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第四章 王宮の陰謀 ― 毒と香水
胸が熱くなる、その言葉
夜会の主催者であるはずの王妃セレスティーヌは、なかなか姿を現さない。
それでも、会話は弾み、上品な笑い声があちこちで起こった。
宰相と話したいと願う者の数は多く。
バートラムはいつの間にか、誰かにつかまって遠くへ連れて行かれ、熱心に話しかけられていた。
リシェルは、一人になってしまった。
(困ったわ)
顔見知りは多い。けれども、もう、気軽におしゃべりできる間柄ではない。
リシェルと知人たちの関係は、あの夜、王太子が毒に倒れた瞬間で止まっているのだ。
向こうも声をかけづらいだろうし――リシェルも何を話せばいいのかわからない。
「まあ、宰相夫人。お久しぶりですわね」
耳に刺さるような女性の声が響いた。
ずいぶん度胸のある方がいらっしゃるのね、とリシェルが振り返ると。
ピンク色のドレスの女性が立っていた。
知り合いの侯爵令嬢だ。
友人と呼べるほど親しかったことはないが、まあまあ言葉を交わす仲ではあった。
彼女の香りは、変わらず濃密な花蜜と、わずかな酸味。
今は、そこに醜い好奇心と悪意が混ざっている。
「先日の舞踏会以来かしら。まさか、あの騒ぎの後で『宰相夫人』になっておられるなんて。世の中、何が起こるか分かりませんわね」
「ご機嫌よう。……世の中には、思いもよらないことが起こるものですものね」
リシェルは、穏やかな笑みを崩さずに返す。
だが、相手の目は笑っていない。
「宰相殿は、職務に忠実でいらっしゃるけれど、ときおり『情け』もおかけになるのですね。追放された令嬢を拾って奥方になさるなんて、まるで聖人のよう」
「……」
リシェルの胸の奥で、白百合がきゅっと香りを強めた。
甘く腐った蜜の匂いが、それを上書きしようとしてくる。
「もちろん、あなたの調香師としての腕は、折り紙つきですものね。殿下を『殺しかける』ほどの香りをお作りになったのですもの」
「──」
そこまで言われて、さすがに指先が冷たくなる。
周囲の貴族たちの視線が、じわじわと集まってくるのが分かった。
宰相の庇護。
拾われた令嬢。
──いかがわしい調香師。
言葉にされなくても、匂いで分かる。
この場の空気全体が、リシェルをそう規定しようとしていた。
「わたしが調香した香りが、誰かを傷つけるものになってしまったことは、一生忘れません」
声が、ほんの少しだけ震えた。
それでも、リシェルは視線を落とさない。
「けれど、だからこそ……二度と同じことが起こらないよう、香りでできることを探していきたいと思っております」
「あら、『反省している』とおっしゃるのね」
侯爵令嬢がわざとらしく肩をすくめる。
「でも、怖いですわね。これからどんな香りで、王城を満たされるのかしら。今度はどなたが倒れるのか……」
「そのような不謹慎な憶測は、おやめになった方がよろしいかと」
ひややかな声が割り込んだ。
冷えた風が、不意に吹き込んだような感覚。
リシェルは、反射的に背筋を伸ばして振り向く。
そこには、いつの間にかバートラムが立っていた。
焦げた鉄と檜の香りが、甘ったるい蜜の匂いを一気に切り裂く。
「宰相、さま……」
侯爵令嬢の顔色が変わった。
「ここは王妃陛下主催の夜会だ。王城で倒れた方を戯れに話題にするなど、不敬が過ぎる」
バートラムの声は、低く、冷たい。
決して大声ではないのに、周囲の者たちにしっかりと届く重みがあった。
「わ、わたくしは、そのようなつもりでは──」
「つもりがどうあれ、口にした言葉は戻らない」
灰色の瞳が、侯爵令嬢を静かに見下ろす。
その視線には、怒りの炎ではなく、凍りつくような圧力があった。
「それに」
バートラムは、そこで一度だけ言葉を区切ると、ゆっくりとリシェルの方を向いた。
「彼女は宰相夫人だ。私の妻を、軽率な噂で貶めることは許されない」
その言葉が放たれた瞬間、その場の香りが変わった。
甘く腐った蜜の匂いが、ぴしゃりと止まる。
