう言って、ポテトサラダのサンドイッチを手に取った。
お砂糖を入れて少し甘めに、なめらかで舌ざわりの良いポテトサラダは私の得意料理だ。
目を瞬いた殿下は手にしたサンドイッチの残りを一気に口に放り込み、喉が動いた。
そして私と同じポテトサラダのサンドイッチを手に取って、それを見つめながら口を開いた。
「確かに公爵家の娘には不要なものだろうが──少なくとも俺は今日、美味しい弁当を食べることが出来た」
サンドイッチから顔を上げた殿下の綺麗な碧眼は、とても優しく、私を映している。
「お前が努力してくれたお陰だな。ありがとう」
固まる私に再度微笑んで、殿下はまたサンドイッチへと目を移動させていった。
この方は、何気なく言ったのだろうこの言葉がどれほど私を救ってくださったのか。きっと分からないだろう。
──今度は私の番だ。この方の憂いは、私が消して差し上げる。
そっと身を乗り出して、自分から大好きなお顔に近付いていった。
「リシュフィ?」
大好きな声が私の名前を呼ぶ。その唇にかぶさるように、唇で触れた。
「フェルナンド様がとても嬉しいことを仰ってくださるから、強引にしてしまいました。でも、強引なものも悪くはありませんでしょう?」
真っ赤になって固まっている殿下に微笑みかける。私の台詞を聞いた殿下の指が私の頬を撫で、風に靡く髪を耳にかけた。
「三度目は俺からしても良いか」
言うなり塞がれた口付けは長く甘くて、酩酊したように頭が痺れるほどの幸せに包まれる。
「では……」
四度目はまた私からですか。そう口にしようとして、周りがいやに静かなことが気にかかった。
広場の中央へと目を向けた瞬間に、止まった時間が動き出したように人々が動きを再開し、次々に立ち去っていく。
小さな女の子が指をこちらに向けるのを母親が阻止し「見ちゃいけません!」と叱りつけて走り去っていった。
「…………節度だ。節度を保って式までの一年を耐えるぞ」
「……了解しました」
いくらか座る体が離れてしまったことは、致し方のないことだった。
照れ隠しに殿下は手にしていたポテトサラダのサンドイッチを一口食べてもぐもぐと咀嚼したのちに──「ぶはっ」と吹き出した。
「そ、そんなに笑いますか?」
「いや、違う……違うが……やはりお前はお前だな、と」
体を揺らして笑い続ける殿下はまたサンドイッチを一口食べる。
首を傾げつつ私も同じサンドイッチを一口齧って──顔から火が出たようだった。
「食べないでください!!」
「嫌だ。これはすべて俺のだと言ったのはお前だぞ」
「駄目です! お……お砂糖と塩を間違えているではないですか! しょっぱいでしょう!」
いくら言っても殿下はサンドイッチを返してくれず、すべて食べきってしまった。得意の甘いポテトサラダだったのに……!
「他の物はわたくしが毒見してから食べてくださいませ! ……海老は大丈夫だったのでしょうね!?」
「言われてみれば海老もやや塩気が強かったかな……?」
「~~もうっ! 全部わたくしが食べます!!」
バスケットを取り上げようとするも、殿下は「冗談だ」と大口を開けて笑いながらバスケットを高く掲げてしまった。
「返してください!」
「駄目だというに。これは俺のだ」
「いじわるです!!」
「そうだな。お前があまりにも可愛らしく慌てるから、いじめ甲斐があるというものだ。さて、次はキッシュをいただくかな」
「駄目ですったら──!!」
慌てる私を笑いながら、殿下はバスケットから取り出したキッシュを私の口に放り込んだ。
「どうだ、美味しいか?」
にやけた笑い顔の殿下を睨みつつ舌でよく味わう。……よし、ほうれん草は大丈夫!
