追放された香りの令嬢は、氷の宰相に溺愛されています ~契約結婚のはずが、心まで奪われました~

夢宮るか

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第三章 閉ざされた心と香りの記憶

初めての本音

 その夜遅く、リシェルは自室の小さな作業台に向かった。
 調香室とは別に――思いついたときにすぐに香りが作れるよう、自室にも簡単な道具と材料を置いてあるのだ。

 ランプの柔らかな光の中で、丁寧に素材を選ぶ。カモミールの穏やかな甘さ。ヒノキの静けさ。微量の白檀。それから、ほんの少しだけ、温かみのあるバニラ。
 この香りの名は「第六号」だ。リシェルがバートラムを思って作り、いまだに一つも渡せずにいる香りのうちの一つ。疲れた人間のための香りだ。戦い続ける人間が、夜だけ鎧を脱いでもいいと思えるような、静かな香り。

 調合しながら、リシェルは思った。

 あの香水瓶の香りには、裏切りの匂いが混じっていた。けれも、それ以上に切なさがあった。あの香りを作った人は、最後まで誰かを愛していたのだと思う。そして、バートラムはそれを知っていて、あの瓶を捨てられずにいる。

 問いただしたいわけではなかった。
 ただ、今夜だけでも、彼が少し楽になれたらいい。それだけだった。

 小瓶に詰めて、廊下に出ると、バートラムの執務室の扉の下から、まだ光が漏れていた。
 こんな時間まで。

 リシェルはドアをノックして、返答を待たずに少しだけ扉を開けた。

「リシェル……」

 バートラムが驚いたように顔を上げる。

「お疲れの時に」

 リシェルは小瓶を机の隅に置いた。彼の書類の邪魔にならない場所に。

「眠れない夜に、開けてみてください」

 それだけ言って、踵を返した。

「待て」

 バートラムの声が、リシェルの背中を引き止めた。

 振り返ると、彼は小瓶を手に取って、その蓋を見つめていた。ゆっくりと蓋を開けると、カモミールと白檀の香りが、暗い書斎にふわりと広がった。

 バートラムの瞳が、わずかに揺れた。

「……ありがとう」

 それは、本物の言葉だった。硬く磨き上げた言葉ではなく、素のまま、思わず漏れた声。

 リシェルの胸の中で、何かが静かに音を立てた。

「君は」と、バートラムは言った。「あれが何かと尋ねないのか。倉庫で見たものを」

 リシェルはしばらく考えてから、答えた。

「尋ねてほしいと思われるまで、待ちます」

 沈黙。

 ランプの光が揺れた。壁の書棚に二人の影が伸び、また縮んだ。バートラムは小瓶を手のひらに乗せたまま、しばらくそれを見つめていた。その顔は、リシェルがこれまで見た中で、最も静かな表情をしていた。

 氷が融けているとは言えない。まだ分厚い壁がある。
 けれど確かに、その表面に、一筋の亀裂が入った。

「……君は、強い人間だな」

 バートラムは静かに言った。非難ではなく、何か別のものを含んだ声で。

「いえ。強くありたい、とは思っていますが」

 リシェルは小さく微笑んで、扉を閉めた。



 廊下に出ると、深夜の屋敷の静けさが、急に重みをもって肩にのしかかってきた。リシェルは目を閉じ、深く息を吸い込んだ。

 バートラムの香りが、まだ指先に残っている気がした。
 焦げた鉄と檜。そして今夜は、その奥に微かに――カモミールの柔らかさが混じっていた。

 リシェルは廊下をゆっくりと歩きながら、思った。

 あの人の「本当の香り」を、いつかきちんと知りたい。

 それは義務でも使命でもなく、もっとずっと個人的な願いだった。それを自覚した瞬間、リシェルの頬にほんの少し熱が上がった。

 廊下の突き当たりにある小さな窓から夜景が見えた。月の光が街並みを照らし、銀色の影を落としている。どこかで梟が鳴いている。静かな、辺境の夜とは違う、王都の夜。

 リシェルは胸の中の小さな炎に気づきながら、急いでそれを打ち消そうとした。

(忘れちゃだめ。これはただの契約。お互いの利害のための、一年限りの取り決め。……感情なんか持ち込んだら、彼の迷惑になるし、わたしのためにもならない)

 それでも。

 彼が初めて素の声で「ありがとう」と言った瞬間の、あの灰色の瞳を、リシェルはしばらく忘れられそうになかった。

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