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第6話: 蛍の指先と、沈黙の喝采
しおりを挟む治療室の空気は、まるで鉛のように重かった。
ベッドに横たわる患者の苦しげな息遣いだけが響く中、私の背中には、ギルドマスターをはじめとしたベテランヒーラーたちの、疑いと侮りに満ちた視線が突き刺さる。
失敗は許されない。師匠の顔に泥を塗るわけにはいかない。心臓が早鐘のように鳴り、指先が冷たくなっていく。
(落ち着いて、私……。やることは分かってる)
一度、深く息を吸い、そして吐く。周囲の雑音を意識の外へ追いやり、目の前の患者だけに集中する。
看護師として、幾度となく繰り返してきた精神統一。ここも同じ、神のいない手術室だ。
私は患者の脇腹、黒く浮かび上がった『魔力の死斑』の中心に、そっと両手の指を置いた。
そして、師匠の言葉を思い出しながら、意識を自分の体内に集中させる。お腹のあたりにある、温かいエネルギーの塊。これが、私の魔力……?
その温かい流れを、教わった通り「蛇口から水を一滴垂らすように」、震えそうになるのを必死で堪えながら、ゆっくりと指先へと導いていく。
じんわりと、指先が温かくなり、淡い、蛍のような光を帯びた。
「なっ……!?」
「光ったぞ……本当に魔力か!?」
後方から聞こえた息を呑む音に、私の覚悟は決まった。
私はその光る指で、回路の流れに沿って、淀んだ魔力を押し流すイメージで、ゆっくりと、しかし的確に圧を加えていく。
物理的な刺激と、指先から染み込むごく微弱な魔力が、硬く滞った回路の詰まりを内と外から優しく溶かしていく。
私の行動に、治療室の空気が変わった。派手な詠唱もなければ、眩い魔法の輝きもない。
ただ、小さな子供の指先が、蛍のように淡く光りながら、静かに患者の身体を押しているだけ。
突き刺さるようだった疑念の視線が、いつしか固唾を飲んで見守るそれに変わっていく。それは、彼らの常識では到底理解不能な、神聖さすら漂う光景だった。
額に汗が滲む。呼吸も忘れるほどの集中の中、やがて、私の指先に確かな手応えがあった。
頑固に詰まっていた氷が、春の陽光に解けるような、ふっと緩む感覚。
それと同時に、患者の身体から、黒い靄のようなものが陽炎のように立ち上り、音もなく霧散していく!
数分後、患者の寝息はすっかり穏やかなものになっていた。
治療室は、先ほどとは比べ物にならない、驚愕に満ちた静寂に支配されている。
目の前で起きた現実を、誰一人として理解できずにいた。
最初に沈黙を破ったのは、ギルドマスターのグレンであった。
彼は驚愕に目を見開いたまま、やがて、その表情を歓喜に近いものへと変えていく。
「……面白い。実に、面白い……! 合格だ! 文句なしの、満点合格だ!」
その声に、治療室は堰を切ったような大きなどよめきに包まれた。
「馬鹿な……」
「魔法なしで魔力中毒を鎮めたというのか……」
「あの子供、一体何者だ……」
小さな子供と侮っていたヒーラーたちの視線が、驚嘆と畏敬のそれに変わっていく。
私は、ただ必死だっただけなのに……。
全力を出し切って呆然と立ち尽くす私の視界の隅で、遠巻きに全てを見ていた師匠が、満足げに口の端を上げ、静かに「ふっ」と笑うのが見えた。
◇
治療室を支配していたのは、驚愕による沈黙だった。
やがて、誰かがごくりと喉を鳴らす音を皮切りに、空間は再び熱を取り戻す。
ただし、先ほどまでの疑念の熱ではなく、興奮と知的好奇心に満ちた熱だ。
「嬢ちゃん、いや……ユヅカ君、だったか」
ギルドマスターのグレンが、私の目線まで屈み込み、真剣な眼差しで問いかけてきた。
「今の治療について、説明してくれるかね。我々の誰もが見たことのない術式だった」
その言葉に、周囲のベテランヒーラーたちも一斉に頷く。
たくさんの大人の、それも専門家たちの視線が一斉に私に注がれる。
そのプレッシャーに、私は思わず後ずさりしそうになった。
「え、ええと……」
緊張で声が裏返りそうになるのを必死で堪え、私は午前中に師匠から教わったばかりの知識と、自分なりの解釈を、懸命に言葉にしていく。
「まず、患者さんの問題は、魔力回路という『循環』の滞りだと考えました。なので、魔法で無理やり治すのではなく、その流れを助けることを目指しました。ええと、その……」
私は自分の言葉で、あの複雑な理論をなんとか説明しようとする。
「魔力核が魔法の『糸玉』で、回路が『糸』だとしたら、魔力中毒は糸が絡まって固い結び目になったような状態です。そこに無理やり新しい糸を大量に通そうとすると、もっと絡まってしまうかもしれない。だから、結び目を優しくほぐすように、物理的な刺激を与えて……」
「その指先の光はなんだ!? あれは間違いなく魔力だったはずだ!」
一人のヒーラーから、鋭い質問が飛んでくる。
「は、はい! 師匠に教わった通り、自分の魔力をほんの少しだけ……糸を湿らせる『呼び水』のように流し込みました。固くなった結び目を、少しだけ解けやすくするために……」
一つ一つ、必死に説明するたびに、周りの大人たちから「なるほど」「しかし、そんな発想が……」「回路のポイントをなぜあんなに正確に……」と、感嘆とも驚愕ともつかない声が漏れる。
一通りの質疑応答が終わると、グレンは腕を組み、深い感嘆のため息をついた。
「……想定していた治療法とは全く違う。だが、これはこれで完璧な治療だ。いや、術者の魔力消費を極限まで抑え、患者の自己治癒力を引き出す……ある意味、我々の目指すべき理想の形かもしれん」
彼は驚きの色を隠せないまま、視線を私から、部屋の隅で腕を組む師匠へと移した。
「しかし、こんな手法、どこで教わった? ギルベルト……まさか、これが貴様の新しい研究成果か?」
ギルド中の視線が師匠に集まる。しかし、彼は肩をすくめ、面白そうに口の端を上げた。
「さあな。俺は魔力回路の基礎を教えたが、こんな芸当は教えていない。こいつが勝手にやったことだ」
その言葉に、再び周囲がどよめく。
師匠は楽しむように、そのざわめきを一瞥すると、続けた。
「グレン、お前が想定していたのは、もっと別の治療だろう? 例えば……」
師匠の声のトーンが、すっと変わる。それは、先ほどの講義と同じ、絶対的な知識を持つ者の声だった。
「術者が患者の魔力回路に深く接続し、腐敗した魔力を強制的に吸い出しながら、同時に、回路が崩壊しないよう自身の清浄な魔力を寸分の狂いなく流し込み続ける。全身の血液を、心臓を動かしたままリアルタイムで入れ替えるようなものだ。一瞬でも制御を誤れば、患者の魔力核は暴走し、内側から破裂するがな」
「「「…………」」」
師匠の解説に、私だけでなく、周りのベテランヒーラーたちまでもが青ざめて絶句した。
そんな無茶な。それはもはや治療ではない。神の領域に踏み込むような、あまりにも無謀で、超高難易度の魔導外科手術だ。
師匠や、あるいはこのギルドマスターのような、ほんの一握りの天才だけが成し得る神業。それを、この子供に要求するつもりだったのか。
唖然とする私たちを前に、師匠はただ、静かに笑っていた。
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