「次はキノコです、フェルナンド様!」
「はいはい」
キノコのキッシュを放り込まれ、パウンドケーキを食べて。どうやら間違えたのはポテトサラダだけだったらしいことがわかり、ほっと一息ついて。
拗ねた私を宥めつつお弁当がすべて殿下のお腹の中に消えたところで、買いたいものがあるからと二人で商店がある通りへとのんびりと歩き始めた。
「何を買いに行くのだ?」
「それは着いてからのお楽しみです」
そう言いつつ店は思いのほか近くにあり、すぐに到着した。
「文具店?」
殿下の疑問の声を背に、扉を開く。
店主は愛想よく声をかけて、頭を下げた。
「何をお探しでしょうか、お嬢様」
「インクを見せていただきたいの。──鮮やかな碧色のインクはありますか?」
店主はもちろんですと言って裏に下がって行った。
「藍色のものは持っているんじゃなかったのか?」
「碧色です。……お手紙を書くのに使いたくて」
じっと殿下の碧玉の瞳を見つめて微笑む。意図がわかったらしい殿下は頬を赤く染めて、私の腰に手を添えた。
「それは……俺に宛てたものに使うと思って良いのか」
熱を帯びた視線を見つめ返し、これで違いますよと言えばどんなお顔をなさるのか、手に取るようにわかるなと思ってこっそり笑った。
「人生初めてのラブレターを、愛する方に書きますの」
それは本当に俺だろうなとでも言われるかと思ったのに、殿下はそれはそれは嬉しそうな笑みを浮かべた。
「楽しみにしている! それなら俺も藍色のインクをもらっていくかな」
声を弾ませた殿下は、ちょうど戻った店主に二度手間となった謝罪と共に藍色のインクを頼んだ。
「この令嬢の瞳の色と同じ色のものを頼む!」
弾む声に店主は微笑ましいものを見る目をしている……さっさとお金を払って店から逃げた。
空が茜色に染まったころ、揃って車へと戻った。
人目がなくなったからか、殿下は隣り合って座る私の手に大きな手を重ねた。
「お前の手料理は本当に美味しくて驚いた。またピクニックに行くときは作ってきてくれ。今度は甘いポテトサラダを楽しみにしている」
子供の様にはしゃぎながら、殿下は私の手を優しく撫でた。
「……もう遅いから、今日はこのままお前の屋敷まで送っていこう。手紙は今日書くのか? 郵便配達に頼まずお前が持ってきてくれ。すぐに返事を書くからな」
にこやかに話しているのに、手に触れる温かさはどんどんと増すようで、まるで離れたくないと言われているようだった。
「わたくしも、フェルナンド様と一緒に城へ戻りますわ」
私も同じ気持ちだ。
「今日はお城に泊めてくださいませんか?」
そうすれば夕食もご一緒できて夜遅くまでそばに居られる。明日の朝食もご一緒できるし──。
「だ……駄目に決まっているだろう!! おっお前が同じ屋根の下にいる中でなど……っろくに寝られんわ!!」
「王城の屋根ですよ……!?」
一つ屋根の下にしても広すぎる!!
「駄目なものは駄目だ! お前が近くにいるとわかっていながら風呂に入り寝支度を、など……出来るわけがない……っ」
「……わかりました。譲歩いたします。殿下の二つ隣の部屋で我慢いたしますから!」
「隣の部屋で寝るつもりだったのか!?」
「部屋が分かれていれば同衾にはなりませんでしょう!」
「はっきりと口にするな! よくそんな言葉を知っていたな!?」
前世の知識です、との言葉は飲み込む。
「お、お前が隣で寝るなど!……っ何か音でも聞こえてきたら……頭がおかしくなりそうだ……っ!! 今すぐ帰りなさい! ……レストリド公爵邸に向けてくれ!」
殿下は私の意見を無視し、運転手へと指示を出した。
「酷いですわ、殿下! 勝手に決めてしまわれるなんて!! 帰りません! わたくしは帰りませんわよ!! 運転手さん城までお願いします!!」
※
殿下のお帰りと聞いて駆け付けた殿下の三人の側近は、信じられない光景を前に動けずにいた。
「いいから今日は帰りなさい! ……明日迎えをよこすから!」
「嫌です! 絶対に泊まるんです!! 殿下と少しも離れたくありません!!」
「わ、わがままを言うな!! いくら可愛かろうともそれだけは聞けんぞ……っ!!」
見間違いでなければ、確かに殿下は愛する婚約者を車に押し込め、令嬢の模範ともいえる由緒正しい公爵家の令嬢は殿下の腕にしがみついて喚いている。
殿下のお側で幼い頃から三人行動を共にしてきた側近達は、同じ動作でお互いの顔を見合わせた。
どうやらレストリド公爵令嬢は愛する婚約者と離れたくはないからと城に泊まりたがり──殿下はそれを阻止しているらしいことは分かる。