代わりに漂ってきたのは、恐れと、畏怖と──好奇心。
それでも、会話は弾み、上品な笑い声があちこちで起こった。
宰相と話したいと願う者の数は多く。
バートラムはいつの間にか、誰かにつかまって遠くへ連れて行かれ、熱心に話しかけられていた。
リシェルは、一人になってしまった。
(困ったわ)
顔見知りは多い。けれども、もう、気軽におしゃべりできる間柄ではない。
リシェルと知人たちの関係は、あの夜、王太子が毒に倒れた瞬間で止まっているのだ。
向こうも声をかけづらいだろうし――リシェルも何を話せばいいのかわからない。
「まあ、宰相夫人。お久しぶりですわね」
耳に刺さるような女性の声が響いた。
ずいぶん度胸のある方がいらっしゃるのね、とリシェルが振り返ると。
ピンク色のドレスの女性が立っていた。
知り合いの侯爵令嬢だ。
友人と呼べるほど親しかったことはないが、まあまあ言葉を交わす仲ではあった。
彼女の香りは、変わらず濃密な花蜜と、わずかな酸味。
今は、そこに醜い好奇心と悪意が混ざっている。
「先日の舞踏会以来かしら。まさか、あの騒ぎの後で『宰相夫人』になっておられるなんて。世の中、何が起こるか分かりませんわね」
「ご機嫌よう。……世の中には、思いもよらないことが起こるものですものね」
リシェルは、穏やかな笑みを崩さずに返す。
だが、相手の目は笑っていない。
「宰相殿は、職務に忠実でいらっしゃるけれど、ときおり『情け』もおかけになるのですね。追放された令嬢を拾って奥方になさるなんて、まるで聖人のよう」
「……」
リシェルの胸の奥で、白百合がきゅっと香りを強めた。
甘く腐った蜜の匂いが、それを上書きしようとしてくる。
「もちろん、あなたの調香師としての腕は、折り紙つきですものね。殿下を『殺しかける』ほどの香りをお作りになったのですもの」
「──」
そこまで言われて、さすがに指先が冷たくなる。
周囲の貴族たちの視線が、じわじわと集まってくるのが分かった。
宰相の庇護。
拾われた令嬢。
──いかがわしい調香師。
言葉にされなくても、匂いで分かる。
この場の空気全体が、リシェルをそう規定しようとしていた。
「わたしが調香した香りが、誰かを傷つけるものになってしまったことは、一生忘れません」
声が、ほんの少しだけ震えた。
それでも、リシェルは視線を落とさない。
「けれど、だからこそ……二度と同じことが起こらないよう、香りでできることを探していきたいと思っております」
「あら、『反省している』とおっしゃるのね」
侯爵令嬢がわざとらしく肩をすくめる。
「でも、怖いですわね。これからどんな香りで、王城を満たされるのかしら。今度はどなたが倒れるのか……」
「そのような不謹慎な憶測は、おやめになった方がよろしいかと」
ひややかな声が割り込んだ。
冷えた風が、不意に吹き込んだような感覚。
リシェルは、反射的に背筋を伸ばして振り向く。
そこには、いつの間にかバートラムが立っていた。
焦げた鉄と檜の香りが、甘ったるい蜜の匂いを一気に切り裂く。
「宰相、さま……」
侯爵令嬢の顔色が変わった。
「ここは王妃陛下主催の夜会だ。王城で倒れた方を戯れに話題にするなど、不敬が過ぎる」
バートラムの声は、低く、冷たい。
決して大声ではないのに、周囲の者たちにしっかりと届く重みがあった。
「わ、わたくしは、そのようなつもりでは──」
「つもりがどうあれ、口にした言葉は戻らない」
灰色の瞳が、侯爵令嬢を静かに見下ろす。
その視線には、怒りの炎ではなく、凍りつくような圧力があった。
「それに」
バートラムは、そこで一度だけ言葉を区切ると、ゆっくりとリシェルの方を向いた。
「彼女は宰相夫人だ。私の妻を、軽率な噂で貶めることは許されない」
その言葉が放たれた瞬間、その場の香りが変わった。
甘く腐った蜜の匂いが、ぴしゃりと止まる。
代わりに漂ってきたのは、恐れと、畏怖と──好奇心。
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