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最終章 神饌
建国秘譚3
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花の世界はどうか知らぬが、獣の世界は強いものが相手を喰らう。
手に入れたいものがあればそれを追い、爪をかけて引きずり倒し、犯すなり喰らうなりあとは自由。それが獣の営みだ。人の営みも大差ない。
まだ青い蕾であれ、ウェルディが欲しいと思ったのなら、それはもうウェルディのものだった。
たとえファラスの花といえど、例外はない。
ここはウェルディの治める神域で、この花は大地に足をつけたのだから。
「……いとな、み…………」
幽かな声で花が呟いた。
青い草の上に純白の長い髪が広がっている。
少し冷たい膚は柔らかで、今までに喰らったどの獲物よりも滑らかだった。
その体から、ウェルディの鼻を擽る、甘く瑞々しい花の匂いがする。
無理矢理抉じ開けて目覚めさせた所から、獣の本能を滾らせる蠱惑的な匂いが滲み始めていた。
「……ウェルディ……」
夏の空と同じ色の瞳が、涙の雫で煌めきながらウェルディを見上げる。
どれほど無惨に食い尽くしてやろうかと舌なめずりしていたウェルディは、その目を見て息を飲んだ。
「おま、え……」
そこには自らを喰らう者への恐怖も憎しみもなかった。
ただ不意の苦痛に少しばかり怯えながら、疑いもせぬ目で年長の神を見上げているのみだ。
「営みは……これだけですか……?」
ウェルディが身を埋めた肉がぬるりと潤みを帯び、凶器を柔らかに包み込んだ。
白いばかりだった膚が艶やかに色づいていく。
唇や胸の飾りがふっくらと盛り上がり、淡く朱を帯びた。婚姻色だ。
にわかに、誘うような甘い芳香が立ち上った。
「お前……いったい」
「もっと教えてください、ウェルディ……獣の営みを」
しなやかな両腕がウェルディの首に回った。
蔓が大木を支えに上へ上へと伸びるように、まだ成熟を迎えぬはずの幼木が、破瓜されて雌花へと目覚めていく。
辺りを満たした甘い蜜の香りは、今や噎せ返るほど濃厚になった。
蕾の頃はあんなに幼く無邪気であったのに、開花した春の花とはここまで煽情的なものだったのか。
「ねぇ……ウェルディ……」
花の香りがウェルディの意識を支配する。
己が発情の衝動に振り回される一匹の獣に堕ちようとしているのがわかった。
そう言えば昔聞いたことがある。
花神の眷属は根を張った土地から動けないために、交配には他の生き物の力を借りるのだ。
甘い匂いで誘い込み、花弁の中を覗くものには誰であれ蜜を分け与える。
――時には、やってきた者を自らの糧として喰らってしまう花もある、と。
一方的に食い散らかしてやるはずが、精気を吸い取られて食い尽くされるのは己の方ではないのか。
だがウェルディは衝動に逆らわなかった。
「……グゥ、ォオオオ――……!」
太い雄叫びが喉から迸る。
本能に支配されるまま、豹の王は組み敷いた肉を喰らいつくさんと激しく貪り始めた。
ウェルディは花の神を二度と北の大陸に帰さなかった。
棲み処の山に連れ込んで朝となく夜となくまぐわい、己の番にしてしまった。
喰らい合うような交わりは、青い蕾を瞬く間に成熟させた。
ウェルディは花同士の交配では知るはずもない荒々しい法悦で蕾を啼かせ、芳醇な蜜を溢れんばかりに搾り取った。
胎に精を叩きつけ、なだらかな胸を揉みしだいて膨らませ、肌のあちこちに牙を押し付けて所有の証を刻み付けた。
蕾はそれに応えて花弁をほころばせ、息を飲むほど艶めかしい大輪の花に姿を変えた。
目が覚めるたびに、ウェルディは幾重にも重なる花弁の中に身を沈めた。
花はウェルディを受け入れて歓喜の蜜を零し、ウェルディもまたその蜜に溺れた。
温暖な夏が来て、実り多き秋が訪れても、ウェルディは巣篭りして蜜を啜り続け、花はますます美しく咲いた。
――だが、蜜月はそこまでだった。
怒りに狂う白い巨木が根を引き千切って大地を離れ、花を取り戻しに来襲したからだ。
『返せ! 返せ! 其れは吾が花! 吾が種を生むべき、次のファラスの苗床ぞ――!!』
神王の怒りに空は荒れ、天から落ちる稲妻が森を焼いた。
吹きすさぶ風が炎を煽り、森を棲み処とする生き物たちは逃げ惑い、木々は悲鳴を上げた。