「……お泊めすることがそれほど難しいとも思えんが……何か問題でもあったかな?」
「君ならそうだろうが、あの殿下だからな……」
「ああ、君ならともかくな……」
失礼な友人達に抗議する間もなく殿下と令嬢は言い争っている。
「殿下はわたくしと一緒にいたくはないのですか!? 愛してくださっていないから、帰れなどと非道なことが言えるのだわ!」
「愛しているからこそだ! わからんやつだな!!」
愛しているなら泊めたいと思うものではなかろうか。いや主君がそう言われるのであれば自分が異常なのだろう。そうに決まっている。
困り果てる殿下に、自分がレストリド公爵令嬢をお送りして参りますと声をかけようと一歩車へと足を踏み出して。
「……わかった。埋め合わせはしよう。何か欲しいものはないか? ドレスでも宝石でも、お前のためなら何でも手に入れてやろう。だから今日は帰」
「……わたくしは……殿下と過ごす時間が欲しゅうございます……」
…………。
同僚の一人が何事かと集まってきていた侍女の一人に指示を出した。
「レストリド公爵令嬢が本日お泊まりになる。支度をしておくように」
どうやら指示を予想していたらしい侍女は、肩を震わせながら「かしこまりました」と頭を下げて名残惜しそうに去っていった。
「………………あ、あと少しだけだぞ! その後、俺が送っていくから、必ず帰るのだぞ! わかったな!?」
殿下のお言葉へ、美しく可愛らしい猫をかぶる公爵令嬢は笑みを返しただけだった。
同僚達と肩を竦めた。
今後もここグランドーラ国は安穏とした日々を送るだろう。
王太子ご夫婦の仲のよろしいことは、良いことだ。
……この翌日の朝。
食堂の前では「どうして来てくださいませんでしたの! 一晩中待っておりましたのに!」と叫ぶ女性の声と「行くわけがなかろうが馬鹿者! あ、朝からそのようなことを大声で叫ぶものではないわ!!」と言い返す男性の声がして、そっと廊下の角から覗き込めば目の下に深い隈が刻まれた殿下が婚約者の口を手で塞いでいた。
愛する婚約者が泊まったというのに部屋を訪れなかったとは、さすがは殿下だ。己を律することをよく心得ておられるのだなぁと敬服し、その場を後にした。
芝生に持参したラグを広げて、腰を下ろすと風が通り抜けて心地よい。一息ついてから、大きなバスケットをドスンと殿下の前に置いた。
「消し炭かどうか、ご自分の目で確かめて見てくださいませ!」
「だから悪かったと何度も……お前の作ったものが消し炭なわけがないだろう。そういう料理なのだ。黒い……岩のような……」
「違うと言っていますのに!!」
必死に言い返せば殿下は口元に手を当てて顔を逸らした。……肩が震えている。
「結構です。殿下には一口もあげませんから!」
「待て待て。それは困る。これはすべて俺のものだ」
未だに口元をひくつかせながらもバスケットを奪われてしまった。
殿下は腕の中にバスケットを抱え込んだまま蓋を開いて、中を覗き込んで固まった。
目を丸く、口は大きく開かれたそのお顔はまさに──驚愕というにふさわしい顔だった。
「黒くない……これは……サンドイッチか……!? キッシュもあるではないか!!」
料理の体をなしていると困惑する殿下は私へと目を移して、びくりとその体が跳ねた。
「あ、いや、と、とても美味しそうな料理で驚いた。これは……食べてもよいのかな……?」
「……よいと言うと思いますか!!」
暖かな公園に似合わぬ怒鳴り声をぶつけてバスケットを取り上げた。
背中に隠す。ふんと顔をそむけてしまうと慌てた殿下が両手を合わせて情けなく哀願してきた。
「すまなかった。本当に美味しそうで驚いただけだ」
「……殿下のために作りましたのよ」
「光栄なことだ。レストリド家の姫君の手料理を食べられる幸せ者は世界で俺だけだろう」
「アラン様にも今度差し入れしておきますわ」
「駄目だ。俺以外に食べさせることは許さんぞ」
じわじわと声が近付いてくる。横目で見た殿下はすぐそばまでにじり寄ってきていた。
「お前の手料理が食べられるなど幸せすぎてつい悪ふざけをしてしまったのだ。せめて一口だけでも食べさせてくれないか。これを逃したら後悔してもしきれん」
必死に懇願する口から吐く息が頬にかかる。……この人、料理しか見えていないのか。この距離にいて一切赤面せずにいる殿下は初めて見るかもしれない。
「……仕方ありませんわね。お裾分けして差し上げますわよ」
「! そうか!」
