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第三章 閉ざされた心と香りの記憶
小さな一歩
宰相邸の執務室は、いつも書類の山だった。
羊皮紙の束、封蝋の赤、インク瓶の黒。重厚な机の上に幾層にも積み重なった書類を前に、バートラムは毎日何時間も過ごしている。その部屋に足を踏み入れるたびに、リシェルは独特の香りを感じた。焦げた鉄と檜。抑えた激情と孤独の香り。それがこの部屋に染み込んでいた。
「少しご提案があるのですが」
リシェルは書類の束を横にどけて空いた隅に、小さな香炉と瓶をいくつか並べながら言った。バートラムは羽根ペンを走らせながら、「聞こう」と目を書類に向けたまま答える。
「謁見の間の調香を、変えてみませんか」
今度こそ、ペンが止まった。
バートラムが顔を上げる。
「現在使われている香は、一般的な薔薇水と白檀の組み合わせです。悪くはありませんが、あの配合だと少し気持ちが重くなる効果があります。緊張を高めてしまうんです。もし、ラベンダーと柔らかい柑橘を基調にした香りに変えれば、場の空気が和らぎます。重臣たちも本音を出しやすくなる。結果として……嘘の匂いが薄れた時と濃くなった時の差が、私にはより分かりやすくなります」
長い沈黙。
バートラムはリシェルをじっと見た。値踏みするような視線ではなく、何かを測るような、思慮深い眼差しだった。
「試してみろ」
短い許可だった。けれど、リシェルの胸に小さな炎が灯った。
翌週の謁見で、リシェルが調合した香りが使われた。透明感のある柑橘とラベンダー、そこに微量の白い花の要素を加えた、穏やかで開放的な香り。謁見の場は不思議となごやかになり、国王は珍しく笑顔で意見を聞き入れ、謁見はふだんより半刻も早く終わった。
いつもは、後半になると、病弱な国王が疲れていらいらし始めるので雰囲気が悪化するのだが。その日はそういうこともなく、実りの多い対話が展開した。
その夜、バートラムは書類から顔を上げずに言った。
「君は、期待以上だ」
リシェルはこっそりと唇の端を上げた。
言葉の少ない彼から贈られた、まっすぐな賛辞。それは彼女にとって何よりも嬉しいものだった。
少し遅くなったが、と詫びめいたことを言いながら、バートラムはリシェルに侍女をつけてくれた。
「適切な人材を見つけるのに手間取った」
そう言いながら紹介されたのは、ベスという、二十代後半の細身の女性だ。黒い前髪をまっすぐに切り揃えており、いかにも「有能な侍女」らしく見える。――有能なメイド長なのに、まったくそんな風に見えないマルティナとは好対照だ。
「ベスは護衛も兼ねている。さる筋から紹介してもらった最高の腕利きだ」
「護衛、ですか……?」
リシェルはあっけにとられ、ぼんやりと聞き返した。
「諜報活動にも長けているから、調査が必要なら何でも頼むといい」
「よろしくお願いいたします、奥方様」
ベスは上品な物腰で、リシェルに深々と会釈をした。
よろしくね、と答えながら、リシェルは戸惑っていた。諜報活動を得意とする侍女など、いったいどうすればいいのか。
(バートラム様は……わたしに護衛が必要だとお考えなのね)
羊皮紙の束、封蝋の赤、インク瓶の黒。重厚な机の上に幾層にも積み重なった書類を前に、バートラムは毎日何時間も過ごしている。その部屋に足を踏み入れるたびに、リシェルは独特の香りを感じた。焦げた鉄と檜。抑えた激情と孤独の香り。それがこの部屋に染み込んでいた。
「少しご提案があるのですが」
リシェルは書類の束を横にどけて空いた隅に、小さな香炉と瓶をいくつか並べながら言った。バートラムは羽根ペンを走らせながら、「聞こう」と目を書類に向けたまま答える。
「謁見の間の調香を、変えてみませんか」
今度こそ、ペンが止まった。
バートラムが顔を上げる。
「現在使われている香は、一般的な薔薇水と白檀の組み合わせです。悪くはありませんが、あの配合だと少し気持ちが重くなる効果があります。緊張を高めてしまうんです。もし、ラベンダーと柔らかい柑橘を基調にした香りに変えれば、場の空気が和らぎます。重臣たちも本音を出しやすくなる。結果として……嘘の匂いが薄れた時と濃くなった時の差が、私にはより分かりやすくなります」
長い沈黙。
バートラムはリシェルをじっと見た。値踏みするような視線ではなく、何かを測るような、思慮深い眼差しだった。
「試してみろ」
短い許可だった。けれど、リシェルの胸に小さな炎が灯った。
翌週の謁見で、リシェルが調合した香りが使われた。透明感のある柑橘とラベンダー、そこに微量の白い花の要素を加えた、穏やかで開放的な香り。謁見の場は不思議となごやかになり、国王は珍しく笑顔で意見を聞き入れ、謁見はふだんより半刻も早く終わった。
いつもは、後半になると、病弱な国王が疲れていらいらし始めるので雰囲気が悪化するのだが。その日はそういうこともなく、実りの多い対話が展開した。
その夜、バートラムは書類から顔を上げずに言った。
「君は、期待以上だ」
リシェルはこっそりと唇の端を上げた。
言葉の少ない彼から贈られた、まっすぐな賛辞。それは彼女にとって何よりも嬉しいものだった。
少し遅くなったが、と詫びめいたことを言いながら、バートラムはリシェルに侍女をつけてくれた。
「適切な人材を見つけるのに手間取った」
そう言いながら紹介されたのは、ベスという、二十代後半の細身の女性だ。黒い前髪をまっすぐに切り揃えており、いかにも「有能な侍女」らしく見える。――有能なメイド長なのに、まったくそんな風に見えないマルティナとは好対照だ。
「ベスは護衛も兼ねている。さる筋から紹介してもらった最高の腕利きだ」
「護衛、ですか……?」
リシェルはあっけにとられ、ぼんやりと聞き返した。
「諜報活動にも長けているから、調査が必要なら何でも頼むといい」
「よろしくお願いいたします、奥方様」
ベスは上品な物腰で、リシェルに深々と会釈をした。
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(バートラム様は……わたしに護衛が必要だとお考えなのね)
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