『返すものか! これはもはや我が番! 汝は別の花と番え!』
腹の下に花を隠して黒い巨豹が叫び返したが、怒れるファラスが引き下がるはずもない。
神々の王たる巨木は己が枯れる前に草木の眷属を育み、そのうち最も優れた花の神と交配する。
ウェルディが奪ったのは、ファラスが前のファラスから受け継いだ種を、長い時を経てやっと芽吹かせた花神だった。
神々の王の力を最も濃く引き継いだ最後の花。
ほかのどの花もこの花の代わりにはならない。それはもはや、ウェルディも同じだ。
「父神様……! どうぞ怒りを鎮めてください。私はこの地に咲く花でありたい!」
『ならぬ! 其方は吾と交配して、新たなファラスを生まねばならぬ! ファラスが絶えれば地上が滅びるぞ!』
黒豹の下から放たれた懇願を、神々の王は大喝して吹き飛ばした。
その勢いで地が割れ、川と湖が干上がっていく。
生命を守ってきた大樹は、今や災厄の邪木となっていた。
世界がファラスを失うよりも早く、ファラス自身の怒りが大地を滅ぼしかねない。
ウェルディは腹の下の番を守るように伏せながら、小さく舌打ちした。
ファラスの花を掠め取ったのは誤りだった。
次のファラスを生み出すための苗床だとも知らず、その蜜がまさかこれほど心蕩かす甘露だとは思いもしなかった。
地上の平穏を考えるならば、この花はファラスの元へ戻すべきだろう。
だがあの怒りようでは、今更戻しても無事では済むまい。
怒り狂うあの老木が、獣神の精で穢れた花を許すとはとても思えなかった。
それにウェルディも、もはや手放すことは考えられない。
美しく咲かせた花とその蜜が与える歓びを失うくらいなら、戦って諸共に滅びた方がましだ。――それで地上が滅びるとしても。
『愚かなる獣め! 眷属もろとも滅んでしまえ!』
軋みを上げながら無数の枝が襲い掛かってくる。
狂った神王に眷属の獣たちが牙を立てて襲い掛かるが、怒れる巨木は揺るぎもしない。
万物を生み出し、大地を守護して平穏を与え続けてきた神の王だ。その力が怒りに染まれば、ありとあらゆるものを滅ぼす破壊の神ともなりうるだろう。
辺りの神域は焼け野原となり、花を抱えたウェルディは逃げることも戦うこともできなかった。
――その時。
手に入れたいものがあればそれを追い、爪をかけて引きずり倒し、犯すなり喰らうなりあとは自由。それが獣の営みだ。人の営みも大差ない。
まだ青い蕾であれ、ウェルディが欲しいと思ったのなら、それはもうウェルディのものだった。
たとえファラスの花といえど、例外はない。
ここはウェルディの治める神域で、この花は大地に足をつけたのだから。
「……いとな、み…………」
幽かな声で花が呟いた。
青い草の上に純白の長い髪が広がっている。
少し冷たい膚は柔らかで、今までに喰らったどの獲物よりも滑らかだった。
その体から、ウェルディの鼻を擽る、甘く瑞々しい花の匂いがする。
無理矢理抉じ開けて目覚めさせた所から、獣の本能を滾らせる蠱惑的な匂いが滲み始めていた。
「……ウェルディ……」
夏の空と同じ色の瞳が、涙の雫で煌めきながらウェルディを見上げる。
どれほど無惨に食い尽くしてやろうかと舌なめずりしていたウェルディは、その目を見て息を飲んだ。
「おま、え……」
そこには自らを喰らう者への恐怖も憎しみもなかった。
ただ不意の苦痛に少しばかり怯えながら、疑いもせぬ目で年長の神を見上げているのみだ。
「営みは……これだけですか……?」
ウェルディが身を埋めた肉がぬるりと潤みを帯び、凶器を柔らかに包み込んだ。
白いばかりだった膚が艶やかに色づいていく。
唇や胸の飾りがふっくらと盛り上がり、淡く朱を帯びた。婚姻色だ。
にわかに、誘うような甘い芳香が立ち上った。
「お前……いったい」
「もっと教えてください、ウェルディ……獣の営みを」
しなやかな両腕がウェルディの首に回った。
蔓が大木を支えに上へ上へと伸びるように、まだ成熟を迎えぬはずの幼木が、破瓜されて雌花へと目覚めていく。
辺りを満たした甘い蜜の香りは、今や噎せ返るほど濃厚になった。
蕾の頃はあんなに幼く無邪気であったのに、開花した春の花とはここまで煽情的なものだったのか。
「ねぇ……ウェルディ……」
花の香りがウェルディの意識を支配する。
己が発情の衝動に振り回される一匹の獣に堕ちようとしているのがわかった。