背中から取り出したバスケットはすぐさま殿下に奪い取られた。嬉しそうにどれを食べるか吟味する姿はなんだか子供みたいで可笑しくなる。
「心配しなくともすべて殿下のものですったら。お好きなものをお好きなだけどうぞ」
私が用意したのはポテトサラダとハム、海老とアボカドのカンパーニュサンドの二種類とほうれん草と鶏肉、キノコとベーコンの二種類のキッシュ、それにドライフルーツのパウンドケーキだ。
目を年甲斐もなく輝かせた殿下は海老とアボカドのサンドイッチに手を伸ばす。そのお顔のまま一口食べて、また驚愕の表情を浮かべた。
「……本当に美味しいじゃないか!」
「一口でよろしいんでしたっけ?」
「あ、だ、駄目だぞ! すべて俺のものと言ったのはリシュフィだろう!」
「なら黙って食べなさいませ。口を開けば失礼なことばかり仰るんだから……」
一言苦情を伝えつつ、真鍮の水筒に入ったアイスティーをグラスに淹れて差し出す。
グラスを受け取った殿下は気まずそうに私の顔を覗き込んだ。
「疑って悪かった。まさか公爵家の娘がこれほど料理上手だと思わなくて、ついな」
殿下の言っていることは確かに分かる。公爵家に生まれた娘に料理の腕など不要だ。これはまさしく、前世の知識に他ならない。
「これでもお料理やお掃除は得意なんです。部屋もいつも綺麗にしていましたでしょう?」
殿下は「一度しか見ていないが確かに綺麗に片付いていたな」とやや赤面しつつ頷いた。
料理だって掃除だって、練習しなければ上手くなるはずがない。練習したのだ。何度も、何度も。前世の私にはそれしかなかったから。
しかしそれも公爵家に転生してしまった私には──。
「すべて無駄なものでしたけれど」
にっこり笑ってそう言って、ポテトサラダのサンドイッチを手に取った。
お砂糖を入れて少し甘めに、なめらかで舌ざわりの良いポテトサラダは私の得意料理だ。
目を瞬いた殿下は手にしたサンドイッチの残りを一気に口に放り込み、喉が動いた。
そして私と同じポテトサラダのサンドイッチを手に取って、それを見つめながら口を開いた。
「確かに公爵家の娘には不要なものだろうが──少なくとも俺は今日、美味しい弁当を食べることが出来た」
サンドイッチから顔を上げた殿下の綺麗な碧眼は、とても優しく、私を映している。
「お前が努力してくれたお陰だな。ありがとう」
固まる私に再度微笑んで、殿下はまたサンドイッチへと目を移動させていった。
この方は、何気なく言ったのだろうこの言葉がどれほど私を救ってくださったのか。きっと分からないだろう。
──今度は私の番だ。この方の憂いは、私が消して差し上げる。
そっと身を乗り出して、自分から大好きなお顔に近付いていった。
「リシュフィ?」
大好きな声が私の名前を呼ぶ。その唇にかぶさるように、唇で触れた。
「フェルナンド様がとても嬉しいことを仰ってくださるから、強引にしてしまいました。でも、強引なものも悪くはありませんでしょう?」
真っ赤になって固まっている殿下に微笑みかける。私の台詞を聞いた殿下の指が私の頬を撫で、風に靡く髪を耳にかけた。
「三度目は俺からしても良いか」
言うなり塞がれた口付けは長く甘くて、酩酊したように頭が痺れるほどの幸せに包まれる。
「では……」
四度目はまた私からですか。そう口にしようとして、周りがいやに静かなことが気にかかった。
広場の中央へと目を向けた瞬間に、止まった時間が動き出したように人々が動きを再開し、次々に立ち去っていく。
小さな女の子が指をこちらに向けるのを母親が阻止し「見ちゃいけません!」と叱りつけて走り去っていった。
「…………節度だ。節度を保って式までの一年を耐えるぞ」
「……了解しました」
いくらか座る体が離れてしまったことは、致し方のないことだった。
照れ隠しに殿下は手にしていたポテトサラダのサンドイッチを一口食べてもぐもぐと咀嚼したのちに──「ぶはっ」と吹き出した。
「そ、そんなに笑いますか?」
「いや、違う……違うが……やはりお前はお前だな、と」
体を揺らして笑い続ける殿下はまたサンドイッチを一口食べる。
首を傾げつつ私も同じサンドイッチを一口齧って──顔から火が出たようだった。
「食べないでください!!」
「嫌だ。これはすべて俺のだと言ったのはお前だぞ」
「駄目です! お……お砂糖と塩を間違えているではないですか! しょっぱいでしょう!」
いくら言っても殿下はサンドイッチを返してくれず、すべて食べきってしまった。得意の甘いポテトサラダだったのに……!
