追放された香りの令嬢は、氷の宰相に溺愛されています ~契約結婚のはずが、心まで奪われました~

夢宮るか

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第一章 追放 ― 令嬢は都を追われる

香りの魔法師

 雪ではなく香水が舞う夜だった。

 アウレリア王国の王城、その大広間は、千の蝋燭の光と、数えきれない香りで満ちていた。
 磨き上げられた大理石の床を、宝石をちりばめたドレスの裾が滑るたび、香りがかすかに揺れる。熟れた果実、蜂蜜、白薔薇、琥珀──それらが渦を巻いて混じり合い、空気そのものが甘く重くなっている。

 その中心で、ひとりだけ違う調子の香りを纏った女がいた。

 リシェル・グランベール。
 香水の名家、グランベール伯爵家のひとり娘にして、「香りの魔法師」と噂される令嬢。

 小柄だが、姿勢が良いせいで、凛とした印象を与える。
 栗色の長い髪はゆるやかな波を描き、光の加減で、淡い蜂蜜のように透けて見える。肌は雪のように白い。聡明そうなライトグレーの瞳で、ぶしつけにならない程度に、じっと相手をみつめる癖があった。

 彼女の周囲に漂うのは、白百合と雨上がりの土の香りだった。
 華やかさよりも、少し冷たい清廉さと透明感。香りに満ちたこの場所で、かえって彼女を際立たせるような匂いだ。

 リシェルは、手にした銀色の扇を胸元に当て、小さく息を吐いた。

(……やっぱり、こういう場所は、少し息苦しい)

 表向きは王太子妃選定の舞踏会。
 だが実際は、各家の権力と思惑がぶつかり合う戦場だ。
 ドレスも言葉も笑顔も、すべてが武器になり得る世界。

 リシェルが本来得意とするのは、こんな場所ではない。
 彼女の居場所は、静かな調香室──小さな瓶と、秤と、湯気の立つ水浴器のある空間だ。
 けれど今夜ばかりは、彼女自身が香りをまとった「作品」として、この場に立っている。

 細い指が、無意識に自分の首筋に触れる。
 そこには、彼女が自らのために調香したばかりの香水が、淡く染み込んでいた。

 白百合を主とし、そこに雨の匂いを閉じ込める。
 ほんのりと青いグリーンノートと、最後に温かいムスクを一滴──。
 それは「やり直し」と「再生」を願う、彼女だけの香りだった。

「リシェル様、ごきげんよう」

 背後から、砂糖をまぶしたような甘い声がした。
 振り返ると、ピンク色のドレスに身を包んだ侯爵令嬢が、扇を口元に当てて笑っていた。

「まあ、またずいぶんと控えめな香り。今夜は大切な夜なのですから、もう少し華やかなものをお選びになればよろしかったのに」
「わたしには、こちらのほうが似合っていると思いましたので」

 リシェルは柔らかく笑って返す。
 相手のドレスからは、これでもかと甘い花蜜の匂いが立ち上っていた。その奥に、かすかな酸味が混ざる。期待と不安と、嫉妬の匂い。

(……殿下の寵愛を競う夜。皆、必死になるのも無理はないけれど)

 鼻腔に入り込む香りは、ただの化粧や香水だけではない。

 リシェルには、昔から人の感情や嘘が、かすかな匂いとして感じられた。

 喜びは柑橘のように明るく、怒りは焦げた金属の匂い。
 恐怖は冷えた土の匂い、嘘は甘く腐った蜜のような匂い──。

 それが「魔法」だと知ったのは、ずいぶん後のことだ。
 幼いころは、ただ「他の人には分からない匂いが分かる」程度の認識だった。

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