追放された香りの令嬢は、氷の宰相に溺愛されています ~契約結婚のはずが、心まで奪われました~

夢宮るか

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第三章 閉ざされた心と香りの記憶

過去から届いた香り

 三日後のことだった。

 宰相邸の地下倉庫は薄暗く、石壁に染み込んだ年月の匂いがした。埃と古い木材、少しの鉄錆。リシェルが足を踏み入れたのは、調合に必要な硝子瓶の在庫を確認するためだった。
 燭台を掲げて棚を探していると、奥の隅に、他のものとは明らかに異質な匂いが漂っているのに気づいた。

 立ち止まって、深く息を吸う。

 花の香り。古い、けれど上質な――丁寧に調合された香水の残り香。埃の中に封じ込められた、誰かの記憶のような匂い。

 引き寄せられるように近づくと、棚の最奥に、小さな瓶があった。
 薄い青色の瓶。繊細な銀の細工が施された蓋。リシェルは手袋をはめた手でそっと瓶を取り上げた。傷一つない表面。大切に扱われていたことが分かる。

 蓋を開けると、香りが広がった。

 白い薔薇とムスク、そこに透き通るような鈴蘭。女性が調合した香りだ、とすぐに分かった。学術的な几帳面さではなく、感情を込めた丁寧な手仕事。この香りを作った人間は、香りが好きだったのだろう。本当に、心から。

 けれど。

 その香りの奥に、リシェルは別のものを嗅いだ。

 切なさ。そして、裏切られた痛み。
 花の香りに溶け込むように、消えかけた記憶の匂い。誰かを信じていたのに、その信頼が引き裂かれた時に残る、あの独特の冷たい感触。

 リシェルは静かに息を止めた。

 この香りを作った人は、最後に誰かに裏切られた。もしくは、守ってもらえなかった。

 そして、この瓶がここにある意味は――

「それには、触るな」

 背後から、低い声がした。

 リシェルは振り返った。

 倉庫の入口に、バートラムが立っていた。廊下からの燭台の光を背に受けているので、彼の表情はまったく見えない。けれど、その声の中には、リシェルが初めて聞く響きがあった。

 壊れそうなものを、かろうじて押し込めている、あの緊張感。

「……申し訳ありません」

 リシェルは急いで謝り、瓶を棚に戻した。蓋をして、元あった場所に静かに置く。

 バートラムは一歩も近づいてこなかった。ただ、扉の傍で、石の柱のように立ち尽くしている。

 倉庫を出るために彼のそばを通り過ぎる瞬間、リシェルは彼の香りを感じた。
 焦げた鉄と檜。いつもの香り。けれど今日は、その奥に別のものが混じっていた。冷たい灰の匂い。悲しみが時間をかけて燃え尽きた後に残る、静かな痛みの残滓。そして、刺すような自責の念。

 この人はかつて、大切な人を失った。おそらく、守れなかった。そしてそれを激しく悔やんでいる。

 リシェルは即座に確信していた。
 あの香水瓶は、亡くなった誰かのものだ。バートラムがそれをこの倉庫に封じ――そして、その人の死に、彼はいまだに囚われている。

(だから彼は氷の仮面をかぶっているのね。感情に流されると……また同じ過ちを犯すと恐れているから)

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