「他の物はわたくしが毒見してから食べてくださいませ! ……海老は大丈夫だったのでしょうね!?」
「言われてみれば海老もやや塩気が強かったかな……?」
「~~もうっ! 全部わたくしが食べます!!」
バスケットを取り上げようとするも、殿下は「冗談だ」と大口を開けて笑いながらバスケットを高く掲げてしまった。
「返してください!」
「駄目だというに。これは俺のだ」
「いじわるです!!」
「そうだな。お前があまりにも可愛らしく慌てるから、いじめ甲斐があるというものだ。さて、次はキッシュをいただくかな」
「駄目ですったら──!!」
慌てる私を笑いながら、殿下はバスケットから取り出したキッシュを私の口に放り込んだ。
「どうだ、美味しいか?」
にやけた笑い顔の殿下を睨みつつ舌でよく味わう。……よし、ほうれん草は大丈夫!
「次はキノコです、フェルナンド様!」
「はいはい」
キノコのキッシュを放り込まれ、パウンドケーキを食べて。どうやら間違えたのはポテトサラダだけだったらしいことがわかり、ほっと一息ついて。
拗ねた私を宥めつつお弁当がすべて殿下のお腹の中に消えたところで、買いたいものがあるからと二人で商店がある通りへとのんびりと歩き始めた。
「何を買いに行くのだ?」
「それは着いてからのお楽しみです」
そう言いつつ店は思いのほか近くにあり、すぐに到着した。
「文具店?」
殿下の疑問の声を背に、扉を開く。
店主は愛想よく声をかけて、頭を下げた。
「何をお探しでしょうか、お嬢様」
「インクを見せていただきたいの。──鮮やかな碧色のインクはありますか?」
店主はもちろんですと言って裏に下がって行った。
「藍色のものは持っているんじゃなかったのか?」
「碧色です。……お手紙を書くのに使いたくて」
じっと殿下の碧玉の瞳を見つめて微笑む。意図がわかったらしい殿下は頬を赤く染めて、私の腰に手を添えた。
「それは……俺に宛てたものに使うと思って良いのか」
熱を帯びた視線を見つめ返し、これで違いますよと言えばどんなお顔をなさるのか、手に取るようにわかるなと思ってこっそり笑った。
「人生初めてのラブレターを、愛する方に書きますの」
それは本当に俺だろうなとでも言われるかと思ったのに、殿下はそれはそれは嬉しそうな笑みを浮かべた。
「楽しみにしている! それなら俺も藍色のインクをもらっていくかな」
声を弾ませた殿下は、ちょうど戻った店主に二度手間となった謝罪と共に藍色のインクを頼んだ。
「この令嬢の瞳の色と同じ色のものを頼む!」
弾む声に店主は微笑ましいものを見る目をしている……さっさとお金を払って店から逃げた。
空が茜色に染まったころ、揃って車へと戻った。
人目がなくなったからか、殿下は隣り合って座る私の手に大きな手を重ねた。
「お前の手料理は本当に美味しくて驚いた。またピクニックに行くときは作ってきてくれ。今度は甘いポテトサラダを楽しみにしている」
子供の様にはしゃぎながら、殿下は私の手を優しく撫でた。
「……もう遅いから、今日はこのままお前の屋敷まで送っていこう。手紙は今日書くのか? 郵便配達に頼まずお前が持ってきてくれ。すぐに返事を書くからな」
にこやかに話しているのに、手に触れる温かさはどんどんと増すようで、まるで離れたくないと言われているようだった。
「わたくしも、フェルナンド様と一緒に城へ戻りますわ」
私も同じ気持ちだ。
「今日はお城に泊めてくださいませんか?」
そうすれば夕食もご一緒できて夜遅くまでそばに居られる。明日の朝食もご一緒できるし──。
「だ……駄目に決まっているだろう!! おっお前が同じ屋根の下にいる中でなど……っろくに寝られんわ!!」
「王城の屋根ですよ……!?」
一つ屋根の下にしても広すぎる!!
