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第二章 氷の契約結婚 ― 宰相邸の花嫁
安心しました
夜も更け、リシェルは自室でひとり、窓辺の椅子に座っていた。
暖炉には小さな火が残っている。
静かな炎の揺らぎと、木がはぜる音。
窓の外には、王都の遠い灯りが点々と揺れていた。
昼間に案内された隣室──調香室には、まだ手をつけていない。
今日一日、あまりに多くのことがありすぎて、心も体も、少し疲れてしまったのだ。
ネグリジェに着替え、髪をほどきながら、リシェルは深呼吸をした。
部屋の空気には、まだわずかに、バートラムの香りが残っているような気がする。
夕食の後、彼が直接ここまで案内してくれたときの匂いだ。
廊下を歩く彼の後ろ姿――背筋の伸びた長身、無駄のない動き、を思い出す。
「ここが、君の部屋だ。何か不足があれば、ジョルジュかマルティナに言え」
「……バートラム様は?」
「私の部屋は向こうだ」
右手側の扉を指さす。
「隣同士、ということですか?」
「宰相邸の構造上、ここが最も安全だ。君の役割を考えれば、何かあったとき、私がすぐに動ける位置にいなければならない」
安全のため──。
そう言いながら、彼の香りはほんの僅かに甘くなった。
気のせいかもしれない。
けれど、リシェルには、「君を守るため」と言われたようにも感じられた。
「一応言っておく。契約内容に、夫婦としての『務め』は含まれていない」
「……っ」
「気を揉む必要はないということだ」
あまりに直球すぎて、返す言葉を失った。
顔が一気に熱くなり、リシェルは視線をそらした。
「安心、しました。その……ありがとうございます」
「安心されるのは、男として、いささか複雑だが」
「え?」
「いや、何でもない」
その時の彼の香りは、確かに、微かに柑橘めいていた。
リシェルは今になって思い出し、ひとりで頬を押さえる。
(わたし、本当に『安心しました』って顔してたのかしら……)
冷静に考えれば、とんでもない失礼だ。
だが、同時に、彼の方も妙にストレートな物言いなのだから、お互い様だろう。
「……はあ」
小さくため息をついて、ベッドの縁に腰を下ろす。
柔らかなマットレスが身体を受け止め、緊張が少しだけ溶けていく。
そのときだった。
ふと、香りが変わった。
鉄と檜。
それに、焦げたような苦い匂いが強まる。
(……バートラム様?)
隣の部屋からだ。
香りが壁をすり抜けるわけではない。
だが、長く空気を共有していると、薄く混ざり合うことがある。
リシェルには、今、自分の部屋の空気の中に、「隣の人間の感情」が紛れ込んできたのが分かった。
焦り。
苛立ち。
そして、抑え込まれた痛み。
それらが混ざり合って、焦げた香りになっている。
(眠れない夜の匂い、だわ……)
彼は眠れていないのだろうか。
宰相としての重圧? それとも過去の記憶に苛まれているのだろうか。
壁一枚向こうの気配を意識した瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。
「……人の部屋の香りまで嗅ぎに行くなんて、最低だわ、わたし」
リシェルは自嘲するようにつぶやき、両手で顔を覆った。
香りの魔法は、便利だ。
真実を暴く鍵になりうる。
けれど同時に、知らなくてもいいことまで知ってしまう危うい力でもある。
暖炉には小さな火が残っている。
静かな炎の揺らぎと、木がはぜる音。
窓の外には、王都の遠い灯りが点々と揺れていた。
昼間に案内された隣室──調香室には、まだ手をつけていない。
今日一日、あまりに多くのことがありすぎて、心も体も、少し疲れてしまったのだ。
ネグリジェに着替え、髪をほどきながら、リシェルは深呼吸をした。
部屋の空気には、まだわずかに、バートラムの香りが残っているような気がする。
夕食の後、彼が直接ここまで案内してくれたときの匂いだ。
廊下を歩く彼の後ろ姿――背筋の伸びた長身、無駄のない動き、を思い出す。
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「……バートラム様は?」
「私の部屋は向こうだ」
右手側の扉を指さす。
「隣同士、ということですか?」
「宰相邸の構造上、ここが最も安全だ。君の役割を考えれば、何かあったとき、私がすぐに動ける位置にいなければならない」
安全のため──。
そう言いながら、彼の香りはほんの僅かに甘くなった。
気のせいかもしれない。
けれど、リシェルには、「君を守るため」と言われたようにも感じられた。
「一応言っておく。契約内容に、夫婦としての『務め』は含まれていない」
「……っ」
「気を揉む必要はないということだ」
あまりに直球すぎて、返す言葉を失った。
顔が一気に熱くなり、リシェルは視線をそらした。
「安心、しました。その……ありがとうございます」
「安心されるのは、男として、いささか複雑だが」
「え?」
「いや、何でもない」
その時の彼の香りは、確かに、微かに柑橘めいていた。
リシェルは今になって思い出し、ひとりで頬を押さえる。
(わたし、本当に『安心しました』って顔してたのかしら……)
冷静に考えれば、とんでもない失礼だ。
だが、同時に、彼の方も妙にストレートな物言いなのだから、お互い様だろう。
「……はあ」
小さくため息をついて、ベッドの縁に腰を下ろす。
柔らかなマットレスが身体を受け止め、緊張が少しだけ溶けていく。
そのときだった。
ふと、香りが変わった。
鉄と檜。
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隣の部屋からだ。
香りが壁をすり抜けるわけではない。
だが、長く空気を共有していると、薄く混ざり合うことがある。
リシェルには、今、自分の部屋の空気の中に、「隣の人間の感情」が紛れ込んできたのが分かった。
焦り。
苛立ち。
そして、抑え込まれた痛み。
それらが混ざり合って、焦げた香りになっている。
(眠れない夜の匂い、だわ……)
彼は眠れていないのだろうか。
宰相としての重圧? それとも過去の記憶に苛まれているのだろうか。
壁一枚向こうの気配を意識した瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。
「……人の部屋の香りまで嗅ぎに行くなんて、最低だわ、わたし」
リシェルは自嘲するようにつぶやき、両手で顔を覆った。
香りの魔法は、便利だ。
真実を暴く鍵になりうる。
けれど同時に、知らなくてもいいことまで知ってしまう危うい力でもある。
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