そう言えば昔聞いたことがある。
花神の眷属は根を張った土地から動けないために、交配には他の生き物の力を借りるのだ。
甘い匂いで誘い込み、花弁の中を覗くものには誰であれ蜜を分け与える。
――時には、やってきた者を自らの糧として喰らってしまう花もある、と。
一方的に食い散らかしてやるはずが、精気を吸い取られて食い尽くされるのは己の方ではないのか。
だがウェルディは衝動に逆らわなかった。
「……グゥ、ォオオオ――……!」
太い雄叫びが喉から迸る。
本能に支配されるまま、豹の王は組み敷いた肉を喰らいつくさんと激しく貪り始めた。
ウェルディは花の神を二度と北の大陸に帰さなかった。
棲み処の山に連れ込んで朝となく夜となくまぐわい、己の番にしてしまった。
喰らい合うような交わりは、青い蕾を瞬く間に成熟させた。
ウェルディは花同士の交配では知るはずもない荒々しい法悦で蕾を啼かせ、芳醇な蜜を溢れんばかりに搾り取った。
胎に精を叩きつけ、なだらかな胸を揉みしだいて膨らませ、肌のあちこちに牙を押し付けて所有の証を刻み付けた。
蕾はそれに応えて花弁をほころばせ、息を飲むほど艶めかしい大輪の花に姿を変えた。
目が覚めるたびに、ウェルディは幾重にも重なる花弁の中に身を沈めた。
花はウェルディを受け入れて歓喜の蜜を零し、ウェルディもまたその蜜に溺れた。
温暖な夏が来て、実り多き秋が訪れても、ウェルディは巣篭りして蜜を啜り続け、花はますます美しく咲いた。
――だが、蜜月はそこまでだった。
怒りに狂う白い巨木が根を引き千切って大地を離れ、花を取り戻しに来襲したからだ。
『返せ! 返せ! 其れは吾が花! 吾が種を生むべき、次のファラスの苗床ぞ――!!』
神王の怒りに空は荒れ、天から落ちる稲妻が森を焼いた。
吹きすさぶ風が炎を煽り、森を棲み処とする生き物たちは逃げ惑い、木々は悲鳴を上げた。
『返すものか! これはもはや我が番! 汝は別の花と番え!』
腹の下に花を隠して黒い巨豹が叫び返したが、怒れるファラスが引き下がるはずもない。
神々の王たる巨木は己が枯れる前に草木の眷属を育み、そのうち最も優れた花の神と交配する。
ウェルディが奪ったのは、ファラスが前のファラスから受け継いだ種を、長い時を経てやっと芽吹かせた花神だった。
神々の王の力を最も濃く引き継いだ最後の花。
ほかのどの花もこの花の代わりにはならない。それはもはや、ウェルディも同じだ。
「父神様……! どうぞ怒りを鎮めてください。私はこの地に咲く花でありたい!」
『ならぬ! 其方は吾と交配して、新たなファラスを生まねばならぬ! ファラスが絶えれば地上が滅びるぞ!』
黒豹の下から放たれた懇願を、神々の王は大喝して吹き飛ばした。
その勢いで地が割れ、川と湖が干上がっていく。
生命を守ってきた大樹は、今や災厄の邪木となっていた。
世界がファラスを失うよりも早く、ファラス自身の怒りが大地を滅ぼしかねない。
ウェルディは腹の下の番を守るように伏せながら、小さく舌打ちした。
ファラスの花を掠め取ったのは誤りだった。
次のファラスを生み出すための苗床だとも知らず、その蜜がまさかこれほど心蕩かす甘露だとは思いもしなかった。
地上の平穏を考えるならば、この花はファラスの元へ戻すべきだろう。
だがあの怒りようでは、今更戻しても無事では済むまい。
怒り狂うあの老木が、獣神の精で穢れた花を許すとはとても思えなかった。
それにウェルディも、もはや手放すことは考えられない。
美しく咲かせた花とその蜜が与える歓びを失うくらいなら、戦って諸共に滅びた方がましだ。――それで地上が滅びるとしても。
『愚かなる獣め! 眷属もろとも滅んでしまえ!』
軋みを上げながら無数の枝が襲い掛かってくる。
狂った神王に眷属の獣たちが牙を立てて襲い掛かるが、怒れる巨木は揺るぎもしない。
万物を生み出し、大地を守護して平穏を与え続けてきた神の王だ。その力が怒りに染まれば、ありとあらゆるものを滅ぼす破壊の神ともなりうるだろう。
辺りの神域は焼け野原となり、花を抱えたウェルディは逃げることも戦うこともできなかった。
――その時。
応援ありがとうございます!
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