「駄目なものは駄目だ! お前が近くにいるとわかっていながら風呂に入り寝支度を、など……出来るわけがない……っ」
「……わかりました。譲歩いたします。殿下の二つ隣の部屋で我慢いたしますから!」
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「部屋が分かれていれば同衾にはなりませんでしょう!」
「はっきりと口にするな! よくそんな言葉を知っていたな!?」
前世の知識です、との言葉は飲み込む。
「お、お前が隣で寝るなど!……っ何か音でも聞こえてきたら……頭がおかしくなりそうだ……っ!! 今すぐ帰りなさい! ……レストリド公爵邸に向けてくれ!」
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※
殿下のお帰りと聞いて駆け付けた殿下の三人の側近は、信じられない光景を前に動けずにいた。
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「わ、わがままを言うな!! いくら可愛かろうともそれだけは聞けんぞ……っ!!」
見間違いでなければ、確かに殿下は愛する婚約者を車に押し込め、令嬢の模範ともいえる由緒正しい公爵家の令嬢は殿下の腕にしがみついて喚いている。
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どうやらレストリド公爵令嬢は愛する婚約者と離れたくはないからと城に泊まりたがり──殿下はそれを阻止しているらしいことは分かる。
「……お泊めすることがそれほど難しいとも思えんが……何か問題でもあったかな?」
「君ならそうだろうが、あの殿下だからな……」
「ああ、君ならともかくな……」
失礼な友人達に抗議する間もなく殿下と令嬢は言い争っている。
「殿下はわたくしと一緒にいたくはないのですか!? 愛してくださっていないから、帰れなどと非道なことが言えるのだわ!」
「愛しているからこそだ! わからんやつだな!!」
愛しているなら泊めたいと思うものではなかろうか。いや主君がそう言われるのであれば自分が異常なのだろう。そうに決まっている。
困り果てる殿下に、自分がレストリド公爵令嬢をお送りして参りますと声をかけようと一歩車へと足を踏み出して。
「……わかった。埋め合わせはしよう。何か欲しいものはないか? ドレスでも宝石でも、お前のためなら何でも手に入れてやろう。だから今日は帰」
「……わたくしは……殿下と過ごす時間が欲しゅうございます……」
…………。
同僚の一人が何事かと集まってきていた侍女の一人に指示を出した。
「レストリド公爵令嬢が本日お泊まりになる。支度をしておくように」
どうやら指示を予想していたらしい侍女は、肩を震わせながら「かしこまりました」と頭を下げて名残惜しそうに去っていった。
「………………あ、あと少しだけだぞ! その後、俺が送っていくから、必ず帰るのだぞ! わかったな!?」
殿下のお言葉へ、美しく可愛らしい猫をかぶる公爵令嬢は笑みを返しただけだった。
同僚達と肩を竦めた。
今後もここグランドーラ国は安穏とした日々を送るだろう。
王太子ご夫婦の仲のよろしいことは、良いことだ。
……この翌日の朝。
食堂の前では「どうして来てくださいませんでしたの! 一晩中待っておりましたのに!」と叫ぶ女性の声と「行くわけがなかろうが馬鹿者! あ、朝からそのようなことを大声で叫ぶものではないわ!!」と言い返す男性の声がして、そっと廊下の角から覗き込めば目の下に深い隈が刻まれた殿下が婚約者の口を手で塞いでいた。
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彼のすぐ後ろには、私の姿をした聖女が怯えた表情で口元に両手を当てこちらを見ている。
手で隠しているけれど、その唇が堪え切れず嘲笑っている事を私は知っている。
聖女の姿となった私の左胸を貫いた彼の愛剣が、ゆっくりと引き抜かれる。
哀しみと失意と諦めの中、私の身体は床に崩れ落ちて――
突然彼から放たれた、狂気と絶望が入り混じった慟哭を聞きながら、私の思考は止まり、意識は閉ざされ永遠の眠りについた――はずだったのだけれど……?
「憐れなアンタに“選択”を与える。このままあの世に逝くか、別の“誰か”になって新たな人生を歩むか」
謎の人物の言葉に、私が選択したのは――
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