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第二章 氷の契約結婚 ― 宰相邸の花嫁
祈りの夜と、さわやかな朝
(触れてはいけない傷にまで、香りで手を伸ばしてしまう)
それが、怖くもあり、罪深くもある。
窓の外で、風が鳴った。
王都は眠らない街だが、宰相邸のある高台は、静寂に包まれている。
(……わたしにできることなんて、たいしてないのかもしれない)
王妃の陰謀。王都に満ちる嘘と野心。氷の宰相の過去の傷。
一つ一つが重くて、簡単には手が届かない。
けれど──。
「少なくとも」
リシェルは、そっと立ち上がった。隣の部屋との間にある壁に、一歩近付く。
壁に額を押し当ててみると、冷たい石の感触が伝わってきた。
そっと目を閉じる。
「どうか、今夜だけでも、あなたの香りが少しだけ穏やかになりますように」
誰にも聞かれない祈り。誰にも届かない言葉。
それでも、香りはきっと届く。
同じ空気を吸っているのだから。
リシェルは、自分の首筋に、ほんの少量の香水をつけた。
白百合と、雨上がりの空気。
再生と安らぎの香り。
そして、そのままベッドに横たわる。
ふわりと広がった香りが、部屋いっぱいに満ちていく。
(いつか、この香りが──)
焦げた鉄と檜に、少しだけ溶け込む日が来るのだろうか。
氷の宰相の眠れない夜を、少しだけ和らげる日が。
答えはまだ出ない。
今はただ、静かに目を閉じるだけ。
白百合の香りと、遠くの焦げた香りが、薄い夜気の中で混ざり合う。
それは、まだごく微かな変化だった。
リシェルはその中で、深く、長い眠りに落ちていった。
宰相邸の夜は、静かに更けていく。
氷の宰相の部屋から聞こえるわずかな衣擦れの音と、香りになりつつある、まだ名もなき予感だけを残して。
翌朝、リシェルは、久しぶりに「ぐっすり眠った」という感覚で目を覚ました。
薄いカーテン越しに差し込む光が、やわらかくまぶしい。
天井の模様も、壁の色も、昨日と同じはずなのに──心にまとわりついていた重さが、少しだけ軽くなっている。
(……ちゃんと、眠れた)
自分でも驚くほど、頭がすっきりしていた。
昨夜、壁越しに祈りながら放った白百合の香りは、果たして隣の部屋まで届いたのだろうか。
答えは分からない。
それでも、何もせずにただ怯えているだけの自分よりは、少し前に進めた気がした。
髪をまとめ、簡素な朝用ドレスに着替える。
洗面台に顔を寄せると、水の冷たさに身が引き締まった。
鏡に映る自分の顔は、辺境にいた頃よりも、ほんの少し色が戻っている。
瞳の奥に灯った微かな光を、リシェルは自覚した。
(追放された令嬢じゃない。今のわたしは──)
氷の宰相の契約妻。
そして、「香りの魔法師」として王都に戻ってきた女。
そう、言い聞かせるように微笑み、ドアを開けた。
それが、怖くもあり、罪深くもある。
窓の外で、風が鳴った。
王都は眠らない街だが、宰相邸のある高台は、静寂に包まれている。
(……わたしにできることなんて、たいしてないのかもしれない)
王妃の陰謀。王都に満ちる嘘と野心。氷の宰相の過去の傷。
一つ一つが重くて、簡単には手が届かない。
けれど──。
「少なくとも」
リシェルは、そっと立ち上がった。隣の部屋との間にある壁に、一歩近付く。
壁に額を押し当ててみると、冷たい石の感触が伝わってきた。
そっと目を閉じる。
「どうか、今夜だけでも、あなたの香りが少しだけ穏やかになりますように」
誰にも聞かれない祈り。誰にも届かない言葉。
それでも、香りはきっと届く。
同じ空気を吸っているのだから。
リシェルは、自分の首筋に、ほんの少量の香水をつけた。
白百合と、雨上がりの空気。
再生と安らぎの香り。
そして、そのままベッドに横たわる。
ふわりと広がった香りが、部屋いっぱいに満ちていく。
(いつか、この香りが──)
焦げた鉄と檜に、少しだけ溶け込む日が来るのだろうか。
氷の宰相の眠れない夜を、少しだけ和らげる日が。
答えはまだ出ない。
今はただ、静かに目を閉じるだけ。
白百合の香りと、遠くの焦げた香りが、薄い夜気の中で混ざり合う。
それは、まだごく微かな変化だった。
リシェルはその中で、深く、長い眠りに落ちていった。
宰相邸の夜は、静かに更けていく。
氷の宰相の部屋から聞こえるわずかな衣擦れの音と、香りになりつつある、まだ名もなき予感だけを残して。
翌朝、リシェルは、久しぶりに「ぐっすり眠った」という感覚で目を覚ました。
薄いカーテン越しに差し込む光が、やわらかくまぶしい。
天井の模様も、壁の色も、昨日と同じはずなのに──心にまとわりついていた重さが、少しだけ軽くなっている。
(……ちゃんと、眠れた)
自分でも驚くほど、頭がすっきりしていた。
昨夜、壁越しに祈りながら放った白百合の香りは、果たして隣の部屋まで届いたのだろうか。
答えは分からない。
それでも、何もせずにただ怯えているだけの自分よりは、少し前に進めた気がした。
髪をまとめ、簡素な朝用ドレスに着替える。
洗面台に顔を寄せると、水の冷たさに身が引き締まった。
鏡に映る自分の顔は、辺境にいた頃よりも、ほんの少し色が戻っている。
瞳の奥に灯った微かな光を、リシェルは自覚した。
(追放された令嬢じゃない。今のわたしは──)
氷の宰相の契約妻。
そして、「香りの魔法師」として王都に戻ってきた女。
そう、言い聞かせるように微笑み、ドアを開けた。
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